人気ブログランキング | 話題のタグを見る

宮本武蔵の説く「拍子」と易経

宮本武蔵は真剣勝負に勝つには「拍子」に乗る事が大切と説いたが易経が説くところもこの拍子=リズムに適合して判断・行動すべきという事であるように思う。生体のバイオリズムや人生の順境と逆境のように物事には勢いが伸びる時と縮む時の循環的なリズムがある。これを見極めろという教えだと考える。

四季や昼夜が巡り、人生の浮沈がある、というように事象には勢いが伸びる時と縮む時の循環があり、前者を陽、後者を陰と名付け、その全体の運行を「道」とか「太極」と名付けたものと思われる。「陰陽」はあくまでも具体的事物が持つ循環的リズムに名付けた名前だと思われる。

※善悪二元論と陰陽思想の違い。善の力と悪の力という形而上学的実体がまずありき、というゾロアスター教やキリスト教のような形而上学的二元論とは逆で、現実の自然現象や人事・歴史など具体的事物の運行・リズムを観察して、その動きに「陰陽」という表現を当てたと思われる。

宮本武蔵のような命懸けの真剣勝負を制してきた現実主義者が勝負において拍子=リズムに適合する重要性を指摘している。事象にはそれぞれ拍子があり、物事がうまくいくときは拍子に乗る時であり、いかないときは拍子が外れる時である、のかもしれない。易経は拍子の研究書と言えるかもしれない。

※宮本武蔵の「五輪書」空の巻に「ある所をしりて、なき所をしる、是則、空なり。」とある。有無の中道=空。徹底的な現実主義者の武蔵が最後に辿り着いたのは「空」であった。空は現実そのものの論理であるからむべなるかな。空とは虚無ではなく兵法・武芸など武士の道を怠りなくつとめることだと武蔵。「空」のまま自然の流れに乗り技を繰り出す=拍子、という事なのだろう。


(了)


by kokusai_seikei | 2015-09-16 23:19 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)


<< 一神教は「偶像崇拝」を嫌うのか... 韓国にキリスト教徒が多い理由を分析 >>