ツイートまとめ テーマ:西洋神秘主義者(神智学徒等)の伝統思想への憑依型戦術を破る。及び洗脳に対する心理防御法について。

〇「般若」と「グノーシス」が同じく「認識」を意味するから「同じ」だというのは神道の「神」とキリスト教の「ゴッド」を同じだとするくらい粗雑な議論である。問題は「認識」の中身である。般若の認識内容な「空=実体の否定」である。グノーシスの場合は実体論が前提の霊肉二元論である。相容れない。

〇「空の認識」とは実践的に言うと「無執着」と同義である。仏教は「心から渇愛を除き苦を滅する」という事に尽きる。どこまでも現実の心のあり方がテーマである。一方のグノーシスはどこまでも形而上学である。霊肉二元論を前提に物質という「牢獄」から霊魂を解放させるという形而上学がテーマである。

〇ブッダが答えなかった形而上学的命題を「十難無記」などというが、その中に「霊魂と肉体は同じであるか。別であるか」という命題がある。グノーシス思想は明確に「霊魂と肉体は別である」という立場に立っている。これはれっきとした一つの形而上学的立場だ。仏教の無記とは相容れない事が明白である。

〇「毒矢の喩え」にあるように、仏教は「精神と肉体が同じか。別か」など形而上学的命題を考える事よりも、現実の心をどう修練して苦を滅するかという実践を重視する。ブッダは形而上学的命題には断定を下さず。「苦・苦の原因・苦の滅・苦の滅に至る道」を断定した。四諦である。全て心の問題である。

〇グノーシスは霊肉二元論という形而上学的前提に立った上で「邪悪な物質世界からの霊魂の解放」という形而上学的目標を目指すのに対し、仏教は終始現実の執著にまみれて苦しんでいる「心」を問題としており、「霊魂と物質」が云々等の形而上学的思索は思考経済の観点から深入りを避けていると思われる。

〇物質観も仏教とグノーシスでは異なる。仏教の物質観では物質は善でも悪でもなく無記(価値中立)である。善悪はあくまで心(識。厳密には識に伴う思の心所=意志による。つまり意志の善悪であり心の問題)にしか言われない。グノーシスでは物質は悪とする。だから物質から善なる霊魂を解放せんとする。

〇憑依型戦術は基本的に「嘘も百回言えば」方式で繰り返し刷込む手口である。よって憑依型戦術を破るコツは「具体的な中身や内容を検討する事」。これに尽きる。憑依型戦術では名称など表面的な類似をあげつらって同一視するやり方をする。これは少し詳しく検討すれば到底維持できる類のものではない。

〇スピリチュアル系の方から「般若とグノーシスは同じ『認識』を意味するのにスルーする」みたいなエアリプライを頂いていたようなので、その事について応答する意味を込めて、仏教とグノーシスの基本的違いについて書かせて頂いた次第である。TPPなど喫緊の問題が山積なので後回しになってしまった。

〇神智学なども到底相容れないものを混合している。ブラバッキーなどはチベットを神秘化し、そこに「グル」が存在するという設定にしていたようだが、チベットの中観哲学と神智学のベースである新プラトン主義は到底相容れないものである。「具体的な中身を検討する」。これが憑依型戦術を破る鍵である。

〇西洋人の発想の基本はキリスト教である。キリスト教を肯定するにしろ否定するにしろ彼らの判断基準はあくまでキリスト教である。従ってキリスト教を否定する立場にしろ、キリスト教以外の思想は全部同じだと見てしまう傾向がある。しかも否定しながら発想の根にキリスト教を引きずっている場合が多い。

〇グノーシス主義者が「物質は悪」とするのは、「物質」という対象への執著が生み出す「物質欲」そこから生まれる不都合=悪を己の心の外部に投影した結果であろうと思う。唯識的に言うと遍計所執性、廣松渉風に言うと「物象化的錯視」である。己の心の悪を「悪魔」として外部化するのと同じ機制である。

〇「鬼」と「悪魔」の違い。「鬼」は具体的な心や行動のあり方による。憎悪や怨念に囚われて悪行為をなすようになった者が「鬼」となったという日本の昔話は多い。逆に言えば改心すれば鬼は鬼でなくなる。一方、「悪魔」は常住不変の本体を持つ「悪」そのものとされ、改心して善になる事はないとされる。

〇原始仏典に「行為によってバラモンなのである。行為によってバラモンならざる者なのである。」(「バラモン」はここでは立派な人の意味)とある。「鬼」もこれと同じである。行為によって鬼となり、行為によって鬼ならざる者となる。「悪魔」は具体的な行為に関わらず本性として実体として悪とされる。

〇鬼と悪魔の違いは日本と西洋の悪への対処の仕方にも現れてくる。「鬼退治」は「懲らしめ」で終わる事も多いが、「悪魔退治」は「絶滅戦」「やるかやられるか」になる。「鬼」かどうかは結局「行為」によるので悪行為を止めれば退治する理由は無い。「悪魔」は絶対悪なので「絶滅するしかない」となる。

〇原始仏教の要点。①何かを認識する。②認識した対象に対して好き・嫌いの感情が生じる。③好き・嫌いが増長すると貪り・憎しみ等の執着が生じる。④貪り・憎しみ等の執着が苦を生じる。➄苦の原因である執着を制すれば苦が消える。〇どこにも神秘な所は無い。梵我一如を説くバラモン教とは全く異なる。

