〇先日の補足。執着には必ず対象がある。感覚も思考も停止すると対象が無くなるので執着も無くなる。だが、生きている間は感覚は機能し、思考もする。なので、感覚や思考という「一本目の矢」には刺されても、執着という「二本目の矢」に刺されないように注意する事が釈迦以来の「仏道」の核心である。
〇「天台座主」を名乗った武田信玄に対して織田信長が名乗った「第六天魔王」略して「魔王」は「仏道を妨げる存在」。「仏道」とは「感覚・思考=眼耳鼻舌身意・色声香味触法の認識で生じる執着を断ち切る道」なので「魔王」は「執着を起こさせる者」の神話的表現と言える。現実的に言うと洗脳者である。 〇洗脳・思考誘導は全て「認識」に関わる。思想ツールを製造して流布する、視覚的シンボルを造形して刷込む、サタニズム的な音楽を流行させる等々。一言で言うと認識対象に対して生じる「欲」「執着」を煽る(「怒り」は事が思い通りにならない場合などに発するので欲の裏返し。欲と怒りは表裏一体。)。 〇シンボルや音楽は五感に関わるが、思想ツールは言葉(≒概念)と表象(イメージ)に関わる。概念的思考と表象作用は眼耳鼻舌身意で言うと「意」。眼耳鼻舌身という感覚と同様に意なる思考や表象も対象を持つ。概念や観念、イメージの類である。思想ツールは概念・観念・イメージで人を魅了し操る道具。 〇「思考」しても「執着」しなければ「洗脳」される事は無い。例えば、思想ツールの分析はその対象となる「思想」を明確に理解しなければならない。それは「思考」のプロセスである。だが、洗脳される盲信者との違いは「思考」に続いて「執着」が生じない事である。あくまで客観的な理解にとどめるのだ。 〇思想ツールの内容を「理解」するという思考プロセスまでは分析者も被洗脳者も同じだが、「思考」という認識作用に続いて生じる対象への「執着」の有無で違いが出てくる。被洗脳者は思想ツールに魅了され渇望し執着するので増々思想的洗脳が進むというスパイラルに入る。分析者は客観的な理解で止める。 〇俗に言う「ミイラ取りがミイラになる」とは、この場合で言うと思想ツールなどを批判的に分析しているつもりがいつの間にか対象に魅了されて自分自身がその思想を受け入れて盲信するに至る事である。戦前の猶太批判者の多くが辿ったコースである。猶太批判からいつの間にか日猶同祖論を信奉し親猶太化。 〇「影響されそうなので見ない」という判断が賢明な場合もある。分析力を真に身に着ける為には何を見ても聞いても考えても悪影響を遮断できる程の強靭な耐性が必要である。その面で不安を抱えた状態では思想ツールに取り込まれる恐れも無きにしも非ず。取り込まれなくても精神的打撃を受ける恐れもある。 〇その意味で陰謀追及者としての分析力を鍛える上で「対象の認識→対象への執着」という認識の過程を明らかにしている仏教の認識論は個人的には参考になった。「受」という感受作用の次に「愛・取」=渇愛・執著が生じると分析するので、感覚と思考を含む受=感受作用に第一に気を付ければよいと分かる。 〇知識があれば思考誘導を防止できるとは限らない。インテリから真っ先に洗脳されたという歴史的事例は多い。思想などの対象を認識しても鵜呑みにしたり引き込まれたりする事なく、ワンクッションを置いて距離を取り、執着する事なく客観視する姿勢が重要である。知識はその姿勢があってこそ活きてくる。 〇一つの思想に執着すると、その思想に釘付けになって絶対視する事になるので、その思想を相対化する事が出来なくなる。これを防ぐには多様な思想について一応幅広く知っておく事も大事である。ある思想が全体の中でどこに位置付けられるかが見えるので相対化でき、一つの思想を絶対視する事もなくなる。 〇フリーメイソンの300周年の式典の様子がユーチューブにアップされていた。あれはまさに「眼耳鼻舌身意」をフル動員する儀式である。秘密結社の儀式は五感・表象・思考のフル動員で思想を刷込む過程だと言える。視覚的シンボルや演劇的な趣向、壮大な音楽などで五感をフル動員して結社の思想を刷込む。 〇結社は五感をフル動員する参入儀礼を行う事で新規参入者が容易に裏切れないように精神的な錠前を掛けるのだと分析している。視覚や聴覚を通したシンボリックな「死と再生」の儀式、「死」への恐れ、「再生」の喜び。これらは全て眼耳鼻舌身意という認識とそこに生じる快不快の反応を出るものではない。 〇何かを認識したら【快・不快・どちらでもない】という反応が生じる。快に対しては欲が、不快に対しては怒りが生じる。「死と再生」の儀式に於いて、参入者を「死」や「闇」という不快に直面させて動揺させ、次に「再生」の喜びという快を享受させる。ここに堅固な結社への忠誠心=強烈な執着が生じる。 〇即ち「①対象を認識する→②対象に快・不快を感じる→③快には欲を、不快には怒りを生じる→④欲・怒りが増長し凝り固まると執着になる→➄認識対象に意識が縛り付けられる→⑥心の自由を失う→⑦結果、隷属心が昂進し、独立的思考、冷静な観察力・判断力を喪失」という認識論的過程を起こすと分析。 