〇神奈川県川崎市でイスラエルの軍事見本市が開かれている。最近はイスラエル人脈の浸透が著しい。安倍が締結した「日本・イスラエル共同声明」なる準軍事同盟の影響だろう。イスラエルは中国とも軍事協力している。まさに両建だ。福島原発のマグナの件を忘れてはならない。世界一信用ならない国である。
〇日本で堂々と軍事見本市を開くとは舐め過ぎである。まさに死の商人。日本にいた事もあるショール・アイゼンベルグがその代表である。中国の核開発にも関与したと思われる。【市の公共施設でイスラエルの軍事関連見本市。「全く問題ない」とする福田紀彦・川崎市長に市民反発 】https://hbol.jp/172679 〇安倍が「日本・イスラエル共同声明」なる「準軍事同盟」を締結して以降、コンピュータ・セキュリティ関係などでイスラエル人脈が対日浸透を図っている。以前から売国一味はシオニストの手先だったとはいえ、米国経由が主だった。それが最近は中東のイスラエルから直接乗り込んできている。注視すべき。 〇最近イスラエルの議会で「イスラエルは猶太人国家」と定める法案を可決した由。「民族自決権は猶太人にのみある」とする。本当に古代のパレスチナに住んでいた者達の子孫かDMA鑑定したら?と言いたくなる。子孫でも他人が住む土地を奪う権利はない。根本からおかしい『国』だ。https://www.bbc.com/japanese/44883320 〇その実「猶太人」とされる者達の殆どは古代パレスチナとは何の関係も無い「猶太教に改宗した者の子孫」だと思われる。「ユダヤ人の起源」という本は「ディアスポラ」は史実ではないとする。「パレスチナは猶太人の故郷」は「信仰」と捉えるべきである。信仰を押し付けて命や土地を奪うのはテロである。 〇イスラエルで非猶太教徒の中で唯一徴兵に応じ、非猶太人の中では最も社会的に優遇されてきたというドゥルーズ派はグノーシス主義的なイスラム教の一派との事。ドゥルーズ派は「猶太人国家法」で「裏切られた」と反発している由。シオニストとグノーシス派の同盟関係の決裂?http://www.afpbb.com/articles/-/3184987 〇ドゥルーズ派は中東に於いて現存するグノーシス主義の一派の一つだと言えるかもしれない。ニューエイジまがいの自称グノーシス主義者より本格的である。そのドゥルーズ派はイスラエルでは猶太人と「血の盟約」を結んでいるとの事である。元々グノーシス主義自体が猶太教周辺から出た思想の流れである。 〇現存するグノーシス主義の一派であるドゥルーズ派がイスラエルで猶太教徒と「血の盟約」を結んでいるという事実からして、「グノーシス主義=反猶太」とは言えない事は明らかである。グノーシス主義に執着する者がにわかに「猶太批判」をし出した事は笑止千万な現象であった。両建でしかない訳である。 〇イスラエルでは猶太とグノーシス派は「血」の同盟関係。引用:ドゥルーズコミュニティは、イスラエル多数派のユダヤ人と「血の盟約」を結び、ドゥルーズ派の男性はイスラム教徒やキリスト教徒のアラブ人とは異なりイスラエル国防軍における兵役義務がある。【ドゥルーズ派】https://ja.wikipedia.org/wiki/ドゥルーズ派 https://twitter.com/kikuchi_8/status/1028682795848151040 #
by kokusai_seikei
| 2018-08-26 14:02
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〇先日の補足。執着には必ず対象がある。感覚も思考も停止すると対象が無くなるので執着も無くなる。だが、生きている間は感覚は機能し、思考もする。なので、感覚や思考という「一本目の矢」には刺されても、執着という「二本目の矢」に刺されないように注意する事が釈迦以来の「仏道」の核心である。
〇「天台座主」を名乗った武田信玄に対して織田信長が名乗った「第六天魔王」略して「魔王」は「仏道を妨げる存在」。「仏道」とは「感覚・思考=眼耳鼻舌身意・色声香味触法の認識で生じる執着を断ち切る道」なので「魔王」は「執着を起こさせる者」の神話的表現と言える。現実的に言うと洗脳者である。 〇洗脳・思考誘導は全て「認識」に関わる。思想ツールを製造して流布する、視覚的シンボルを造形して刷込む、サタニズム的な音楽を流行させる等々。一言で言うと認識対象に対して生じる「欲」「執着」を煽る(「怒り」は事が思い通りにならない場合などに発するので欲の裏返し。欲と怒りは表裏一体。)。 〇シンボルや音楽は五感に関わるが、思想ツールは言葉(≒概念)と表象(イメージ)に関わる。概念的思考と表象作用は眼耳鼻舌身意で言うと「意」。眼耳鼻舌身という感覚と同様に意なる思考や表象も対象を持つ。概念や観念、イメージの類である。思想ツールは概念・観念・イメージで人を魅了し操る道具。 〇「思考」しても「執着」しなければ「洗脳」される事は無い。例えば、思想ツールの分析はその対象となる「思想」を明確に理解しなければならない。それは「思考」のプロセスである。だが、洗脳される盲信者との違いは「思考」に続いて「執着」が生じない事である。あくまで客観的な理解にとどめるのだ。 〇思想ツールの内容を「理解」するという思考プロセスまでは分析者も被洗脳者も同じだが、「思考」という認識作用に続いて生じる対象への「執着」の有無で違いが出てくる。被洗脳者は思想ツールに魅了され渇望し執着するので増々思想的洗脳が進むというスパイラルに入る。分析者は客観的な理解で止める。 〇俗に言う「ミイラ取りがミイラになる」とは、この場合で言うと思想ツールなどを批判的に分析しているつもりがいつの間にか対象に魅了されて自分自身がその思想を受け入れて盲信するに至る事である。戦前の猶太批判者の多くが辿ったコースである。猶太批判からいつの間にか日猶同祖論を信奉し親猶太化。 〇「影響されそうなので見ない」という判断が賢明な場合もある。分析力を真に身に着ける為には何を見ても聞いても考えても悪影響を遮断できる程の強靭な耐性が必要である。その面で不安を抱えた状態では思想ツールに取り込まれる恐れも無きにしも非ず。取り込まれなくても精神的打撃を受ける恐れもある。 〇その意味で陰謀追及者としての分析力を鍛える上で「対象の認識→対象への執着」という認識の過程を明らかにしている仏教の認識論は個人的には参考になった。「受」という感受作用の次に「愛・取」=渇愛・執著が生じると分析するので、感覚と思考を含む受=感受作用に第一に気を付ければよいと分かる。 〇知識があれば思考誘導を防止できるとは限らない。インテリから真っ先に洗脳されたという歴史的事例は多い。思想などの対象を認識しても鵜呑みにしたり引き込まれたりする事なく、ワンクッションを置いて距離を取り、執着する事なく客観視する姿勢が重要である。知識はその姿勢があってこそ活きてくる。 〇一つの思想に執着すると、その思想に釘付けになって絶対視する事になるので、その思想を相対化する事が出来なくなる。これを防ぐには多様な思想について一応幅広く知っておく事も大事である。ある思想が全体の中でどこに位置付けられるかが見えるので相対化でき、一つの思想を絶対視する事もなくなる。 〇フリーメイソンの300周年の式典の様子がユーチューブにアップされていた。あれはまさに「眼耳鼻舌身意」をフル動員する儀式である。秘密結社の儀式は五感・表象・思考のフル動員で思想を刷込む過程だと言える。視覚的シンボルや演劇的な趣向、壮大な音楽などで五感をフル動員して結社の思想を刷込む。 〇結社は五感をフル動員する参入儀礼を行う事で新規参入者が容易に裏切れないように精神的な錠前を掛けるのだと分析している。視覚や聴覚を通したシンボリックな「死と再生」の儀式、「死」への恐れ、「再生」の喜び。これらは全て眼耳鼻舌身意という認識とそこに生じる快不快の反応を出るものではない。 〇何かを認識したら【快・不快・どちらでもない】という反応が生じる。快に対しては欲が、不快に対しては怒りが生じる。「死と再生」の儀式に於いて、参入者を「死」や「闇」という不快に直面させて動揺させ、次に「再生」の喜びという快を享受させる。ここに堅固な結社への忠誠心=強烈な執着が生じる。 〇即ち「①対象を認識する→②対象に快・不快を感じる→③快には欲を、不快には怒りを生じる→④欲・怒りが増長し凝り固まると執着になる→➄認識対象に意識が縛り付けられる→⑥心の自由を失う→⑦結果、隷属心が昂進し、独立的思考、冷静な観察力・判断力を喪失」という認識論的過程を起こすと分析。 〇何かを認識すると欲や怒りが生じ、欲や怒りが増長すると執着になる。ところで龍樹は煩悩の原因は言語作用だとした。思うに人間の全ての認識には大なり小なり言語が関わっているからだろう。感覚的対象の認識にも言語が関わる。言語によって対象が明確になり認識が固定される。「それはりんごだ」など。 〇欲や怒りは言語で強化される。例えば純粋に機能的に見ると生命を維持する為の食べ物も「なんておいしそう」「大好物」「流行の」「高級だ」「インスタバエする」などの言語を伴う事でその食べ物に対する欲は増大する。むしろ食欲を超えてそれらの言葉、概念、記号への欲と言った方がいいかもしれない。 〇逆に怒りの場合も同じである。他人から嫌な事をされても現象としてはその一瞬であるが、それを記憶し、何度も思考して繰り返して思い出して嫌な気持ちを再生する。そこには言語が伴う。「あいつは許せない」「理不尽だ」「いつか仕返ししてやる」等々の言葉が反復される。これにより怒りが増強される。 〇このように欲や怒り、執着には言語が関係する。だから龍樹は言語の分析を重視した。