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ツイートまとめ テーマ:国際秘密力が好む「片目」のシンボリズムを解析する。「シンボル」は「言語」と同じ仕組み。シンボリズムを無効化する方法についても考究する。

〇香港のデモ参加者の女性が警察の攻撃で右目を負傷したという事で、右目を手で覆い左目だけを出すサインをデモのシンボルにしていた。ホルスの目は右目だが、ホルスの左目は「ウジャトの目」と言って知恵の象徴であり、これが西洋では「プロビデンスの目」となった。左目がデモの象徴。意味深である。

〇エジプト神話でホルスが父のオシリスの仇を討つ為にセトと戦った時に左目を失い、その左目はホルスの下から離れてエジプト全土を旅して見聞を広めて知恵を身に着け、最終的に知恵の神トートによって回復されてホルスの元に戻ったという話がある。ホルスの左目が知恵の象徴なのはかかる神話に由来する。

〇西洋で秘密結社などが使用する「プロビデンスの目」(オールシーイングアイ)は知恵を象徴するホルスの左目(ウアジェト、ウジャトの目)が元ネタだと思われる。プロビデンスの目は「摂理」「全知全能」「知恵」「理性」等を象徴すると思われる。ある意味、国際秘密力が目指す超監視社会の象徴である。

〇「目」が知恵の象徴なのは古代エジプト人や西洋人に「真理」とは「見る」ものという観念がある事を窺わせる。「真理」が視覚的な対象として自分に対するもの(対象)としてあるイメージである。これは実体論と符合する。この辺は以前文字文化について考察した時に多少論じた。https://kokuhiken.exblog.jp/30410929/

〇何かを見ると対象の快・不快に応じて欲や怒りが生じる。じっと凝視し続ける「目」は「見る」だけでなく「欲」や「怒り」のシンボルにもなり得る。「万物を見る目」は「万物に対する支配欲」をも象徴し得る。監視するのは支配する為である。ある意味国際秘密力の正体を如何なく示すシンボルと言える。

〇目自体は人の有用な感官だが、わざわざ目をシンボルとする事には独特の意図が込められているはずである。「見る」事から連想して「知恵」「摂理」「全知全能」「理性」「監視」等が想定される。シンボルは記号の一種なので、必ず「意味」と対応する。基本的に能記と所記からなる言語と同じ構造である。

〇「プロビデンスの目」は一般的には「知恵」「全知」「摂理」等の象徴とされる。これらは「見る」及び「見る対象」を指す。「何かの対象を見る」という認識作用には欲や怒りの感情を伴う事もある。「全てを見る」とは「全てを支配する(という欲)」事や「全てを破壊する(という怒り)」事にも通じる。

〇目のシンボルは「見る事への執着」を示していると考える。目は他の器官と同様に大切だが、わざわざ図像化してシンボルにするのは目や目の認識作用(見る)を特別視しているからだろう。客観的な「見る」だけならシンボルにする必要はない。目のシンボルは支配欲も示すとの分析は的外れでもないと思う。

〇目自体は大切なのに、目のシンボルが気味が悪いのは何故か。按ずるに「見る事」に伴う執着や作為を感じさせるからではあるまいか。誰しもジロジロと見られたら嫌な気がするであろう。それと似ている。目のシンボルの誇示は知恵の誇示であり、支配への執着でもある。とても傲慢な感じがする訳である。

〇民俗学で言う「邪視」(南方熊楠が命名)という民間伝承があった。悪意を持って相手を睨み付けると呪いをかけられるとする迷信である。邪視の例からしても「目」のシンボルは只の器官や認識作用の象徴ではなくて「悪意」のような何らかの情念(欲や怒りなど)をも象徴している可能性が高いと言える。

〇邪視の伝承は中東以西の地域に多く見られるようである。ヨーロッパでは邪視の迷信が盛んだったようである。目に力があり睨む事で悪意や憎悪、嫉妬のような情念を飛ばし相手に危害を加えるとする発想。かかる文化的土壌も片目のシンボルの文化的背景の一つなのではと推測する。https://ja.wikipedia.org/wiki/邪視