〇何かを認識すると欲や怒りが生じ、欲や怒りが増長すると執着になる。ところで龍樹は煩悩の原因は言語作用だとした。思うに人間の全ての認識には大なり小なり言語が関わっているからだろう。感覚的対象の認識にも言語が関わる。言語によって対象が明確になり認識が固定される。「それはりんごだ」など。 〇欲や怒りは言語で強化される。例えば純粋に機能的に見ると生命を維持する為の食べ物も「なんておいしそう」「大好物」「流行の」「高級だ」「インスタバエする」などの言語を伴う事でその食べ物に対する欲は増大する。むしろ食欲を超えてそれらの言葉、概念、記号への欲と言った方がいいかもしれない。 〇逆に怒りの場合も同じである。他人から嫌な事をされても現象としてはその一瞬であるが、それを記憶し、何度も思考して繰り返して思い出して嫌な気持ちを再生する。そこには言語が伴う。「あいつは許せない」「理不尽だ」「いつか仕返ししてやる」等々の言葉が反復される。これにより怒りが増強される。 〇このように欲や怒り、執着には言語が関係する。だから龍樹は言語の分析を重視した。言語は思考だけではなく五感の認識にも関係する。感覚的には「赤い丸いそれ」(これ自体言語表現だが)を「りんご」として認識する。認識のこの「として」構造を廣松渉の認識論では「対象の二肢的二重性」と言った。 〇このように欲や怒り、執着という感情と言語機能は密接な関係を持っている。ストア哲学はロゴスの機能は理性にのみ関わり、パトスたる感情とは対極にあるとするが、これは事実に反する。言葉で感情は増強されるのである。だから龍樹は煩悩の原因を言語、正確には言語が示す概念の実体視にありとした。 〇ある禅僧が「涅槃の定義について経典には何も確固たる事は書いていない」と書いていたが、実際は一番古い仏典の一番古い章に「この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。」という極めて明確な定義が書いてある。 〇最古の仏典スッタニパータの中でも第五章「彼岸道品」は最も古く成立した章だと言われている。そこに前述の明確な「涅槃」の定義がある。神秘性や曖昧さのない明確な「涅槃」の定義は他にもある。「貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅」「渇愛を滅しつくす」などである。これは全て認識作用に関わる。 〇「見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地」の「見たり~識別した」は一言で言うと「認識」。「認識した快美な事物に対する貪欲を除き去る」。欲望や貪りに認識が先行する。認識に関わるのが言語。言語で認識が明確に分節し固定する。 〇「認識した快美な事物に対する貪欲を除き去る」なので「貪欲」という感情には認識作用が先行する。廣松渉の認識論で言う「認識対象の二肢的二重性」からして認識作用には言語が大きく関係する。ストア派の主張とは異なり、ロゴス(理性、言語)とパトス(感情、情念)は対立物ではなく相互に関係する。 〇鈴木正三が書いた「実有の見」(実体観)とは廣松渉の認識論で言うと「所識の物象化的錯視」である。所識とは感覚対象等の所与に被せる概念である。例えば五感で認識した「赤い丸いそれ」が所与だとすると「りんご」が所識である。この所識=概念の自存視が「実有の見」「所識の物象化的錯視」である。 〇江戸初期の思想家と昭和期の哲学者が認識論的にほぼ同じ事を言っている訳である。これは「無実体論」「空観」という日本及び東洋の思想史的伝統に拠るものだと見ている。正三は倶舎論や三論・法相を学び、廣松は中観を参考にした。廣松に影響を与えたマッハの認識論は倶舎論の認識論とそっくりである。 〇先述の禅僧は「世の中の思想は仏教とそれ以外しかない」と書いていたが、これは「実体論と非実体論しかない」という意味なので妥当だと思われる。言語機能が問題だとするのは素晴らしい視点。明治以後の僧は倶舎・三論・法相という哲学を学ぶ習慣が無くなったのでこういう哲学的思考をする人は少ない。 〇だが、「仏典は確固たる『涅槃』の定義をしていない」というのは明らかに事実に反する。「認識対象に対する欲望や貪りを除き去る」「貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅」「渇愛を滅しつくす」など曖昧さのない明確な定義が書かれている。「涅槃の定義はない」などと言うからいたずらに神秘化される。 〇後半はちょっと読書感想文めいてきたが、言いたい事は感情と認識の関係、認識と言語の密接な関係である。客観的な思考に止める分析者と思考に執着を生じる被洗脳者の違い、認識対象に縛り付ける結社の儀式=洗脳技術等を論じたので、それらの認識論的な機制をさらに掘り下げておこうと思ったのである。 