言語は思考だけではなく五感の認識にも関係する。感覚的には「赤い丸いそれ」(これ自体言語表現だが)を「りんご」として認識する。認識のこの「として」構造を廣松渉の認識論では「対象の二肢的二重性」と言った。 〇このように欲や怒り、執着という感情と言語機能は密接な関係を持っている。ストア哲学はロゴスの機能は理性にのみ関わり、パトスたる感情とは対極にあるとするが、これは事実に反する。言葉で感情は増強されるのである。だから龍樹は煩悩の原因を言語、正確には言語が示す概念の実体視にありとした。 〇ある禅僧が「涅槃の定義について経典には何も確固たる事は書いていない」と書いていたが、実際は一番古い仏典の一番古い章に「この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。」という極めて明確な定義が書いてある。 〇最古の仏典スッタニパータの中でも第五章「彼岸道品」は最も古く成立した章だと言われている。そこに前述の明確な「涅槃」の定義がある。神秘性や曖昧さのない明確な「涅槃」の定義は他にもある。「貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅」「渇愛を滅しつくす」などである。これは全て認識作用に関わる。 〇「見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地」の「見たり~識別した」は一言で言うと「認識」。「認識した快美な事物に対する貪欲を除き去る」。欲望や貪りに認識が先行する。認識に関わるのが言語。言語で認識が明確に分節し固定する。 〇「認識した快美な事物に対する貪欲を除き去る」なので「貪欲」という感情には認識作用が先行する。廣松渉の認識論で言う「認識対象の二肢的二重性」からして認識作用には言語が大きく関係する。ストア派の主張とは異なり、ロゴス(理性、言語)とパトス(感情、情念)は対立物ではなく相互に関係する。 〇鈴木正三が書いた「実有の見」(実体観)とは廣松渉の認識論で言うと「所識の物象化的錯視」である。所識とは感覚対象等の所与に被せる概念である。例えば五感で認識した「赤い丸いそれ」が所与だとすると「りんご」が所識である。この所識=概念の自存視が「実有の見」「所識の物象化的錯視」である。 〇江戸初期の思想家と昭和期の哲学者が認識論的にほぼ同じ事を言っている訳である。これは「無実体論」「空観」という日本及び東洋の思想史的伝統に拠るものだと見ている。正三は倶舎論や三論・法相を学び、廣松は中観を参考にした。廣松に影響を与えたマッハの認識論は倶舎論の認識論とそっくりである。 〇先述の禅僧は「世の中の思想は仏教とそれ以外しかない」と書いていたが、これは「実体論と非実体論しかない」という意味なので妥当だと思われる。言語機能が問題だとするのは素晴らしい視点。明治以後の僧は倶舎・三論・法相という哲学を学ぶ習慣が無くなったのでこういう哲学的思考をする人は少ない。 〇だが、「仏典は確固たる『涅槃』の定義をしていない」というのは明らかに事実に反する。「認識対象に対する欲望や貪りを除き去る」「貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅」「渇愛を滅しつくす」など曖昧さのない明確な定義が書かれている。「涅槃の定義はない」などと言うからいたずらに神秘化される。 〇後半はちょっと読書感想文めいてきたが、言いたい事は感情と認識の関係、認識と言語の密接な関係である。客観的な思考に止める分析者と思考に執着を生じる被洗脳者の違い、認識対象に縛り付ける結社の儀式=洗脳技術等を論じたので、それらの認識論的な機制をさらに掘り下げておこうと思ったのである。 〇暗闇の中で料理を食べても味がよく分からないと聞いた事がある。「おいしさ」には味覚だけではなく視覚的要素も影響を与える訳である。ここに言葉≒概念や表象=イメージも加わると思う。味は正真正銘ソフトクリームでも「ク・ソ〇ト」というネーミングで「おいしい!」と思えるかは人によるだろう! 〇このように「認識」とは視覚や聴覚などの五感、言葉≒概念を伴う思考、表象=イメージなど複合的な要素が合致して成り立つもの。これらの要素を「一つの認識」としてまとめる中心的な働きをするのが言語である。だから「一つ」のモノとして認識された対象への執着も「=言語への執着」という面がある。 〇複数の感覚的要素のまとまりに名前を与えると分節化して「一つのモノ」として認識される。だが、これはあくまで仮の事である。名称が示す「それ自体で存在する(形而上学的な)実体」が実在する訳ではない(少なくとも認識可能領域には)。現実に存在するのは複数の感覚、思考、表象の複合現象である。 〇何故「無念無想」が「悟りの境地」みたいに言われるのかというと認識対象である概念や表象(イメージ)が消えると、執着の対象が無いので必然的に執着も消えるからだろう。だが、執着が無ければ概念や表象があっても別に問題はないはずである。だから、概念や表象を消すより執着しない事が大事である。 〇「無念無想」だと思考ができないので分析ができない。分析者として重要なのは「執着を伴わない、対象に引きずり込まれない冷静な思考」である。なので陰謀追及者としては無念無想よりミイラ取りがミイラにならないように「思考しても思考対象に執着しない」ような耐性を身に着ける方が重要だと考える。 〇目をつぶると見えないし、耳をふさぐと聞こえない。対象が無いので「見える対象」「聞こえる対象」への執着も生じない。思考は目をつぶっても耳をふさいでも生起する。思考も認識なので対象が存在する。思考の認識対象は概念や表象である。対象がある以上執着も生じる。思考を停止すると執着も消える。 〇このように目をつぶったり耳をふさぐ事と思考を停止する事は同じである。つまり認識作用の停止。認識作用が止まると認識対象が消えるので執着も生じない。だが、生きている以上は見て、聞いて、考える。執着を断つ為に認識作用を停止させるより認識しても執着を生じないよう注意する方が合理的である。 〇熊本地震で毀損した熊本城が修復中であるが、おかしな形にならなければよいが。祇園祭に「光のピラミッド」が出ていたが、結社のシンボリックなデザインにしようとしているのなら許しがたい。憑依型戦術は「思想」だけではなく「形」もターゲットになる。文化財の形は具体的に表れた先人の心である。 〇日本の伝統的な祭りに何故「光のピラミッド」が?結社は伝統に憑依し視覚的な「形」「デザイン」を駆使したシンボリズムで存在を誇示する。このようなシンボリズムも全て「認識」に関わる。だから「認識」に気を付けないといけないのである。シンボルに気づき「受け入れない」という意思表示をすべき。 〇バラモン教の「解脱」は梵我一如の神秘的境地とされるが、仏教の「涅槃」は「貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅」と明確に定義される。愚痴とは「欲をかいたり怒り過ぎるとろくな事が無い」という事に心から納得していない無知な状態。無知だから過剰な欲や怒りが生じる。貪瞋癡は相互に密接な関係。 〇ユネスコの無形文化財に登録されたという祭りに「光のピラミッド」が登場。ユネスコ創設に大きな影響を及ぼしたのが神智学協会。この祭りは「1803(享和3)年に疫病退散を祈願して始まった」と書かれているが「光のピラミッド」山笠もその当時からあったのだろうか。https://mainichi.jp/articles/20170723/k00/00m/040/108000c 〇「光のピラミッド」と形容される山笠が江戸時代からあったのか否か。仮にあったとするとそれを「光のピラミッド」という言葉で表現する事自体が憑依型戦術である。日猶同祖論のようにたまたま形が似ているものを「同じ」とするやり方。いずれにしても視覚と概念に関わる。これも全て「認識」である。 〇シンボリックな造形をして紛れ込ませるか、たまたま形が似ている事に付け込んで「光のピラミッド」などとラベルを貼り付けるか、である。いずれにしろ何らかの形で伝統文化に絡みついて改竄し破壊しようとする憑依型戦術である。造形は視覚という感覚・知覚に、ラベルの貼り付けは思考・概念に関わる。 https://twitter.com/kikuchi_8/status/1031936092163862529 (了) #
by kokusai_seikei
| 2018-08-26 13:13