〇陰謀追及界隈では「右目と左目」という事がよく言われる。結社が片目をシンボルにしているので右目と左目で何らかの系統分けが出来そうに思われる。ネタ元の「ホルスの目」は右目は「ラーの目」とも言われて太陽の象徴である。一方ホルスの左目は「ウジャトの目」であり月の象徴で知恵の象徴でもある。

〇ホルスの右目(ラーの目)は太陽の象徴なので「権威」などを象徴していると推測する。ラーはエジプト神話では太陽神であると同時に創造神ともされ、後に同じ太陽神のアメンやアテンと習合したとされる。エジプトの太陽信仰が一神教の誕生に繋がったとするとホルスの右目は一神教の象徴にもなり得る。

〇左目は「知恵の象徴」とされるが、西洋的「知恵」は大きく分けて2種類ありと見る。神秘主義的な「知恵」(神智=テオゾフィー)と理性主義的な「知恵」(啓蒙主義が代表)。ここから「右目=権威主義的な一神教的勢力の象徴」「左目=神秘主義的又は理性主義的な勢力の象徴」という仮説を立ててみる。

〇裏権力の思想派閥を①一神教②神秘主義③理性主義の三派閥ありと分析しているが、右目は①、左目は②③に一応該当。とは言え、右目的勢力の基督教会が左目のシンボルを用いている場合もあると思うので、一概に断定する事は難しそうである。少なくとも「右目と左目の両建あり」という事は言えると思う。

〇「片目のシンボル」について分析したが、「シンボル」自体の構造を考察してみる。シンボルは何らかの図像やモニュメントなど視覚的な要素で何らかの意図や思想を示している。図式化すると「視覚像+意味」。これは言語の構造と同じである。言語は音声や表記と概念から成る。図式化すると「能記+所記」。

〇音声や文字など言語の表現面を「能記」で、それらが示す概念が「所記」である。能記と所記は切り離す事が出来ないが、相互の結び付きは恣意的とされる。例えば「エン」という音で丸い形(円)も関係性(縁)も示す事が出来る。これをソシュールの説では「恣意性」、唯識では「名義相互客塵性」と言う。

〇唯識の「名義相互客塵性」は「名」が能記に、「義」が所記にそれぞれほぼ相当する。これら相互の関係が鏡と鏡に付着した塵の関係の如くに本来的な必然的結び付きではないという意味である。この考えだと言葉の表記や音声それ自体に実体がある訳ではない、即ち言葉は「空=無実体」という捉え方になる。

〇この考え方を参考にしてシンボルについて考察する。シンボルも言語と同じで基本的に「能記+所記」の構造である。「片目」「ピラミッド」という形自体に「力」がある訳ではない。その形に対応する意図や思想、誰の意図か、シンボルの背景にある文化など形とその背後の関係性全体の分析が重要と考える。

〇「片目」や「ピラミッド」という「形」自体に力があると考えるのは一種の実体視又は物象化的な錯視だと言える。特定のシンボルの形の背後にある意図や思想、主体(如何なる個人や集団の意図・思想か)、背景にある文化的土壌などの全体の関係性や構造を分析する事でシンボルを解析出来ると考える。

〇シンボルの「形」自体に力があると考えるとかえってシンボルに「力」を与えかねない。勿論これはオカルト的な意味ではない。主観的な思想的影響力という意味。シンボルの形自体に力があると考える人が増えるとシンボル自体に力があるとする共同主観が形成され、結果的に思想的影響力を強化しかねない。

〇シンボルはその形(視覚像)自体が力を持っているのではなく、そこに込めた意図や思想、その意図や思想を込めた個人や集団、それらの背景を為す文化的土壌や文脈等の関係性の総体として機能する。これらの全体の関係構造の結節点がシンボルの形である。シンボルの形はそれ自体で力を持つ実体ではない。

〇故に一つのシンボルを分析する為にはその背後にある関係性や構造をも分析しなければならない。そうする事で性質を見破り無効化する。その実シンボルなど気にしなければ何の効果も無い。只の形だ。例えば近代イルミナはフクロウをシンボルとしたが、野生のフクロウからすれば知った事ではないのである。

〇よく「思考停止はダメ」と言うが、本当に問題なのは思考停止より「思考誘導」である。本当に思考停止したらシンボルや思想の意味も伝わらない(思想の意味を受け取るのは思考の作用である)ので対洗脳という意味ではある意味最強である。だが、心配せずともこのような事は常人には殆ど不可能である。

