〇仏教を初め東洋思想の特徴の一つが「大事なのは信仰より心法」だと思う。いざという場合に大事なのはいかにその時の心理状態を制御できるかだという洞察である。「傲り、貪り、怒りなど負の感情に囚われ過ぎるとろくな事が無い」という経験則でもある。信仰を第一とする西洋思想との大きな違いである。
〇西洋思想では信仰が何より大切とされるが、東洋思想では心法が核心となる。東洋思想の考えからすれば、仮に何かを熱烈に信仰していても、それによって貪りや怒りに囚われるなら本末転倒である。逆に特に信仰は持たなくても貪りや怒り、傲りを制した人は立派な人物なのである。後者の考えに理を感じる。 〇東洋思想は大体以下の立場と思う。何かを信仰する事の反射的効果で負の感情が制せられるなら、それはそれでよいとするが、それは信仰自体より負の感情が制せられている結果に価値を見る訳である。逆に、負の感情が制せられ人の道に適うなら無信仰で一向に構わず。だが信仰故に悪に走るのは許されない。 〇恐らく原始仏教などでは、熱烈な信仰故に怒りや貪りに満ちているなら、その信仰は否定される。信仰が一切なくても怒りや貪りを制しているなら、それは称賛される。信仰の良しあしなど形而上学的問題は「無記」とする。大事なのは現実の心や行為をいかにするか、のみとなる。東洋では心法・道義>信仰。 〇支那思想の学者が書いていたが、ヨーロッパが「神」を巡る系譜なら、支那では「道」を巡る系譜だと。「道」とは、原理、法則、規範等々様々なニュアンスがあると思うが、印度の「法=ダルマ」と近い概念だと思う。だから「道」を巡る支那の思想史は信仰ではなく倫理とか道義道徳が主題となっている。 〇信仰熱心だが内に深く恨みを抱き殺伐として事ある毎に他人に絡みつく人間と、信仰は持たないが己の怒りを制し他者に対する思いやりを常に忘れない人間がいるとしたら吾人は後者を尊敬する。西洋では信仰を持つ事自体を価値とするが、東洋では「道」即ち道理に適うを価値とする。東洋では道理>信仰。 〇西洋の「宗教」、東洋の「道」。「宗教」(この概念自体キリスト教をモデルとした西洋伝来のもの)は人間性を向上させるとは限らない。固定化された教義や世界観を絶対のものとして奉じるとむしろ人間性を歪めてしまう場合が多い。怒りや貪りを制する事、思いやりを持つ事。「道」はそれで十分と思う。 〇カルトやスピの妄信者が憎悪に満ちた攻撃を仕掛けてくる度に思うが「この者達にとって信仰が何の意味をなしているのか?」である。憎悪を制する事ができない、どころかたき火に薪をくべる様にさらに燃え立たせる信仰とは?憎悪を持つと苦しむ。無くすと苦は消える。信仰より道理の観察が重要と考える。 〇欲をかいたり、憎んだりすると心が苦しむ。欲や怒りを制御すると苦が減る。この「道理」に信仰が入り込む余地はない。何を信じようが個々の自由だが、己の中にある貪り、傲慢、怒り、恨みつらみ・怨念、そう言った負の感情を制する事が出来ない、逆に増長するような「信仰」は無意味で有害だと考える。 〇信仰など持たずとも貪りや憎しみを制する事ができるなら有意味である。信仰より道理の観察が重要である。日本及び東洋の伝統では、「宗教」「信仰」より「道」「法」「道理」を重視する。怒りを制する事が「和」の前提である。「怒り」は徳の全てを吹き飛ばす。よって思いやり、仁、慈悲の前提は忍耐。 〇古来日本においては特定の思想を教義的に固定化し絶対化するのを邪教化と見なしたのではあるまいか。神道にしろ仏教にしろ、どれか一つの宗派や流派が全体を制圧した事はついぞなかった。相互横断的ですらあった。日本人は宗教の奴隷にはならない。思想哲学は活用するもの。そう見なしてきたと思う。 〇日本では「宗教は怖い」というイメージがあるが、これは戦後の風潮ではなく元々日本人が持っていた感覚ではなかろうか。ここでいう「宗教」とは一神教的な絶対的な教義や世界観を固持して他を排斥する体系の事である。日本人はかかる意味での宗教は忌避するが神社にもお寺にもお参りする。普通の事だ。 〇西洋では宗教の土台の上に道徳が乗っているので、宗教や信仰を否定すると危険人物扱いをされがちな様だが、東洋では道=道理が根本なので宗教や信仰を否定しても虚無主義にはならない。また「道とは何なのか」についても決して一義的に固定化せず、神・儒・仏・道で自由に論議して思索・検討する風土。 〇印度でも支那でも自由思想家や諸子百家が百家争鳴。我が江戸時代においては「道」について、国学者、儒学者、仏僧などの間で活発な論議がなされていた。学問の方法論として実証主義が広く共有された。本居宣長の方法論は徂徠学を学んだ堀景山の影響。仏僧では慈雲が実証的方法で梵語や仏教学を研究。 〇日本や東洋では「道理>宗教」という土壌。その上、道理=道とは何たるか?についても一義的に固定化されず様々な見解があり相互に論議し合って検討した。