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〇南朝団体「大日本皇道立教会」の会員には創価学会創設者の牧口常三郎(出口王仁三郎と親戚という説も)や児玉誉士夫らがいた。自民党の前身である自由党の結党資金を出したのが児玉なので、ある意味「大日本皇道立教会」は自公政権のルーツと言えるかもしれない。統一・創価・大本の根は同じだと見る。 〇「堀川政略」など、「南朝」は大本系派閥の思想ツールでよく使われるトピックの一つである。南朝側には真言立川流の中興の祖とされる文観という妖僧がいた。真言立川流はクロウリー一派みたいな印度のタントラに影響を受けた西欧のオカルト魔術に通じる面があるので、その辺も多用される原因だと見る。 〇大日本皇道立教会には大本教と組んだ頭山満や内田良平もいた。このように大日本皇道立教会は自公政権の人脈的ルーツの一つであると同時に大本系人脈とも繋がる、今に至る日本国内の裏権力人脈の縮図の観がある。戦後はここに朝鮮半島系の統一が加わった。これが「統一・創価・大本の根は同じ」の意味。 〇日本国内の裏権力人脈は「親米派(グローバリズム派。ロックフェラー系)の統一協会系人脈VS親欧州派(世界連邦派。ロスチャイルド系)」という両建構造だと分析する(※両建でありロス・ロック対立論ではない)。創価は前者と組んでいるが、南朝団体や教祖同士の親戚説など後者との関係もあり得る。 〇TPP、種子法廃止、水道私営化など、数々の壊国政策を推進してきた自公政権は目下日本の最大のガンである。野党側も両建の一角ではあるが、現に与党として壊国を進めている「現行犯」と、これから壊国をやるかもしれない「犯罪者予備軍」なら「現行犯」への対処を優先させるのは当然の事。自公は退場! 〇児玉らに言及したついでに所謂「右翼」について。日本の右翼は戦前から大体において親猶太的だった。大川周明は上海の猶太財閥と関係があったという話もあるし、満川亀太郎は「猶太禍の迷妄」という猶太擁護本まで出した。石原莞爾は猶太利用論者。戦後に台頭する笹川良一もしかりで、児玉はその子分。 〇戦時中にはナチスの影響を受けてにわかに猶太批判者が増えたようだが、右翼は概ね親猶太的傾向だった。なので以前は「親猶太か排猶太か」を見極めのポイントと考えたが、最近はにわかに猶太批判者?が増えてきたので基督教や西洋神秘主義(オカルト)との関係如何も重視な見極めポイントにしている。 〇戦前の猶太批判は一部の本格的な研究を除きナチスの影響による時局便乗か、基督教シンパ、日猶同祖論系(批判と見せて擁護)、オカルトや偽史とのセット売りが多かった。国際政経学会も殆どがそれ。今のネットの猶太批判ブームもその焼き増しに見える。今も昔も基督教やオカルトの同時批判が判断基準。 〇戦後の猶太批判は旧約聖書批判を抜かしたタルムード批判特化型が多い。これは聖書批判ができない西欧の基督教徒の理論の移植の可能性が高いと見ている。この流派では宇野正美氏が代表的論者である。戦前にも「世界攪乱の律法タルムード」という本が紹介されていたが、旧約聖書の批判もなされていた。 〇宮廷猶太人の時代から猶太資本家と基督教貴族や石屋、教会組織は一体である。基督教貴族で石屋のクーデンホーフ=カレルギーの妻は猶太人。「基督教は猶太に乗っ取られた」という主張があるが、猶太教のトーラーを旧約聖書の基幹部分として聖典の一部にしているので「元から」と考えるべきであろう。 〇「右翼」で思い出したので色々書いた。戦前の右翼は概ね親猶太的傾向が強かったので、ツイッターを始めたくらいの頃は「親猶太か否か」で走狗か否かが大体判断できると思っていたが、これ程猶太批判がポピュラーになってくるとそう単純でも無くなった。基督教やオカルトとの関係も考慮すべきである。 〇ポピュラーという事はそれだけ人為的なテコ入れの可能性もあるという事。オカルト被れが急に「ゆだや」言い始めるのはどう考えても「変」。昭和戦前期には猶太批判がある意味で隆盛したが、大体は同祖論やオカルトとセットものが多かった。今はそれの再来の観。当時と同様に本物の鑑識眼が必要な時代。 〇昭和戦前・戦中期はそれなりに猶太やフリーメイソンへの批判が盛んだった。だが、オカルトや基督教、偽史(日猶同祖論、神代史など)とのセットが多かった。今のネット言論の状況はそれに酷似している。陰謀について盛んに語られているが、様々な思想ツールが混入して思考誘導も行われているのである。 〇過去の思想状況を把握しておく事は誘導言説の類に惑わされるのを防止するのに有効である。例えば「日本は白村江の戦の後に唐に占領された」説は八切止夫氏の説と知っておけば別に驚きはしない訳である。偽史をトンデモと馬鹿にしてろくに調べもしない人ほど初めて聞く珍説奇説に引き込まれる恐れあり。 〇出口王仁三郎の猶太論は「ユダヤは神の選民で、艮の金神が道具に使っていられる。ユダヤは悪に見せて善をやるのや。」みたいな擁護論であるし、基督教牧師の酒井勝軍は猶太批判に見せて終いには「天孫民族日本人と神撰民族猶太人の神聖共同統治」などという日猶同祖論的誇大妄想を唱える始末であった。 〇犬塚惟重は親猶太的で戦後は「日猶懇話会」という団体の会長になり日猶同祖論を広めた。山本英輔海軍大将に至っては四国の剣山で「アーク」探しを行っている。こんなのばっかりなのである。二番煎じの現代のネット言論はそれをさらに劣化コピーさせたような代物である。陰謀研究の鑑識眼が必要である。 〇思想工作員が使う思想ツールの原型は戦前戦中戦後を含めた昭和期に大体出揃っている。現代の思想工作員はそれらのネタ元を隠して使い回しているに過ぎない。戦前派の右派カルトは出口王仁三郎や酒井勝軍らのオカルト言説を使うし、戦後派の左派カルトは赤軍派が利用した八切止夫説を使う傾向がある。 〇八切止夫の「白村江の戦の後に日本は唐に占領された」説は氏の「神の徒である日本原住民と仏教徒との戦い」という反仏教史観から考え出されたと思われる。神道系カルトの源流である平田派の世界観に近い。「日本は世界の中心」という自尊史観と「日本は大昔に滅びた」という自虐史観の距離は実は近い。 〇「日本は超古代から世界の中心」という史観と「日本は古代に滅亡した又は占領された」という史観は偽史界の左右両建構造だと言える。前者は戦前派で、後者が戦後派である。極端な自尊と極端な自虐は同根で容易に反転する。仏教を敵視するあまりかえって西洋舶来の基督教に近づくという点も似ている。 〇八切氏によると「源平藤橘」の内、藤原は「藤(とう)」なので「唐」、橘は「橘(きつ)」なので契丹、源氏は「源(げん)」なので「元」、平氏は「平(へい)」なのでペルシャ、らしい。語呂合わせである。日猶同祖論と同じ。八切氏は自説を開陳しただけだが、ネタ元を隠す思想工作員のやり方は悪質。 〇八切止夫氏の説が陰謀追及界隈に広まったのは太田龍氏の影響だと思われる。太田龍氏は時期によって言説が目まぐるしく変わり、その時々で色々な論者を絶賛するので、それを鵜呑みにして影響を受ける人が多かったと思われる。例えば晩年の太田氏の愛読者はデイビッド・アイクの信奉者が多いと推測する。 〇孟子曰く「悉く書を信ずれば則ち書無きに如かず」。何かを読んでも鵜呑みにしてはダメ。陰謀系書籍なら尚更だ。太田龍氏は岡潔や胡蘭成を絶賛した。両氏の著作は文庫で刊行されており内容はまとも。一方で太田氏は法輪功を絶賛した。これは明らかにおかしい。中共と法輪功は両建と捉えるべきであろう。 〇大陸は大東社系の中国共産党に支配され、台湾には英米系石屋で基督教に改宗した蒋介石が率いる国民党がなだれ込んできた。中国文化圏も我が国と同じで真の意味で伝統的な思想家が希少だと思われる。章炳麟が伝統的思想家だったが、国民党幹部出身ながら大陸も台湾も追われた胡蘭成もそうだったのかも。 〇純粋な国風を求めるあまり仏教を過剰に敵視し、かえってキリスト教的世界観に接近し、しまいには西洋の手先になる、という通弊が平田派の昔から存在する。その具体的な表れが廃仏毀釈であり、これは戦国時代の切支丹の所業と同じものであった。国粋のつもりが逆に日本文化を破壊する結果になったのだ。 〇仏教は元から日本人にマッチする思想だと考える。釈迦の父の名「浄飯王(スッドーダナ王)」で分かるように釈迦族は農耕民であり、釈迦の生誕時には「お宮参り」をしたという話が伝わっている(中村元氏の本で読んだ記憶あり)。日本人と似た習俗の中で育った釈迦の思想が日本人に合うのも道理である。 〇既成の文化や異なる考え方を頭ごなしに否定したりはせず、巧みな比喩や方便を用いつつ、やんわりと穏便に、しかも論理的に道理を説いて相手を説得しようとした釈迦の姿勢は日本人の気質に合う。だから神仏習合も円滑に進んだ。日本人の気質に合わない基督教と組んで仏教を破壊するのは本末転倒である。 〇釈迦の直接の教えに忠実な形となると南方の上座部仏教を第一とするが、鴨長明の「仏の教へ給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり」という文に表れているように「認識した対象に執着するなかれ」という仏教のエッセンスは日本に伝わっている。また印度仏教の唯識が生きた伝統なのは今や日本だけである。 〇儒学はどうか。孔子が理想とした周王朝は秦以後の中央集権的王朝と異なり諸侯の自立性が強い封建制である。日本は律令制崩壊後明治まで多元性が強く強力な中央集権制は明治まで成立しなかった。江戸時代も各藩の自治性が強かった。孔子が想定した社会システムに近いのは中国より日本だと思うのである。 〇スッタニパータ506「祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清らしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。かれはここに安立して邪悪を捨てる。」 507 「かれは貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起して、日夜つねに怠らず、無量の(慈しみの)心をあらゆる方角にみなぎらせる。」 〇スッタニパータの506と507は神道の考えとしてそのまま通用するような教えである。「貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起して」つまり「心を清く正しく保ち暖かい気持ちを持つ」という生き方は日本人の気質に適合する哲学である。元から合うので神仏共存・神仏習合が円滑に進んだのも道理。 〇このように釈迦や孔子の教えは日本人の気質に適合するからこそ日本文化の形成に大きく寄与した訳である。合わないモノを無理やり移植した訳ではない。取捨選択しながら主体的に消化したのである。