〇問題なのは思考が停止する事より思考が他者に操られる事である。思考停止は洗脳防御という意味ではある意味「最強」だが、逆に思考が止まっているので積極的に陰謀追及する事も出来ない。故に陰謀追及では「正しく思考する」事が重要である。正しい思考は「事実と道理に沿って思考する事」と定義する。

〇思考停止は「守り」では最強だが、「攻め」が出来ない。そもそも我々常人にはほぼ不可能。それより「思考誘導」を警戒し、正しく思考する事が重要である。事実と道理に沿って思考し、思考を他者に操られないように注意する。シンボルによる洗脳を防ぎ、同時にシンボルを解析し無効化する事が出来る。

〇「正しい思考」は原始仏教では「貪瞋痴(貪欲・憎悪・無知)の無い思考」「欲・怒り・害意の無い思考」とされる。これを参考とすると「正しい思考」とは「主観的な感情で事実を歪めずに冷静に事実を観察し思考する事」と言えようか。逆に思考誘導では感情を煽る。要するに思考誘導の逆を考えるとよい。

〇思考誘導では事実を歪めて又は捏造し、感情を煽る。正し思考はこれの逆で事実を歪めず、感情も煽られない。欲や怒りを煽り、事実を歪めた嘘を刷り込み、それによって思考を誘導する。故に大事な事は①事実を歪めず冷静に観察する事。②事実や道理に沿って思考する事。③感情を煽られない事。となる。

〇「思考停止」の補足。思考停止とは感覚は機能しているが思考の作用は停止しているので、感覚的な情報を概念的に理解したり、概念を使って思考する事はしておらず、文章や画像、映像など五感を通して刷り込まれる思想工作も只の視覚像や音という感覚としてしか受け取らないので洗脳する事は出来ない。

〇「思考停止」について考察する事で「思考」の性質を浮かび上がらせ思考誘導の防止方法ついて論理的に結論を導く事が出来る。①「思考」は感覚以外の認識作用である。②思考が止まれば思考が誘導される事も無い。③思考しないと陰謀追及も不可。④思考があれば誘導され得る。⑤正しい思考が必要である。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1169687092261085185


(了)

# by kokusai_seikei | 2019-09-15 12:29 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:香港の騒乱は「中国共産党のデジタル・レーニン主義 vs. NED・ネオコン筋による『左目』をシンボルとする人工芝工作の両建抗争」と分析する。

〇香港でデモが起こっている。雨傘運動の有力スポンサーだったジミー・ライ(黎智英)という実業家はネオコンのポール・ウォルフォウィッツと会談するなど密接な関係だったようだ。中共のデジタル・レーニン主義と人工芝運動の両建抗争だと分析。裏権力は莫大な投資をしてきた中共を潰す気は無いだろう。

〇三年も前に書いた雨傘運動に関するツイートに対して香港のデモの関係者と思われるアカウントから日本語でリプライが来ていた。「雨傘」「香港」等で検索しつつプロパガンダ工作を行っているのだと推測。これに限らず裏権力絡みのムーブメントの最中には、それに関連する発言に対する横やりが増える。

〇「中国共産党の人工知能が生成したデマに騙されないで」という趣旨のリプライであった。その人工知能を駆使するデジタル・レーニン主義と人工芝運動の両建と指摘している。中共とイスラエルの関係について指摘したら中国語で大量のリプライが来た事があった。破両建すると全方位から敵視される国際版。

〇「裏権力絡みのムーブメントの最中には、それに関連する発言に対する横やりが増える」と書いたが、例えば日本で人工芝運動が流行った時がそうであった。人工芝運動に疑問を呈すると横文字左翼系の工作員やらネット暴徒らが大量発生した。頭数だけは多かったが、かなりレベルの低いチンピラ共であった。

〇香港政府が逃亡犯条例改定を撤回。デジタル・レーニン主義を推進するNWO先進国・中国は裏権力のお気に入りではあるが、香港は香港で国際金融資本が直接支配する東亜の拠点として確保しておくという事なのだろう。デジタル・レーニン主義が中国大陸全体を覆えば大陸のどこにいても同じという事になる。