絶対的な「宗教」が無いが故にこのような状況を可能とした。宗教や信仰をやかましく言うのはキリスト教徒の口吻を真似た西洋かぶれと思われる。 〇昔の日本人の心(古心)は固定化された宗教教義や思想哲学ではなく古人が詠んだ和歌や俳句などの中に見つかるのでは、というのが吾人の考え。自然や人事に接して喚起される情趣即ち「もののあはれ」をそのまま言葉として造形化した伝統文学。固定化した教義でも思想でもない「古人の心=古心」である。 〇西洋人は己の原点を聖書に求め、思惟形式の根源はギリシャ哲学にある。永遠の実在世界と現実の現象世界の二世界観に基づき現実の背後に想定するイデア(永遠の美など)を造形化するという志向の西洋伝統芸術。具体的な自然や人事の賛美や詠嘆ではなく、神やイデア又は抽象化された「人間」の賛美が主。 〇西洋では宗教が道徳や価値の土台なので宗教や信仰が否定されるとニヒリズムの危機が訪れる。ニーチェが突いた「神の死」の状況とはこの事。一方で西洋文明では反宗教の場合も徹底している。大東社・イルミナティ→共産主義の流れでは宗教を徹底破壊し、新たな宗教としての理性崇拝や共産主義を絶対化。 〇宗教原理主義者と反宗教原理主義者は酷似しているが両建である。後者は「宗教」という体裁をとっていないだけで特定の思想哲学や世界観を絶対化しているので「宗教」と同質である。革命仏蘭西は「理性教」、ソ連は「マルクス・レーニン教」の宗教原理主義国家だったと言えよう。「反宗教という宗教」。 〇この様に西洋文明は何事も両極端であり中庸とか中道が極めて希薄である。「両極の中間」という意味での中庸(アリストテレスが説いた中庸はこれ)はあるが、これも一つの固定的な断定である点で変わりない。東洋における中庸・中道は「中間」ではなく「適切」という意味。要するにバランス感覚である。 〇「破両建」の極意を「中道」だと考えるのは端的に両建(両極端)の反対が中道(適切)だからである。両極端(まさに両建)を避け、状況毎(ここで重要)に適切な判断を下す事が中道(道に中る)の原意。「適切な判断」とは「適切なポイントを見抜く」つまり「急所を突く」と言い換える事が出来る。 〇中道の中身は状況によるので固定化は厳禁。「両極の間の中間」という判断すら固定化の産物である。例えば火事の時の消火作業は「急ぐでもなくゆっくりでもなく中間」などと言ってられない。その状況では「冷静さを保ちつつ急ぐ」が適切な判断。その状況において最も適切な判断を下すのが中道である。 〇 陰謀追及では固定化は両建に取り込まれる危険を意味する。先ほどの例で言うと、火事の時に「冷静さは必要ない。とにかく急げ」「冷静にゆっくりとやれ」という両極端な判断に固執するのと同じである。どちらも適切ではないから結局火が燃え広がってしまう。両建とは不適切な両極に人々を二分する事だ。 〇両建戦術とは。火事の例で言うと、消火作業をする人たちに対して傍から「冷静さは要らない。とにかく急げ」とか、「冷静に慎重にじっくりゆるりとやれ」とか、両極端な指示を与えて「冷静さを保ちつつ急ぐ」というその状況での適切な判断を晦ませて鎮火を妨げる放火魔の手口、と言えるかもしれない。 〇印度では「ヒンドゥー教」と一口に言っても様々な流派があり教義内容は全く一定していない。だが、印度では形而上学的世界観の一致よりダルマ=行為規範(謂わば印度人が考える道理)の一致を重視するそうだ。だからダルマに従うなら無神論者をもヒンドゥー教徒として許容するとの事。道理>宗教の例。 〇ここでいう「宗教」とは西洋における猶太・基督教のように「絶対的な教義や世界観の体系」の意味。その点、印度人はかなり寛容である。印度人は歴史的に哲学的思弁が大変発達しているが、かといって特定の形而上学的世界観を絶対化する事はしていない。むしろダルマ=行為規範の順守を重視するようだ。 〇支那では知識人ほど西洋的な意味での「宗教」を軽蔑した。読書人たる士大夫たるものは他力的な「宗教」に依るを潔しとせず、という態度が強かったようだ。例えば章炳麟などは「依自不依他」と言った。だから支那知識人の間では禅が受け入れられた。その影響下に生まれたのが朱子学であり陽明学である。 〇日本では「宗教」より「道理」(=道)が中心である事は富永仲基の例で分かる。仲基は大乗仏典の研究において「加上説」を打ち出した事で有名だが、仏教だけでなく神道も儒教も否定し「誠の道」を唱えた。「道」の考察が中心。特定の宗教教義が絶対の社会なら仲基のような思想家は許容しえないだろう。 https://twitter.com/kikuchi_8/status/781176498380087296 (了)
by kokusai_seikei
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