純粋な国風を求めるあまり、仏教や儒学を完全に排除しようとすると逆に日本文化を弱体化させてしまう。 〇永禄8年(1565年)に正親町天皇の綸旨として朝廷から出された日本最初の伴天連追放令は「大うすはらい」と言った。即ち「でうす払い」である。「デウス」なる造物主概念を信仰する徒=キリシタン。明治以後もそのまま「デウス」と表現していれば思想的混乱は生じなかったはず。憑依型戦術にやられた。 〇自尊史観も自虐史観も偏っている。我が国の現状を批判せずしてなす盲目的な日本賛美は逆に壊国に手を貸す事になる。だが、一方で、それに反発するあまり「日本の悪口を言うのが正義」みたいになるのも偏っている。自尊も自虐も避け、悪い所は正し良い所は守るという中道の精神を持って取り組みたい。 〇以前も言ったようにこの「中道」は「中道主義」「どっちつかず」「中間」「ニュートラル」ではない。「道に中る」と書いて「中道」。具体的な状況の中で、道理と事実に適合する適正・中正な判断をし対応する事である。中道の為には良識やバランス感覚を養う必要であると思う。https://kokuhiken.exblog.jp/29645757/ 〇伴天連追放文に表れた江戸初期の理論家の思想的センスは基督教の影響を受けつつ基督教に対抗するという矛盾を犯した明治以後の多くの思想家と雲泥の差がある。鈴木正三の破吉利支丹も優れた論文である。正三は切支丹は「実有の見」今の哲学用語で「実体観」を起こして妄想分別を増長させると批判した。 〇徳富蘇峰の「近世日本国民史」に伴天連追放文が全文引用されているが、蘇峰は「禁令としては、如何にも陳奮漢だ。而して禁令の理由として、何等さしたる条理もない。」と散々な論評をしている。これが伝統思想を捨てた明治の思想家の感覚である。蘇峰は後に棄教したが、プロテスタントに入信していた。 〇鈴木正三は「キリシタン教ゆるところは、実有の見を専らとして、念慮識情を増長し、天地の作者を造り立て、輪廻の業を重ねて、 是を成仏道とおもへり。」と書いた。実体観を立て観念に執着すると形而上学的な思考が空転し、執着や欲や怒りが増長し悪行為が生じる、という実体思想の核心を突いた批判。 〇「実体を立てる→思考が紛糾する→対象への執着が生じる→欲や怒りが生じる→不当な行為が生じる」という実体観の陥穽を的確に批判するなど江戸時代の思想家のレベルは非常に高い。明治以後は退化したとしか思えない。正三のキリシタン批判は基督教だけでなく、西洋の実体思想全般に通じるものである。 〇鈴木正三は「破吉利支丹」で「近年来るバテレンども更に天道の恐れもなく、私に天地の作者を作り立て、神社仏閣を滅却し、この国を南蛮へ取るべき謀を以て様々虚言して、人をたぶらかす」と伴天連の正体を看破している。「天地の作者」とは基督教の造物主概念である。神仏と全く異なる概念だと分かる。 〇基督教原理主義者と自称グノーシス主義者の性質が似すぎていて笑ってしまう(笑)〇異なる考えに対して怒りが抑えられず執拗に絡む。〇独善的で上から目線な態度等々。不可解なのは彼らは相互に敵視しているはずなのに何故か直接相互に攻撃し合わない事。両方批判する者ばかりを狙ってくる。やはり両建。 〇何故「実有の見(実体観)」を専らにすると執着が増幅するのか。思考と執着は相互因果関係があるからである。思考は言葉・概念を使って行われる。「実体」とは言葉・概念を自存視したもの。したがって「実有の見」に固執し続けるという事は言葉及び言葉を使う思考に執着し続ける事を意味するのである。 〇思考は感覚と同じく対象を持つ(感覚も思考も認識作用)。認識対象には「快・不快・どちらもない」という感情価がある。快・不快の対象を認識すれば欲や怒りが生じる。快・不快の対象を思考し続けると欲や怒りが増幅する。これが正三が「実有の見を専らとして、念慮識情を増長し」と言った意味である。 〇感覚は一瞬のものだが、感覚を受け取り消えた後でも概念を用いて思考しイメージする事でその感覚に対する執着が維持される。また感覚と関係ない思考も必ず対象を持っており、思考すればする程その対象への執着が増幅する。例えば憎い相手が目の前にいなくてもその相手について考えると憎しみが生じる。 〇また執着するから思考するとも言える。自分に都合がいい世界観を作るのは執着があるから。逆に、その世界観について思考する程執着が増す。このように執着が思考を生み思考が執着を生む。過剰な執着を制し道理と事実(理と事)にのみ基づく執着で歪められていない思考だけが真っ当。これも中道である。 〇正三は切支丹が奇跡などの奇特を有り難がるのを「奇特なる事貴きならば、魔王を尊敬すべし。 この国の狐狸も奇特をなす」と批判。そして「仏の六通」とは「眼耳鼻舌身意で何を認識してもその対象に執着しない事」だと言う。原始仏教と同じ考えだ。「正法に奇特なし」と。まことに合理的な考えである。 〇原始仏典に「見たら見たまま、聞いたら聞いたまま、嗅いだら嗅いだまま、味わったら味わったまま、触れたら触れたまま、考えたら考えたままで、客観的な認識で止めて、そこに渇愛と執著を起こさなければそれが解脱だ」という趣旨の文言が繰り返し出てくるが、正三の言う「六通」はまさにこれである。 〇また阿含経典に凡夫と阿羅漢の違いを「二本の矢に刺されるか、一本の矢に刺されるか」という喩えも出てくる。「二本の矢に刺される」とは何かを感受し、その上渇愛・執著を生じて精神的に苦しむ事である。「一本の矢に刺される」とは感受したら感受したままでそこに渇愛・執著→苦を生じない事である。 〇このように鈴木正三の「仏の六通と云ふは、眼に色を見て碍(さは)らず、耳に声を聞いて碍らず、鼻に香をかぎて碍らず、舌に味をなめて碍らず、身に触れてさはらず、法界に在りて万法にさはらずして、鏡に影の移るがごとし」という考えは原始仏教の趣旨と一致する。奇特を否定する合理的な教えである。 〇「切支丹の奇跡崇拝は魔王崇拝と同じ」「狐や狸の化かし合いと同じ」とは本質を突く鋭い批判である。ここで言う「魔王」とは「仏道修行を邪魔する第六天魔王」(織田信長が名乗った事で有名)の事だと思われるが、西欧の「魔王」でも同じである。基督教と悪魔教は表裏一体のもの(両建)だからである。 〇「第六天魔王」とは「仏道を妨げる存在」とされる。仏道修行とは「眼耳鼻舌身意と色声香味触法への渇愛・執著を断ち切る事」。あるいは「色受想行識=五蘊への渇愛・執著を断ち切る事」。即ち認識対象への執着を断つ事。逆に言うと魔王とは「対象に執着を起こさせる者」。謂わば洗脳者。結社員と同じ。 〇自分の頭で考えない事を「思考停止」と言うが実は「思考停止」するのは非常に難しい事である。人間は起きている間は常に思考している(大半はどうでもいい思考)。だから上座部仏教の僧侶は「思考停止したら悟れます」と言う。本当に思考を停止すると執着もなくなるのでそれが「解脱」という訳である。 〇独立的思考をしない事を「思考停止」と言うのはあくまで比喩表現であり、実際は「隷属的思考」「思考誘導」である。本当に思考が停止すると感覚が機能しているだけで余計な欲や怒りが生じないはずである。それに対して洗脳されたりして思考誘導されている状態だとろくでもない思考が空転するのである。 〇好きなもの、嫌いなものを知覚しなければ欲や怒りは生じず心は平穏である。それと同じで好きな対象、嫌いな対象を思考しなければ欲や怒りが増長せず心は平穏である。五感と表象・思考を同じ認識作用として同列に考えている点が仏教の認識論の優れた点だと考える。西洋哲学では感性と知性は峻別される。 〇猶太教徒は「モーセの奇跡」は「神の力によるもの」で同時代のエジプト魔術は「悪魔の力によるもの」とする。基督教徒は「イエスが水上を歩いた」のは「神の奇跡」で、シモン・マグスの術は邪悪な魔術だとする。「同じである」というのが猶太・基督教文化圏外にいる日本人・鈴木正三の客観的な観察だ。 〇スシーマ(須尸摩)という阿含経の相応部経典がある。スシーマという行者が比丘達に仏陀の教えで「過去や未来が見えたり、他人の心が見えたりする神通力が得られるのか?」という趣旨の質問をする。比丘達は「そうではない」と答える。仏陀はスシーマに「五蘊の無常を観じ離貪・解脱する事」を教える。 〇スシーマの比丘達への質問項目の中にに「水上を歩く事」があった。つまり「イエスの奇跡」は印度では只の魔術であった。だから鈴木正三は「奇特を有り難がるのは魔王を尊敬するのと同じ」と言った。モーセやイエスの「奇跡」を有り難がる猶太教徒・基督教徒は客観的には魔王崇拝と全く区別がつかない。 〇「奇特なる事貴きならば、魔王を尊敬すべし」とは「基督教=悪魔教」という言明と捉えてよいであろう。猶太教も同断である。同じ文化文明圏から出てきた同一パラダイムの思想である。所謂悪魔教・悪魔崇拝・サタニズムは猶太・基督教文化圏からしか出てこない代物である。表裏一体、両建の関係である。 〇基督教原理主義者が当方の見解より「自由主義や無神論の方がまだマシ」みたいな事を言っていたが、猶太・基督教圏外からの批判の方が厄介だと思っているのであろう。だからか、基督教原理主義者と西洋神秘主義者は何故か相互に直接対決せず両建批判者を挟撃してくる。これぞ両建の分進合撃だと言える。 #
by kokusai_seikei
| 2018-08-22 01:52
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〇タイムラインで「平家がペルシャ人」という説をちらと見たが、日猶同祖論レベルの話だと思う。平家がペルシャ人ならゾロアスター教徒で、平家の氏神社である厳島神社はゾロアスター教の寺院という事になるが。秦氏が猶太教徒なら秦河勝を祭る大避神社はあり得ない。基本事項のみでおかしいと分かる。