〇鴨長明の方丈記にある「事にふれて執心なかれとなり」はまさに「認識した対象に執着するな」という原始仏教のエッセンスの簡潔な表現。LSDの如き薬物で再現できる神秘体験などより物事に執着しない・貪らない・憎まない・動じない・冷静に対処できる・慈しみを持つ事などの方が値打ちありとする考え。

〇神智学からバラモン教など神秘思想と原始仏教の違いなどが話題になったので若干考察してみた次第である。神秘体験をしたからと言ってそれで人間的に立派になる訳ではない。ティモシー・リアリーらサイケデリックの連中が立派か。神秘体験より例えば毀誉褒貶に動じない心などの方が値打ちがあると思う。

〇特別な教義を極めたり特殊な体験をすると「自分は特別だ」という「傲り」が生じがちである。仏陀が特殊な苦行を否定した趣旨も苦行を経る事で心に傲りを生じる場合があるからだと思われる。特殊な形而上学や神秘体験、苦行等に執着すると傲りが生じる。傲りはその人を損なう。今も昔も変わらない事実。

〇原始仏教の目的は「貪欲」「憎悪」「傲慢」「嫉妬」「迷妄」等の心の働きを妨げる諸々の「煩悩」「執着」「渇愛(tanha)」を取り除く事で「苦」を滅する事である。どんなに形而上学を極めても、神秘体験や苦行を経験しても、それらに執着して煩悩が心から除去されていなければ何の意味も無いとする。

〇各種形而上学に囚われて他者と争いを起こす人は今も昔もたくさんいる。
スッタニパータ847に「想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」とあり。「想い」とは形而上学を形作る表象作用であり、「偏見」とは形而上学的断定に基づく特殊な見解を指していると思われる。

〇論争は避けられないがせめて慢心を生じないようにしたい。スッタニパータ830 心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

〇要は「神秘体験」でも苦行でも論争でもその他諸々何かをやる事で「心の高ぶり=傲慢・高慢」が生じるなら何の意味も無い、有害だという趣旨だと思われる。特殊な形而上学やら神秘体験やらを引っ提げて好んで他者に争いを仕掛けるような行為はその人自身を害っている訳である。各種盲信者は猛省を要す。

〇印度の所謂不可触民の指導者で仏教に改宗したアンベードカルの本に「欲望を制した者が阿羅漢だ」という趣旨の定義が書いてあったと記憶する。「梵我一如は梵の存在が証明できないので無意味」とも。感情や欲望を統御し物事に動じない人間になるという趣旨だろう。武士の心にも通じる。神秘主義に非ず。

〇神秘体験などに固執する者は昔からいた事が分かる。スッタニパータ876「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうち(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。

〇「空」の概念は基本的に主語ではなく述語である。「〇〇は空」という風に何らかの事物(主語)に関しての述定。その「何らかの事物」は「認識され(確認され)た現象」である。ここで認識論的観点が出て唯識に繋がる。唯識では空は「円成実性」と言う。大森荘蔵や廣松渉の認識論は唯識に通じると思う。

〇物凄いスピードで次々に生起する感情や雑念・妄想にその都度気づいておく事は有効な心理防御術だと思う。例えば何かを認識し「怒り」という感情が生じたら「怒りだ」と気づいている。気づいている間は「怒り」に心が占領されない。洗脳も結局は何かを認識し感情が生起する認識論的な構造は同じである。

〇「何かを認識させ影響を与える」が洗脳の基本構造である。各種思想工作、映画や音楽に埋め込まれたシンボル等も全て「五感+思考」で認識し感情を生じ深層心理に影響が刷り込まれる。「①認識→②感情の生起→③影響を残す」という順序。①と②に気づいているだけで影響を大幅に遮断できると考える。

〇プロパガンダは視覚的聴覚的な要素を多用する。ネット上の宣伝戦でも対象を醜く印象操作し見た者の感情を煽る効果が高い画像や動画などの視覚的素材が使われる。プロパガンダを認識した時に「怒り」「嫌悪」等の感情が瞬時に生起する。その瞬間的動きに気づいているだけで影響を大幅に遮断できるはず。

〇原始仏典に「煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである」「見聞きしたことに汚されない」とある。つまり何かを認識して「貪り」や「怒り」等の感情が生起してもそれに気づいていれば悪影響を遮断できるし、そうやって鍛えた心は何かを認識しても悪影響を受けないという意味だと解釈できる。

〇南方仏教の「ヴィッパサナー」北方仏教の「観」も憑依型戦術の標的。マインドフルネスだ。前者から「煩悩を制する」という倫理性や平静な心境から自ずと生じる独立的思考(智慧)を抜いたもので「ストレスを軽減する事で文句を言わず命令に従うロボット」とする事が狙いの可能性あり。似て非なるもの。

〇「煩悩を制する事」を「智慧」とするのは一見論理的な連関がよく分からないが、「煩悩に惑わされない平静な心境になると自ずと明晰な思考能力が発揮される」という事だと解釈できる。欲をかいたり怒り狂っている者に冷静な独立的思考は期待できない。強い情念は思考を歪める。ごく当然の理路であった。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/794215603615604736


(了)

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by kokusai_seikei | 2018-01-21 07:50 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)
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