〇雨傘運動のスポンサーだったジミー・ライ(黎智英)はネオコンのポール・ウォルフォウィッツと繋がっており、ジミー・ライが経営する壱伝媒集団(ネクストメディア)の幹部のマーク・サイモンなる人物は父親が35年間CIA局員で自身も米海軍で情報工作に従事したとの事である。https://www.hkpost.com.hk/20180822_12848/

〇香港の日本語紙「香港ポスト」によると、ジミー・ライが献金した政治団体の関連団体が米国のNED(全米民主主義基金。CIA関連機関で人工芝運動の司令塔)から資金援助を受けていた事が暴露されている由。香港の騒乱はデジタル・レーニン主義と人工芝運動の両建抗争と分析する。https://www.hkpost.com.hk/20180822_12848/

〇香港は上海と並ぶ国際金融資本の東亜に於ける古くからの拠点である。特に香港上海銀行はロスチャイルド傘下の最有力資産の一つと思われる。元々麻薬業者らが英国本国に送金する為に作った。幾ら中国でNWO実験中と言っても香港は彼らの特別な地域なので直接支配はそう簡単に手放さないという事だろう。

〇香港上海銀行は香港ドルの発券銀行の一つだそうである。通貨発行権を持つ私立銀行。国際金融資本の支配手法そのものである。香港はまさに国際金融資本の直接支配地域だと言える。大陸でデジタル・レーニン主義を推進中であろうと中共に任せるのは惜しいという事だと思われる。https://ja.wikipedia.org/wiki/香港上海銀行

〇香港のデモ参加者の女性が警察の攻撃で右目を負傷したという事で、右目を手で覆い左目だけを出すサインをデモのシンボルにしていた。ホルスの目は右目だが、ホルスの左目は「ウジャトの目」と言って知恵の象徴であり、これが西洋では「プロビデンスの目」となった。左目がデモの象徴。意味深である。




(了)

# by kokusai_seikei | 2019-09-15 12:20 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:カジノ・IRはシオニスト勢力の資金源になる。カジノ・IRに断固反対する!イスラエルの人殺しに加担するな!!

〇トランプと密接な猶太カジノ王シェルドン・アデルソンは日本で大儲けを企む。しかも東京や大阪などの大都市しか興味が無いとも言っている。大都市である横浜市のIR誘致表明もそれに沿う動きであろう。カジノ解禁は猶太系カジノ業者と朝鮮系パチンコ業者への利益誘導と分析。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48854720S9A820C1000000/

〇シェルドン・アデルソンは熱心なシオニストであり、イスラエルに対する大口の献金者である。つまり、カジノの上りをイスラエルに「献上」している訳である。これがイスラエルの軍事行動に使われないはずがない。猶太系カジノ業者を儲けさせる事は間接的にイスラエルの人殺しに加担する事を意味する。

〇サンズグループの総帥であるシェルドン・アデルソンはトランプの後ろ盾であり、イスラエル首相のネタニヤフの支持者でもある。アメリカの在イスラエル大使館をテルアビブからエルサレムへ移転する費用を出す意向を示した。シオニスト勢力の資金源を断ち蛮行を阻止する為にもカジノ誘致に断固反対する。

〇横浜市のIR誘致表明を受けてサンズが横浜に照準を合わせてきた由。読みが図に当たるとはこの事である。アデルソンの本命中の本命は東京だろう。【米カジノ大手サンズ、大阪撤退=誘致表明の横浜に照準】https://www.jiji.com/jc/article?k=2019082201142&g=int


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1164603801304649729


(了)

# by kokusai_seikei | 2019-09-15 12:13 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:「よく名前が知られた人物だから裏権力メンバーではない」という事はない。世間的に著名な裏権力メンバーは「モリアーティ教授」の如きもの。

〇「よく名前が知られた人物だから権力者ではない」という事はない。名前が知られている事とその人物が権力構造の上でどのような位置にあるかを知られている事は別の事である。キッシンジャーやジャック・アタリ、ジャパンハンドラーズのマイケル・緑やジョセフ・ナイらは公然とマスメディアに登場する。