〇陰謀追及界隈では他の事ではまともな事を言う人が、突然日猶同祖論など偽史めいたおかしな事を言い出す場合が多い。元からセットになっている場合もある。「陰謀追及」と言っても何も特別な事ではない。基本的事実をきちんと調べて、仮説が論理的におかしいかそうでないかをチェックするだけである。 〇「偽史」の類は史実の細かい考証をしなくても宗教や思想のほんの基礎知識で反駁されてしまうものが多い。日猶同祖論が典型である。秦氏が猶太教徒なら「人を神として祭る」大避神社はあり得ない。当時のそれらの民族がいかなる宗教を信仰していたかを調べ、その影響が我が国に存在するのかを検討する。 〇ゾロアスター教の影響がない事は無い。阿修羅像がそれである。阿修羅=アスラとはゾロアスター教の主神アフラマズダを印度人側から悪神として見た呼称である。それが仏教に取り入れられて日本に渡来してきたのである。阿修羅はあくまで印度人の視点なので、阿修羅信仰はペルシャ人の信仰とは言えない。 〇また、毘盧遮那仏にアフラマズダの観念の影響があるという説もあるが、ペルシャに特有の光と闇の二元論の影響が見られないので、仮に影響があるとしても釈迦の時代から大分時代が下って仏教徒がダルマ(ダンマ・法)の観念を擬人的に表現しようとした際に単なる名称として借りた程度の事だと思われる。 〇ちょっとした類似点からこじつけて針小棒大に言い立てるのは日猶同祖論の常套手段だが、猶太絡み以外でもよく行われている。確実に言える事を積み重ねていくとその真偽は大体見えてくる。歴史も基本的な知識を軽視すると物凄い表象の世界に飛んで行ってしまう場合がある。宗教や形而上学と同じである。 〇インド人とイラン人は元は同じ民族だったが、分かれて対立したらしい。それぞれの神話が真逆になっているのが興味深い。イラン人のゾロアスター教の光の神とされるアフラマズダがインド人からするとアスラという悪神扱いなのが典型である。仏教ではさらに格下げで仏の護衛扱いとなった。それが阿修羅。 〇平家がペルシャ人ならば、その氏神である厳島神社はゾロアスター教の神を祭っていないとおかしい。ところが、厳島神社の祭神は「宗像三女神」という海に関係する神である。光の神、火を拝む「拝火教徒」の神と「水」に関係する海の神とでは性質が相反するので、平家=ペルシャ人説はやはり変である。 〇ペルシャ人の宗教と言えばゾロアスター教とイスラム教シーア派が想定できるが、イスラム教の影響があるなら堂々としたものだろうから、この可能性は最初から除外して可。モスクがなかった我が国に「回教徒がいた」という想定はあまりに突飛である。ゾロアスター教の影響も前述したような程度であろう。 〇説自体は色々あってよいと思うが、基本的な事項の確認だけでどう考えても成り立ちがたい事がすぐに分かってしまうものばかりである。説自体にロマンを感じ面白いと思う人もいると思うが、吾人はどちらかというとそういう説が次々に出現する現象自体に興味を持っている。戦前から数多くあった事である。 〇「国際縄文学協会」という団体にロスチャイルド家の者が関わっているので、縄文ばかり強調する言説も怪しいと思っている。縄文人の感覚が日本人のアニミズム的感性の根にあるとは思うが、縄文「だけ」強調するのはそれ以後の歴史や文化を全否定する事で遠回しに壊国を側面擁護せんという意図を感じる。 〇「国際縄文学協会」はワールドメイト系の団体である。「名誉顧問」に「エミリー・ロスチャイルド・アトウッド」の名が。『陰謀』業界に「縄文」強調論(縄文以外の日本全否定論)が多いのはロスや新興宗教の影響では?思想ツールの一つと見るべきだろう。【国際縄文学協会】https://ja.wikipedia.org/wiki/国際縄文学協会 〇縄文強調論にも通じる「日本原住民論」は新左翼の革命理論の一つでもある。太田竜氏も嵌っていたが、これは八切止夫氏のサンカ史観を利用して赤軍派の梅内恒夫という人物がマルクス・レーニン主義に代わる革命理論に仕立てたものである。「復古主義」に見せて日本を丸ごと否定できる思想ツールである。 〇縄文強調論からはかつての日本原住民論と同じ「臭い」がするのである。何よりロスチャイルドが「縄文研究団体」に関わっている事実。「日本原住民を滅ぼした偽物日本など守る価値が無い。縄文の復興を意図するロスチャイルドを筆頭とする国際金融資本に渡すのが真に日本の為」という誘導も可能だろう。 〇八切止夫氏自体は新左翼とは無関係で梅内恒夫が勝手に利用しただけである。とはいえ、八切氏が描く「サンカ」は非常に大陸的な感じがする。一神教的な信仰と秘密結社性が基本で、とても縄文時代以来の自然信仰とは思えないものである。サンカ系と言われる大本一味ら新興宗教勢力に通じる外来臭である。 〇次々に製造される「歴史観」は歴史的事実を明らかにする事より何らかの政治的目的を達成する為の道具である場合が多い。赤軍派の梅内恒夫が作った日本原住民論が典型である。日猶同祖論は戦前以来のロングセラー。偽史は戦前は右寄りのものが多く戦後は左寄りのものが多いが、所詮左右両建同根である。 〇安倍晋太郎は「東日流外三郡誌」という文書に傾倒していた由(渤海の末裔を自認し、「俺は朝鮮人」という発言も)。東日流外三郡誌は一部分しか見てないが、平安時代の武将である安倍貞任がキリスト教的な信仰を述べていて、それだけで非常に胡散臭い文書である事が分かった。 「東日流外三郡誌「安倍次郎貞任遺文」は明治以後の人間が書いたとしか思えない。宗教観がキリスト教的過ぎる。平安時代にありえた世界観ではなかろうし縄文的でもない。明治以後に流入した西洋の知識や宗教観の影響を感じる。【安倍次郎貞任遺文原漢文】http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tenhito/tenhito2.html」 https://twitter.com/kikuchi_8/status/804090317896986624 〇東日流外三郡誌には明らかにキリスト教的な思想が見えるが、これは八切止夫が描いたサンカ像もしかりであった。この辺は平田派や大本一味にも通じる。これらの思想ツールに一般的に見られる傾向は仏教を敵視する姿勢である。日本の仏教文化は大体全否定される。一方、神道はキリスト教的に改釈する。 〇このように様々に流布される「偽史」の類は思想ツールだと見ている。親子で歴史観が継承されているかは分からないが、安倍一味が日本破壊に全くためらいが無いのは妙な「歴史観」の力が預かっている面もあるのでは?とも想像する。まあ、これは単なる想像。とは言え安倍一味の所業は明確に反日である。 〇公式歴史観「正史」も勝者に都合が良く作られたものなので、政治的な目的を帯びている事は言うまでもない。だからこそ「正史」でないなら「真実だ」と短絡して様々な思想的トラップに引っ掛かったりもする。マスコミ報道が嘘としても、ネットにも嘘が多いのと同じである。大事なのは事実か否かのみ。 〇他ではまともな事を言っている人が思想や歴史に関して明らかに変な事を言っているのを見るとガッカリする。陰謀追及界隈では珍しい事でないとはいえ、残念な事である。しかも、そういう変な説は一般教養レベルで反駁できるものばかりである。陰謀追及上も一般教養レベルの基礎知識はやはり大切である。 〇一応通説とか教科書レベルの知識は押えた上でないとそれらのどこがおかしいかが分からない。いきなり思想トラップ丸出しの変な説に飛びつくのは戦前からある陰謀追及界隈の通弊である。国際政経学会も神代史派やオカルト論者、日猶同祖論者が多かったようだ。実態を知れば知る程ガッカリする事が多い。 〇アイヌの長老がテレビに出ていたのを見たが、アイヌ文化は自然崇拝が基本であれはまさに縄文的な感じがした。ああいう感覚はアイヌ以外の日本人も根底で維持しているものである。だから山とか木、岩を祭る信仰が残っている。だが、大本系など「サンカ」を強調する勢力の思考は非常に大陸的だと感じる。 〇話は戻るが、拝火教について。古い仏典に釈迦が火を祭るバラモンの三兄弟を説得して帰依させた話が出ているが、バラモン教にはゾロアスター教と同じく火を祭る信仰があった事が分かる。この辺にもインドとイランの民族的近さが窺われる。密教の所謂「護摩(ホーマ)」はバラモン教からの影響であろう。 〇思想分野と歴史分野は両方ある程度勉強しておくと陰謀追及上役に立つ事が多い。その道を専一に研究する専門家みたいになる必要はない。日猶同祖論みたいなものでも歴史学的に細かく考証して反証するのは大変だが、「猶太教」という宗教の性質から分析すると一般教養レベルで簡単に反駁できたりする。 〇「日本スゴイ」と「日本シネ」がワンセットという分析は非常に慧眼。空虚な「日本スゴイ」路線と悪意に満ちた「日本シネ」路線の左右両建構造である。前者は「日本スゴイ」と日本を褒めあげる事でTPPや水道私営化を誤魔化して壊国を推進する。後者はストレートに壊国を叫ぶ。左右両建で壊国に誘導。 〇石屋の分類でいうと「日本スゴイ」路線は英国系フリーメイソン、「日本シネ」路線は仏蘭西系フリーメイソンである。褒め上げていい気分にさせる裏で改竄したり乗っ取る手口と、嫌悪と憎悪を掻き立ててストレートに破壊に向わせる手口である。「良い所は守り、悪い所は正していこう」とは絶対言わない。 〇陰謀追及界隈でもたまに見かける「白村江の戦で敗れて以後日本は唐に占領された」というのも元は八切止夫氏の説である。先述のように一部の新左翼が八切史観を革命理論に組み込んだ。オウムのオカルト『陰謀論』も実はこの辺の流れに出自がある。