唯物論とは一体何なのか。人間にとってたち現れる「物質」とは常に視覚なり触覚なりの感覚である。そしてその都度の感覚を「物質」という言葉を通して観念的に抽象化すると「物質」という認識が生まれる。常に感覚という形で「物質」を覚知する人間にとって感覚から隔絶した純粋質料としての「物質」は永遠に彼岸の彼方だ。今だ感覚されない「物質」と言えども常に「感覚されうる」可能態としてそこにある。極微の世界と言えども電子顕微鏡などの感覚器官の延長を介せば認識されうるわけであるから同断である。未だ具体的な感覚となっていない「物質」と言えども感覚器官でとらえれば認識対象として確定するわけであり、人間にとっては認識作用や感覚から完全に離れた無関係なものとしてそこにあるわけではないのである。
認識主体と認識対象は便宜的に分けられるものの別に主観と客観で別次元にあるわけではなく主客は相互依存しており本質的には一体でありそれは総世界的な連関体である。蛇口を捻れば水が出るのは単に蛇口が水を出すのではなく水道のシステム全体が機能しているから水が出るのである。認識も同じことが言えるのではないか。もともと認識主体と認識対象が全体で一体の仕組みだから個々の認識がその都度成立する(蛇口から水が出る)のではないか。まさに絶対的に孤立した存在の不在を意味する「空=縁起」である。「空」=総世界的連関機構において認識が成立する。かかる主観と客観が一体をなして成り立っている総世界的連関体のある一部つまり「認識対象」のみを無理矢理取り出してそれを独存するものとして扱いしかも唯一の実在だとする、そういう操作的過程を経ないと唯物論のような実在論というのは出てこない。つまり人間にとって原基的な場面というのは主観と客観が一体である認識そのもの(唯識用語で言うと見分と相分が自体分において一つ)であり、認識主体=見分であるとか認識対象=相分であるとかはのちに反省的に措定され観念の上で分岐してくる。全く認識主体から隔絶した外界の実在ありとする唯物論に代表される実在論的世界観というのは全然「客観的」ではなく既にして加工の産物である。 だから認識や感覚の彼方にある純粋質料としての「物質」を唯一の実在とする唯物論というのは基本的に形而上学だと思うのである。変化しない実在から変化する現象世界が創造されたり流出したりするとする、それ自体大矛盾を抱えた一神教や神秘主義と同類の形而上学ではなかろうか。根源の物質から精神が産出される、という物言いは「種子から芽が出る」という物言いに似ている。種子から芽がでるのは種子に種子としての自性がないからである。もし自性があるなら種子はいつまでも種子のままである。種子が因縁生無自性であるから芽が出るのである。同じように「物質」に物質としての自性が無いから「精神」が生じ、「精神」に精神の自性がないから物質を認識できるのである。物質に物質の自性があるなら永遠に物質のままであって、精神を生じることも精神に認識されることもあり得ない。東洋思想で説かれる物心一如とはそういうことである。近代合理主義からは古代的迷信のように見えるかもしれないが実は近代主義の立脚する物心二元論こそが迷信であって、物心一如論の方が合理的である。西洋思想は基本的に非合理で不可能なものが多い。 唯物論が何故ダメなのか。それは人間にとっての具体的な世界は感覚や質感や感動(良くも悪くも)に満ちたものであるのにそう言ったものを捨象して単なる抽象的で無機質で荒涼とした「物質」の世界と妄想することになるからである。このような世界には情も感動も道義もののあわれも芸術もへったくれもないであろう。本居宣長先生のおっしゃる「漢心」とはかかる感動や情動つまりもののあわれに満ちた「事」の集積である現実世界を抽象的に理念化してとらえる暴力性のことを突かれたのであろう。華厳仏教の四法界の説(思想分類モデル)でも理念・抽象的な真理のみの「理法界」は下から二番目の評価しか与えられていない。イデア説などはまさに下から二番目の典型である。一神教にしても神秘主義にしても西洋の宗教や思想は下から二番目が多い。下から二番目教である(合掌)。理念・理法・真理・法則性というのは決して彼岸的に抽象的には存在せず具体的事物を通してしか存在し得ない、というか具体的な事物の「あり方」そのものをそういった名称で呼ぶのみである。まず真理があり、そこから現象が出てくる、というプラトニズムなどに見られる発想は現実のプロセスを顛倒している。実際にはまず現象が認識されその現象の動きの規則性が発見されて、そこに「真理」という言葉を貼りつける、というプロセスである。 「真理」とか「法則」というのは言葉で仮に立てられたまでであり現実にあるのは事=現象のみ。しかしそれは既述のように無原則なカオスではなく理=真理=法則性=理法界というあり方をする。従って現象と理法が一体となった理事無礙法界。だが究極的には理は事に完全に溶け込み意識されない。事即理(色即是空、現象即実在)ならばもはや敢えて理を殊更に言う必要はなくなるのである。よって理を敢えて言挙げせずとも個々の現象が独自性を保ったまま相互に相即円融する事事無礙法界となる。人間にとって永遠の彼岸である「物質」を唯一の実在とする唯物論は、同じく「天上の造物主」(宇宙に上も下もない)という彼岸を説きこの豊かな現象世界をそれに隷属させ貶め縛り付けようとする一神教と何ら変わることがない形而上学である。一神教も唯物論もこの現象世界を不当に貶め痛め付ける点で全く同じなのである。一神教・神秘主義の英国メーソンも唯物論・無神論に立つ仏蘭西メーソンも同根なのだ。彼らが分進合撃的な競争的努力の先に目指す世界は荒涼とした死の世界である。思想の面からもそう言えるのではないか。
by kokusai_seikei
| 2014-08-06 11:18
| 思想哲学解析
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