〇だが、一般的には彼らは「学者」「研究者」で通っている。名前が知られていても、その人物が権力を持っている事が世間にあまり知られていなければ、フィクサーや工作員として人々の目から隠れて各種工作が行える訳である。裏権力構成員はスパイのように顔や名前すら完全非公開とは限らないという事。

〇国際秘密力の構成員の中で世間的に全く名前が知られていない人物もいると思われるが、序列が低いか中枢に近い上位者だと思われる。実在の有無すら確認できない石屋の大幹部の名前がネットに出ている事もある。そういう事も勿論あるが、名が知られているからと言って序列が低いとは限らないと考える。

〇「竹中平蔵は有名なので国内のネオリベ勢力のボス的存在ではないのでは」という趣旨の異論があったのでこのような考察をした。世界経済フォーラムの理事でダボス会議の日本からの参加者の選定権限を持っていると言われ、東京財団理事長だった事を見てもネオリベの中心人物である事は間違いないだろう。

〇陰謀追及の方法としては公然情報で名が知られた裏権力の有力者を着実に分析しつつ、公開情報には載らない権力者や権力組織の存在をも推理しつつ追及していくというやり方がよいと考える。「裏権力の有力者は全員無名人のはずだ」との先入観を持って名の知られた有力者の分析を怠るべきではないだろう。

〇ダボス会議を主催する世界経済フォーラムの理事でダボス会議の日本人参加者を選定する権限を持っていたり、CSISの日本側カウンターパートの一つである東京財団の理事長だった事、自称「民間議員」として政府の政策を左右する等、国内の裏権力人脈の中ではケケ中は相当な上位者だと見るのが妥当だろう。

〇小説や漫画、ドラマなどで「表向きは社会的エリートだが、裏では暗黒社会を仕切るボス」という設定がよくある。例えばコナン・ドイルの小説「シャーロック・ホームズ」に出てくる「モリアーティ教授」は犯罪組織の黒幕だが、表向きは社会的信用のある大学教授であり天才的な数学者という設定である。

〇モリアーティは表向きは大学教授で犯罪組織のボスとは知られていない。著名な裏権力構成員(フィクサーや工作員)はモリアーティ教授のイメージで捉えると分かりやすいかもしれない。コナン・ドイルはフリーメイソンだったそうなので、石屋の内部で知った事情を自らの作品に反映させたのかもしれない。

〇ジェームズ・モリアーティは天才的な数学者・大学教授として世間的な名声を博す名の知られた人物である。だが、裏の顔はホームズが「犯罪界のナポレオン」と呼ぶほどの暗黒社会の大ボスである。この裏の顔は当然知られていない。名の知られた裏権力構成員はこのイメージで捉えると分かりやすいと思う。

〇モリアーティの挿絵が裏権力の面子の風貌にそっくりである。悪い事をしていると本当に悪相になるのかと思わせる。フィクション作品の設定は結構現実を反映していて馬鹿に出来ない。漫画やアニメ、ゲーム、特撮等も。むしろ一般的なドラマや小説より陰謀関連が多いかもしれない。シンボリズムも多い。


〇モリアーティが犯罪組織のボスである事は世間に全く知られてない訳ではない。情報通には「モリアーティはやばい」事が知られているという設定。これも裏権力構成員に似ている。裏権力構成員はメディア等一般世間では裏の権力者だと知られていないが、陰謀追及者など情報通には正体がよく知られている。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1162061156183183360


(了)

# by kokusai_seikei | 2019-09-15 12:08 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ:「両建」は「二項対立」ではなく二項が「同根」という所に力点がある。故に両建批判は二項対立の打破が目的。両建を破る論理としての「中道」についても考察する。

〇「両建」批判に対して「二項対立の強調」という趣旨の「非難」が寄せられたが、これは完全に藁人形論法か全くの理解不足と言ってよい。だが、この「非難」自体は両建批判を詳しく説明する契機にあるので有益である。事実は両建を批判するのは「二項対立の強調」とは真逆で二項対立を超克する為である。

〇両建とは通常は投資用語で意味は「取引で、同一人が、同一銘柄の売り建てと買い建ての両方をたてておくこと」(デジタル大辞泉)、同一人物が相反する投資を同時に行う事。転じて陰謀に於ける両建は対立する両勢力にテコ入れする事。このように「両建」は二項の根底が「同一」である事に力点がある。