説の由来と来歴を知り相対化しておく方が安全であろう。 〇「平家=ペルシャ人」説もどうやら八切止夫説のようだ。陰謀追及界隈で言われる説のネタ元は八切史観に由来するものが多い。太田龍氏が新左翼時代から傾倒していた模様。平家がペルシャ人なら平家一門が厚く崇敬した厳島神社に何故光や火の神ではなく海に関係する神が祭られているのか説明がつかない。 〇先行する民間史家が唱えた説をあたかも自分の説みたいに言う者達が多くて困る。先人の説ならその由来をきちんと説明するのが言論者としての誠実さではないだろうか。オカルト系論者の唱える「説」は大体戦前からのネタ元があったりする。猶太関係が特に多い。秦氏関係も佐伯好郎のパクリでしかない。 〇各種思想ツールの類は「ネタ元ロンダリング」が施されている場合が多い。これをやるのは、あまり知られていない説なのをいい事に初めて唱えられた奇抜な説のような印象を与える事で通説に疑問を持つ人士を一気に引きつける事が出来るからだと思われる。「きちんと調べる」事が如何に大切かを痛感する。 〇ちなみに伴天連追放之文を起草するなど江戸初期の対キリシタン政策の担当者だった金地院崇伝や南光坊天海は歴史書やフィクションではあまりいいイメージでは描かれない傾向がある。奴隷貿易や神社仏閣の破壊などキリシタン禁教の理由の隠蔽とセットの現象だと見ている。切支丹史観の裏返しであろう。 〇五山の禅僧だった崇伝が起草した伴天連追放文は神道・仏教・儒学の教養を盛り込んだ中々の名文である。これは当時の一流の知識人にしか書けない文章である。一方、天台僧の天海は天台学をはじめ、倶舎論・三論・法相や禅学を修得、足利学校に学ぶなど和漢の学を修めた当時の最高の知識人の一人である。 〇天海が学んだ倶舎論・三論・法相は日本の哲学的思考を培った伝統的な学問である。三論は印度で言うと中観派、法相は唯識である。法相は論理学が併修される。中観の祖・龍樹は帰謬論証法を駆使する最強の闘論家。当時の科学を利用するも根が反知性主義の伴天連が三論と法相を極めた者に敵う道理はない。 〇直接軍隊を送り込んで侵略するのではない場合は現地の有力者を思想的に洗脳して手先にするという手法がとられる。戦国時代にイエズス会が行った方法だが、今も同じである。日本の所謂「上流階級」には基督教徒や石屋が多く、政治屋や人々への影響力があるオピニオンリーダーの類はカルト傘下が多い。 〇先人が言った「伴天連の妖術」とは要するに詭弁術や洗脳術の事。伴天連追放令に「伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候」とある通りである。これは今も裏権力傘下の思想工作員がやっている。CSISは比喩ではなく文字通り伴天連が創設した。エドマンド・ウォルシュというイエズス会士である。 〇伴天連追放令にある「伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候」とは詭弁術や洗脳術を用いて思うままに信者を増やした伴天連を描写した記述と解釈できる。思想工作員は詭弁術やレトリックばかり使ってくるが、400年前の伴天連も同じだったと思われる。その伴天連が創設したCSISの手先ばかりだ。 〇長崎で最古の仏寺は「悟真寺」というお寺で創建は慶長3年(1598年)だそうである。これが何を意味するか。それ以前にあった仏寺は悉くキリシタンによって破壊されたという事である。一地域の文化を根こそぎ破壊するという蛮行。豊臣秀吉が伴天連追放令で「前代未聞」「邪法」と言ったのも当然だった。 〇切支丹史観は「信仰を守り抜いた潜伏キリシタン」と美化するが、潜伏以前にキリシタンが何をしたかは言わない。神社仏閣は悉く破壊され、僧侶は迫害された。僧侶達は山や洞窟に隠れて仏像を安置し仏教を守ったそうだ。長崎に於いては「隠れキリシタン」時代の前に「隠れ仏教徒」時代があったのである。 〇イエズス会の伴天連が行った所業は「一地域の伝統文化を完全に破壊し更地にして、その上に『新秩序』を強制する」というワンワールド征略そのままのやり方である。「伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候」即ち伴天連の妖術=詭弁術や洗脳術を駆使して有力者を洗脳し現地の文化を破壊させた。 〇歴史は現代を映す鏡にもなる。伴天連が行った思想工作は現代ではより巧妙化した形で行われている。露骨な破壊行為だけではなく、巧みに憑依して乗っ取り改竄する工作も行われている。明治以後はむしろ後者の方が主流かもしれない。「伴天連其智恵之法」はハイテク化し、悪い意味で進化し続けている。 〇切支丹史観を作ったのは姉崎正治という宗教学者である。姉崎は神道・仏教・基督教の三教会同や「帰一協会」という露骨な名称の宗教統一運動に関与した。そして何故か仏蘭西政府から「レジオンドヌール勲章」という勲章を授与されている。切支丹史観の製造や宗教ワンワールド運動への褒美だと見ている。 〇一地域の文化の抹殺という前代未聞の破壊行為を行ったキリシタン勢力中心の不公正な歴史観が流布されているのは自然の成り行きとは思えない。「帰一協会」という露骨なワンワールド運動に主導的な立場で関与した姉崎への仏蘭西最高勲章授与で透けて見えるように意図的に広められてきたと考えるべき。 〇「伴天連の妖術使い」と言えば「金鍔次兵衛」という日本人宣教師がいた。金鍔次兵衛は山に潜んだり幕府の役人に化けて潜入したりなど、まるで忍びのような活動をした。切支丹の諜報員として訓練されたのかもしれない。謂わば南蛮流忍者。日本人でありながら裏権力側についた工作員の走りと言えるかも。 〇古人が言った「キリシタン・バテレンの妖術」「伴天連の妖術」とは要するに①言葉巧みに信者を増やす洗脳術②論敵を煙に巻く詭弁術・レトリック③潜入して情報収集や工作を行う諜報術④科学技術の利用等だと考える事ができる。全部現代も行われている事である。金鍔次兵衛は①と③を得意としたようだ。 〇現代はネット空間にも無数の「金鍔次兵衛」がいると言えるだろう。金鍔次兵衛は謂わば対日工作員業界の先祖である。「聖アウグスチノ修道会」という組織の司祭だったらしいが、元々はイエズス会のセミナリヨで学び、マニラにもいたらしいのでイエズス会の諜報訓練を受けたとしても不思議はないと思う。 〇イエズス会は宗教組織という以上に世界中に情報網を張り巡らせた諜報組織でもある。特に近代以降の陰謀の組織や技術はイエズス会に原型があるものが多いと見ている。近代イルミナティはイエズス会士のヴァイスハウプトがイエズス会を真似て作ったし、有力者を思想的に洗脳する手口は今も行われている。 〇切支丹史観を作った姉崎正治が関与した帰一協会(パトロンは渋沢栄一)というワンワールド推進団体の創設者は成瀬仁蔵というプロテスタント牧師である。プロは石屋に近い。成瀬仁蔵は広岡浅子の仲介で三井財閥とも繋がり、大学の敷地の提供を受けたようだ。全体的に石屋・ロス系に近い人脈だと言える。 #
by kokusai_seikei
| 2018-08-20 23:12
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百科事典マイペディアより引用。 「臨界量【りんかいりょう】 https://kotobank.jp/word/臨界量-150255原子爆弾や原子炉で原子核分裂の連鎖反応が起こるのに必要な最小限の核分裂物質の量。これ以下では核分裂物質の体積に比べ表面積の割合が大きいため,表面から逃げる中性子が相対的に多く,連鎖反応が持続しない。原子炉では,核分裂の連鎖反応が持続して始まる状態を臨界といい,臨界状態に必要な核燃料の質量をいう。臨界量は核分裂物質の種類・性状,炉体の構造,中性子反射材の有無等により異なる。」 〇ウランやプルトニウムなどの核燃料が核分裂連鎖反応を起こすには最低限の質量が必要となる。これを「臨界量」と言う。臨界量未満では核分裂連鎖反応が起きない。原爆地上起爆説の根拠の一つとされる「中性子が一つでも核分裂性物質に触れると核分裂連鎖反応が起きる」は「臨界量」を無視している。 〇広島に投下されたガンバレル型の原爆では、爆弾の内部に臨界量未満のウラン235を二つに分けて設置し、爆薬の衝撃でこれらを合一させて一気に臨界量を超えさせて起爆する仕組みである。臨界量未満のウラン235が空間的に離在していれば核分裂連鎖反応は起きないので輸送も可能であろう。 〇また、臨界に達するには量だけではなく密度も関係するようだ。臨界量未満のプルトニウムを周囲を取り巻く爆薬の均等な爆圧により圧縮させ、急激に密度を小さくして起爆する方式が長崎に投下されたインプロージョン型の原爆である。質量は同じでも密度が小さければ核分裂連鎖反応が起きるようだ。 〇ロスアラモス研究所のハリー・ダリアンという物理学者が未臨界のプルトニウムを扱った実験をしている時に操作を誤って臨界に達してしまい中性子を浴びて事故死した。このプルトニウムは「デーモン・コア」と呼ばれた。逆に言えば、この事故は未臨界であれば核分裂連鎖反応が起きない事を示している。 〇逆に言えば、未臨界であれば「大量の中性子線」が放たれないということ。引用:挟みこんだドライバーが外れて二つの半球を完全にくっつけてしまうと、デーモン・コアは即座に臨界に達し、大量の中性子線が放たれるため危険である。【デーモン・コア】https://ja.wikipedia.org/wiki/デーモン・コア 〇原爆地上起爆説の検証に関しては「核分裂連鎖反応が起きる最低限の質量=臨界量」が鍵になりそうである。日猶同祖論の検証における「日本と猶太の宗教観の違い」のようにごく基本的な事実の指摘で反証できる場合は多い。