〇暗闇の中で料理を食べても味がよく分からないと聞いた事がある。「おいしさ」には味覚だけではなく視覚的要素も影響を与える訳である。ここに言葉≒概念や表象=イメージも加わると思う。味は正真正銘ソフトクリームでも「ク・ソ〇ト」というネーミングで「おいしい!」と思えるかは人によるだろう! 〇このように「認識」とは視覚や聴覚などの五感、言葉≒概念を伴う思考、表象=イメージなど複合的な要素が合致して成り立つもの。これらの要素を「一つの認識」としてまとめる中心的な働きをするのが言語である。だから「一つ」のモノとして認識された対象への執着も「=言語への執着」という面がある。 〇複数の感覚的要素のまとまりに名前を与えると分節化して「一つのモノ」として認識される。だが、これはあくまで仮の事である。名称が示す「それ自体で存在する(形而上学的な)実体」が実在する訳ではない(少なくとも認識可能領域には)。現実に存在するのは複数の感覚、思考、表象の複合現象である。 〇何故「無念無想」が「悟りの境地」みたいに言われるのかというと認識対象である概念や表象(イメージ)が消えると、執着の対象が無いので必然的に執着も消えるからだろう。だが、執着が無ければ概念や表象があっても別に問題はないはずである。だから、概念や表象を消すより執着しない事が大事である。 〇「無念無想」だと思考ができないので分析ができない。分析者として重要なのは「執着を伴わない、対象に引きずり込まれない冷静な思考」である。なので陰謀追及者としては無念無想よりミイラ取りがミイラにならないように「思考しても思考対象に執着しない」ような耐性を身に着ける方が重要だと考える。 〇目をつぶると見えないし、耳をふさぐと聞こえない。対象が無いので「見える対象」「聞こえる対象」への執着も生じない。思考は目をつぶっても耳をふさいでも生起する。思考も認識なので対象が存在する。思考の認識対象は概念や表象である。対象がある以上執着も生じる。思考を停止すると執着も消える。 〇このように目をつぶったり耳をふさぐ事と思考を停止する事は同じである。つまり認識作用の停止。認識作用が止まると認識対象が消えるので執着も生じない。だが、生きている以上は見て、聞いて、考える。執着を断つ為に認識作用を停止させるより認識しても執着を生じないよう注意する方が合理的である。 〇熊本地震で毀損した熊本城が修復中であるが、おかしな形にならなければよいが。祇園祭に「光のピラミッド」が出ていたが、結社のシンボリックなデザインにしようとしているのなら許しがたい。憑依型戦術は「思想」だけではなく「形」もターゲットになる。文化財の形は具体的に表れた先人の心である。 〇日本の伝統的な祭りに何故「光のピラミッド」が?結社は伝統に憑依し視覚的な「形」「デザイン」を駆使したシンボリズムで存在を誇示する。このようなシンボリズムも全て「認識」に関わる。だから「認識」に気を付けないといけないのである。シンボルに気づき「受け入れない」という意思表示をすべき。 〇バラモン教の「解脱」は梵我一如の神秘的境地とされるが、仏教の「涅槃」は「貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅」と明確に定義される。愚痴とは「欲をかいたり怒り過ぎるとろくな事が無い」という事に心から納得していない無知な状態。無知だから過剰な欲や怒りが生じる。貪瞋癡は相互に密接な関係。 〇ユネスコの無形文化財に登録されたという祭りに「光のピラミッド」が登場。ユネスコ創設に大きな影響を及ぼしたのが神智学協会。この祭りは「1803(享和3)年に疫病退散を祈願して始まった」と書かれているが「光のピラミッド」山笠もその当時からあったのだろうか。https://mainichi.jp/articles/20170723/k00/00m/040/108000c 〇「光のピラミッド」と形容される山笠が江戸時代からあったのか否か。仮にあったとするとそれを「光のピラミッド」という言葉で表現する事自体が憑依型戦術である。日猶同祖論のようにたまたま形が似ているものを「同じ」とするやり方。いずれにしても視覚と概念に関わる。これも全て「認識」である。 〇シンボリックな造形をして紛れ込ませるか、たまたま形が似ている事に付け込んで「光のピラミッド」などとラベルを貼り付けるか、である。いずれにしろ何らかの形で伝統文化に絡みついて改竄し破壊しようとする憑依型戦術である。造形は視覚という感覚・知覚に、ラベルの貼り付けは思考・概念に関わる。 https://twitter.com/kikuchi_8/status/1031936092163862529 (了)
by kokusai_seikei
| 2018-08-26 13:13
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