ただ当方物理は基本的に皆目無知。物理に詳しい方に検証して頂きたい気がする。 〇核分裂性物質は未臨界であれば核分裂連鎖反応を起こさない。臨界かどうかは質量と密度が関係。臨界を起こすための最低限の質量が「臨界量」。臨界量を超えないと起爆しない。また、臨界量未満でも密度を急激に高くすると起爆する。原爆はガンバレル型は質量、インプロージョン型は密度を操作して起爆。 〇原爆を空中で起爆するには、投下後目標の高度に至った時点で爆薬を点火し、核燃料を超臨界状態にする。この仕掛けには高度を探知するレーダーが使用されたようだ。目標高度をレーダーによって探知しタイマー式爆薬が点火、広島型は未臨界量のウランを合一、長崎型はプルトニウムの密度を超臨界にした。 〇原子爆弾の仕組みを調べると、当時の技術で空中起爆が十分可能だったことが分かった。①ウランやプルトニウムなど核分裂性物質は未臨界であれば核分裂連鎖反応を起こさない。②目標高度で超臨界状態にするには高度測定用のレーダー技術と、タイマー式起爆装置が必要だが、当時の技術でどちらも可能。 〇「空中で起爆する」とは「核分裂性物質を空中で臨界にする」事と同義。つまり、空中で原子爆弾を起爆するには、空中でウランやプルトニウムを臨界状態にできると可能となる。その為に必要となるのが目標高度を計測するレーダー式計測器と高度の探知と連動する時限式の起爆装置。当時両方とも存在した。 〇「地上起爆説」は「空中起爆は不可能」という前提に立っているので「空中起爆は可能」と証明できれば「地上起爆でなければならない」根拠が崩れる。①ウランもプルトニウムも臨界量未満であれば核分裂連鎖反応を起こさないので輸送が可能。②空中で臨界状態にする技術はレーダーと時限式制御装置。 〇「原爆地上起爆説」の主な根拠が「中性子線が当たって起爆するので原爆を運ぶ事は不可能」というもの。核物質を臨界未満の量に分けた状態で運べば起爆しない。一気に合体させ臨界状態にして起爆するのである。この起爆の方式が「ガン・バレル型」(広島型)と「インプロージョン型」(長崎型)である。 〇核物質に中性子が当たっても臨界未満の量だと核分裂連鎖反応は起きない。臨界状態になって核分裂連鎖反応が起きる為には一定以上の核物質の量が必要となる。したがって臨界未満の量に小分けした状態で運べば起爆しない。臨界未満のの核物質を一か所に集めて一気に臨界状態にする事が原爆の起爆である。 〇「原爆地上起爆説」では核物質の「臨界量」が何故か無視されている。臨界量未満であれば例え空中で中性子が核物質に当たったとしても核分裂連鎖反応は起きないのである。日猶同祖論などが典型だが、組織的に流布されている様々な「奇説」は極めて基本的な事項を無視して作られている杜撰なものが多い。 〇原子力発電も原爆も仕組みは同じである。核分裂連鎖反応を制御しつつ行うのが原発で、一気に核分裂連鎖反応を引き起こすのが原爆である。核分裂物質の量が臨界量を超えると臨界状態となり核分裂連鎖反応が始まる。原発の臨界事故は何度も起きているしロスアラモス研究所の科学者の実験中の事故もある。 〇ロスアラモス研究所のハリー・ダリアンという物理学者が実験中に炭化タングステンという物質を後に「デーモン・コア」と呼ばれる未臨界のプルトニウムに誤って落としてしまい臨界量に達した事で発生した大量の中性子線を浴びて死亡した事故があった。逆に言えば未臨界だと起爆しないという事でもある。 〇同じく臨界事故を起こしたロスアラモス研究所のルイス・スローティンは半球状のベリリウムという物質をデーモン・コアから引き離す事で核分裂連鎖反応を終わらせたそうだ。核物質を空間的に引き離して未臨界状態にするだけで核分裂連鎖反応が終わるようだ。つまり未臨界量に分ければ輸送は可能である。 〇原爆のガン・バレル方式では二か所に分けた未臨界の核物質を一気に合体させて臨界状態にして起爆する。インプロージョン方式では未臨界の核物質の密度を急速に高めて起爆する。核物質の臨界量は密度の2条に反比例するそうだ。よって未臨界の核物質でも急激に密度を高くすれば臨界状態になり起爆する。 〇「中性子が当たるから原爆の輸送は無理」という事が主たる根拠の「原爆地上起爆説」は核分裂連鎖反応が起きる為に必要な核物質の量=臨界量を無視して初めて成立する。日猶同祖論が典型だが、極めて基本的な事項を知る事で間違いが明らかになる「説」の類は数多い。何事も基本事項の調査が大切である。 〇流布される「説」や「偽史」の類は基本的な事項を調べるだけで簡単に嘘だと分かる場合が多い。日猶同祖論が典型。「ダビデの星」が猶太のシンボルになったのが17世紀だった事とか日本の土着信仰と猶太教の根本的相違などを知れば同祖論など成り立たない事が分かる。が、地味な真実は耳目を引かない。 〇核物質は臨界量未満だと核分裂連鎖反応が起きない。一塊の核物質の量が臨界以上だと核分裂連鎖反応が起きる。ロスアラモス研究所で実験中に起きた臨界事故では物理学者がプルトニウムからベリリウムを引き離し核分裂連鎖反応が終了した。手動で引き離せる程度の空間が空いていれば臨界しないという事。 〇「分けても臨界質量未満の核分裂性物質が一所に集められていたら、遮蔽壁は無いも同じ」論理的に変な文章。「分ける」とは「一か所に集められていない」という事。「一か所」とは「一部屋」程度ではなくまさに「一塊」という密度。そして臨界量未満なら遮蔽壁などが無くても核分裂連鎖反応は生じない。 〇原子炉における「水」は中性子の「遮蔽材」ではなく中性子が核に衝突しやすくする為の「減速材」として使われている。中性子のスピードが速すぎると核に衝突する事が難しくなる。水には中性子の速度を緩める作用があるので中性子を水によって減速させる事で中性子が核に衝突しやすくする訳である。 〇原発における「遮蔽材」は水も使われるそうだが、外部から入る中性子を遮蔽する為というより原発内部で発生した中性子を外部に漏らさないようにする為のものである。「遮蔽材が無いと核分裂連鎖反応が起きる」のではなく「遮蔽材が無いと核分裂連鎖反応の後外部に中性子が漏れる」という事。順序が逆。 〇911事件の肝が「航空機燃料でビルの鉄骨が蒸発するのか?」という事であるように科学が関係する様々なトピックには固有の「急所」が存在する。「原爆地上起爆説」を検証する為の肝は「未臨界の核物質の量でも中性子が当たったら起爆(核分裂連鎖反応の発生)するのか?」という事である。 〇核物質は臨界量未満だと臨界に達して核分裂連鎖反応を起こさないと言われている。引用:原子核を分裂させた1個の中性子に対して、発生した中性子の内の1個が次の核分裂を引き起こす中性子になり、核分裂が一定になる状態を「臨界」という。http://www.iae.or.jp/great_east_japan_earthquake/energyinfo_digest/06_critical.html 〇「臨界量未満の状態でも起爆する」というのなら、何故ロスアラモス研究所の「デーモン・コア」の実験が可能だったのか。デーモン・コアの実験はかなり狂った実験で手動で核物質の塊同士を近づけて臨界状態に近づけるというものであった。逆に言えば塊同士を近づけなければ臨界にならないという事では。 〇「臨界量未満の状態でも起爆する」のなら未臨界のデーモン・コア(プルトニウム)を部屋に運び入れる事など不可能ではないだろうか。ロスアラモス研究所の狂気の実験は臨界未満の核物質同士を手動で近づけるというものだった。結局物理学者が誤って核物質を落としてしまい臨界事故を起こしてしまった。 〇「中性子の遮蔽」はナンセンスなのでは?濃縮されたウランやプルトニウムが臨界量以上あるなら外部から中性子線が当たらなくても勝手に起爆する。だから未臨界に分けた状態から臨界状態にする操作を行うのである。制御しつつ行うのが原発で、制御せずに完全に核エネルギーを開放するのが核兵器である。 〇「地上起爆説」は「中性子が当たると起爆するので輸送は不可能」という事が最大の根拠(「水上起爆」でもこの根拠は同じ)になっているので結局「核物質を臨界量未満に分けた状態でも中性子が核物質に当たると起爆する」と言っているに等しい事になる。よってこの件が説の真偽を検証する為の要となる。 〇引用:臨界量【りんかいりょう】原子爆弾や原子炉で原子核分裂の連鎖反応が起こるのに必要な最小限の核分裂物質の量。これ以下では核分裂物質の体積に比べ表面積の割合が大きいため,表面から逃げる中性子が相対的に多く,連鎖反応が持続しない。https://kotobank.jp/word/臨界量-150255 〇「臨界量未満でも臨界する」という主張はそれ自体に論理矛盾を含むかなり「大胆」な主張と言える。臨界量未満でも密度を高くすると臨界すると言われるが、これは「臨界量は密度の2条に反比例する」という法則がある為に密度を高くすると臨界量自体が低くなるからである。前記の主張はそれとは異なる。 〇北朝鮮に軽水炉を提供したのはネオコンのドナルド・ラムズフェルドが役員を務めたスイスに本社を置く多国籍企業ABB社。ネオコンの大物が役員を務める会社が北朝鮮に軽水炉を提供する。北朝鮮の核開発はこういうマッチポンプ構造の産物だろう。http://hiddennews.cocolog-nifty.com/gloomynews/2006/10/post_9394.html 〇ネオコンのドナルド・ラムズフェルドが役員を務めたABB社が北朝鮮に軽水炉を提供。ナイジェル・コーウィーという英国人銀行家が北朝鮮の資金運用に関与していた事がパナマ文書で明らかに。この資金が核開発に使われた可能性は高い。北朝鮮の軍拡は欧米の権力者の協力あってのもの。マッチポンプだ。 〇ブッシュ政権の国防長官だったドナルド・ラムズフェルドが役員をしていたスイスのABB社が北朝鮮に軽水炉を提供したが、北朝鮮のウラン鉱山の開発を行なう「コーメット」という会社が英国のロンドン証券取引所に上場したのもブッシュ政権時代である。コーメットは英国と北朝鮮の合弁会社だそうだ。 〇ロンドン証券取引所に上場するには英国の金融当局の許可が必要。コーメットが上場できたという事は英国政府が許可したという事。しかもコーメット自体が英国と北朝鮮の合弁企業である。おまけに当時のブッシュ政権はこの件に関して英国に特に抗議はしていない。つまり英米で北朝鮮を支援したという事。 〇北朝鮮を「悪の枢軸」と呼んだブッシュ政権のよりにもよって「国防長官」が役員をしていたABB社が北朝鮮に軽水炉を提供するというマッチポンプ構造。原発と核兵器の原理は根本的には一緒なので軽水炉を提供すれば核兵器開発に繋がる恐れがある事は当然である。北朝鮮の軍拡は裏権力の支援ありきだ。 〇コーメットが英国と北朝鮮の合弁企業という事は英国が北朝鮮のウラン鉱山の開発に関与しているのも同然ではないか。表向きは北朝鮮の核兵器開発を非難しながら、一方ではウラン鉱山開発に関与するというダブルスタンダード。欧米の裏権力は歴史的にこのようにして紛争マッチポンプを繰り返してきた。 〇陰謀追及者のフリをして陰謀追及者を暴力的な方向に誘導して共謀罪に引っ掛けようとする工作もありうるので警戒する事とする。共謀罪施行に関して一番予想された事の一つがこれである。オトリ工作員による暴発煽動工作の可能性である。要警戒。 「物凄い言いがかりです。「原子爆弾で殲滅する」などという発想が裏権力と同じだと申しただけです。むしろあなたの発想の根底に裏権力と同じものがあるのを知り驚きました。これまで何度も言っているように裏権力に対抗するのに徹底的に情報拡散して衆人環視状況を作って横暴ができなくすべきです。」https://twitter.com/kikuchi_8/status/895697426429825024 〇「裏権力に対抗する」と称してテロを煽動する工作を厳重警戒する。テロの煽動者はマッチポンプ工作員だと見なす。決して乗せられてはならない。所謂「テロリスト」は諜報機関が作った別働隊である。ISやオウムは裏権力の別働隊。こんな連中に騙されてはならない。両建グル・マッチポンプ構造である。 〇共謀罪施行後最も警戒を要する工作員のタイプはテロ扇動者である。国民の側に立っているように見せかけて、巧みに暴力思想を植えつけ煽動するタイプの工作者。裏権力側が抹殺を狙う個人や集団に工作員を潜入させて「共謀」させ一網打尽にする工作がありうる。煽動者タイプの工作員を厳重に警戒すべき。 〇これはさすがに酷いと思う。まるで日猶同祖論における語呂合わせレベルです。あの説は同祖論と大同小異という事でしょうか。もう結論は出た気がします。不毛な論争はここまでとしましょう。 「なに、そのガン・バレルって日本語じゃないの!阿呆か! 」 〇今回も「ツーマンセルの法則」が発動しかなり時間を取られた。 〇原爆地上起爆説の最大の根拠は「中性子起爆するので輸送は不可能」という事である。しかし、核物理の通説からすれば臨界量未満の量に分ければ起爆(核分裂連鎖反応)しない。となると、この通説とは異なる原理の説明が必要となる。その事を主唱者やその信者に質問しても一向に具体的な説明はなかった。 〇一連の闘論を通じて地上起爆説の主唱者及びその信者は一番説明しなければならない肝心な部分を曖昧にしている事が分かった。もしそうでないならこちらの質問に対してもっと明確に答えられたはずである。肝心な部分をブラックボックスに入れて曖昧にしたまま布教されている説という事が確かめられた。 〇「常識」や「通説」を疑う事は勿論大切である。しかし、常識や通説自体を知らない者が常識や通説を疑う事は不可能である。まずは常識・通説を知り、疑問に感じたのなら別の仮説を立て、着実に検証し論証していく、というのがあるべきプロセスではないだろうか。これをすっ飛ばせば単なるカルトである。 〇実際に闘論して実感した感想で言うと「地上起爆説」は日猶同祖論などと同じで宗教教義の如きものである。「天地の創造主」の有無などの論証を曖昧にしたまま布教されるのが宗教。「宗教」と名乗るならそれでよい。しかし科学的な「説」を装うのなら問題である。最大の論拠の説明を曖昧にする事は不可。 〇きちんとした検証や論証がなされていなくても、自信満々の態度と大きな声で繰り返し刷込めば信じてしまう人が一定数出てしまう。タヴィストック研究所の手法と思われるゲッベルス方式が典型だし、中国・韓国・北朝鮮のプロパガンダ手法も同じくだ。「偽史」とは人々の共同主観を巡る政治的武器である。 〇自国第一主義の台頭を受けて欧米のメディアが作った「ポスト・トゥルース」なる造語があるようだ。「世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況。事実を軽視する社会。」。メディアが散々行ってきた事そのものである。ブーメランすぎる。 〇裏権力の走狗メディアにこういう事を糾弾する資格はないだろう。彼らこそがそういう社会を作ってきた張本人である。「世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況」【ポスト・トゥルース】https://kotobank.jp/word/ポスト・トゥルース-1748296 〇陰謀論界は各種偽史やオカルトがセット売りされているが、それらは人心を誘導する思想ツールと考えるのが妥当である。「世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況」があるのは陰謀論界も例外ではない。思想工作の罠はそこかしこにある。 〇核エネルギーは陽子と中性子からできている原子核の分裂・融合時に生じるエネルギーである。原発や核兵器はこのエネルギーを利用する。謂わば素粒子と素粒子を結び付けているエネルギーを利用するもの。ある意味自然界の根源的な力を利用する訳で、自然に対する人間の傲慢さを表す冒涜的な技術である。 〇各種勢力は歴史を政治闘争の道具にしている。偽史運動則政治運動。歴史的事実は時の勢いや政治闘争の結果、社会的力関係などで決まるのではない。事実はあくまで事実であり、客観的な根拠に基づいて検証されるべきものである。 「「時を味方に」という言葉にあなた方のスタンスが凝縮されていますね。結局、歴史を武器にした政治闘争に過ぎないのです。それが分かっただけでも十分な収穫です。私はあくまで事実かどうかにしか興味はありません。時勢がどうあろうが事実は変わりません。事実を検証し知りたいだけです。」 〇アインシュタインらが1939年にルーズベルトに提出した原爆開発のきっかけとなった手紙に「飛行機での輸送には重すぎる」と書かれている事について。独逸の化学者オットー・ハーンが原子核分裂を発見した事自体その前年の1938年である。そして核分裂連鎖反応の制御に成功するのが1942年。 〇原子核分裂の発見者はアインシュタインではなくオットー・ハーン。核分裂連鎖反応の制御に成功するのが3年後の1942年。アインシュタインは軍事技術の専門家でもない。原子核分裂の発見から間もない1939年の段階では天才も原爆がどのようなものになるか予測できなかったとしても不思議はない。 〇原子核分裂の発見の翌年、核分裂連鎖反応の制御に成功する3年前の段階ではいくら天才アインシュタインと言えども、核分裂連鎖反応を悪用した原爆がどのようなものとして完成するのかを正確に予測できなかったとしても全く不思議はない。よってアインシュタインの発言は「空輸不可」の根拠にならない。 〇原爆開発のきっかけを作ったアインシュタインは戦後には世界連邦運動を推進した。湯川秀樹らが賛同。原爆開発計画を推進し、多くの生命を奪い、その「反省」という名目で世界連邦を推進する弁証法戦略としか思えない。真の平和は世界連邦ではなくアインシュタインの背後にいる権力犯罪者の失墜である。 〇「核の特許」がどうと言った所で、戦後すぐのソ連の核実験を初め、世界中に核技術が拡散している以上、この「事実」の方を否定する必要が出てくる。つまり「核兵器は不可能」だと証明する必要がある。となると、「中性子起爆」云々のメカニズムの説明がどうしても必要になる。「振出しに戻る」訳だ。 〇原子核分裂という現象そのものを最初に発見したのはオットー・ハーンという独逸の化学者である。1938年の事である。だからナチスも原爆開発を推進した。米のマンハッタン計画は「ナチスに対抗する」という名目で始まった。原子核分裂の連鎖反応によって生じるエネルギーを利用して兵器化する計画。 〇元々原子核分裂という現象を発見したのが独逸人である以上、この科学的知識を米国支配中枢が独占する事はできなかった。よって「原子核分裂連鎖反応のメカニズムは米国しか知らない」は嘘。原子核分裂とその連鎖反応に関する知識が世界中に拡散し、戦後に核兵器製造の動きが全世界に広がってしまった。 https://twitter.com/kikuchi_8/status/743936886721249280 (了) #
by kokusai_seikei
| 2018-08-09 00:36
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by 菊池 カテゴリ
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