〇「両建」という言葉自体が二項対立の強調どころか二項が同根である事に力点があるのである。両建は投資に於いては「同一銘柄の売り建てと買い建てを立てておく事」とされる。これは一種のリスクヘッジの方法。両建戦術にもこの面がある。対立する両勢力のどちらが勝っても損が無いようにする訳である。

〇リスクヘッジとしての両建戦術は猶太商人が得意としたものである。彼らは対立する両勢力に武器を売るなどした。国史上でも事例がある。真田家は関ヶ原の戦いに際して真田昌幸と信繁(幸村)は西軍に、信之は東軍についた。前者は滅んだが、後者の家は幕末まで続いた(途中で松平から養子を迎えたが)。

〇真田一族が東軍と西軍に分かれて家の存続を図ったのはリスクヘッジとしての両建の国史上の一例。ここでは東軍と西軍の二項対立の強調ではなく、むしろ「真田家の存続」という一点を目指した事に力点がある。両建の指摘を「二項対立の強調」とする解釈は両建について全く理解していないと言ってよい。

〇国史上でも両建の例はあるが、これを世界戦略の基礎として常用してきたのは欧米の裏権力集団(国際秘密力)であろう。彼らが関わる現象には両建がほぼ常に看取される。「分割して支配せよ」とも言う。両建批判は裏権力の戦略戦術を見破る事で無効化し、ワンワールド化工作を打ち破る事を目的とする。

〇事あるごとに左右両建抗争が盛り上がり、その裏で売国政策が実行されるという事が幾度も繰り返されてきた。両建抗争に乗せられると真に重要な問題から目を逸らされ、結果として売国に加担する事になる。そうならない為に警鐘を鳴らす事が両建批判の目的。これが「両建批判は二項対立の超克」の意味。

〇「両建抗争・両建構造という二項対立の図式に嵌められて真に重要な問題から目を逸らされているのではないか?」と警鐘を鳴らす為の両建批判はまさに「二項対立の強調」とは真逆である。両建の指摘を「両」というその字面だけ見て「二項対立の強調」などと決めつけるのは程度の低い藁人形論法である。

〇また「両建」は「理論」ではない。現実の政治的現象を観察する事で得られた知見である。理論ではなく現象の観察が先行する。あたかも「両建理論」なるものがあり、私がその「理論」の主唱者であるかのように言うのは全くのデマ。両建の指摘は既に戦前からあり、私は両建の発見者でも造語者でもない。

〇「両建」は戦前以来の陰謀研究の常識的用語と思って普通に使っていたらツイッターの陰謀追及界隈では意外に浸透してなかったようで、結果としてツイッターの陰謀追及界隈で「両建」という言葉を広めた張本人みたいな扱いになってしまっただけである。これは自分では全く意図しなかった事である。

〇裏権力及びその走狗にとって両建批判は彼らの陰謀の根幹を揺るがしかねないので必死に両建批判者を貶めて両建批判を潰そうとしているのだと思われる。だが、レッテル貼りやデマなど中途半端な攻撃はかえって両建に関しより詳細に分析し説明する契機になるだけである。倍になって彼らに跳ね返るだろう。

〇両建戦術が人々に二項対立を強要して急所から目を逸らせる事を目的とするならば、両建批判は二項対立を拒否して急所をズバリ突く事である。個人的にはこれを「中道(道に中る)」と呼んでいる。中道=事実と道理に適合する事と定義。例:左右両建抗争に乗せられず裏で進行する売国政策を断固糾弾する。

〇両建を破る為の方法を自分なりに工夫しているつもりである。方法は人それぞれ。言説の全体を見ずに「両建」という字面だけを見て「二項対立の強調」などと両建批判の趣旨と真逆の事を言うのは理解不足による曲解でなければ悪質なデマである。「両建批判」批判はさらなる両建批判の強化の契機となる。

〇個人的に考える「両建か否かを判断する主な指標」を例と共に挙げる。対立する勢力同士が①共通して何を目指しているか。例:左右の国会議員が世界連邦運動に関与・推進。②共通して何に触れないか。例:与野党で抗争しつつも日米FTAやFTAAPを無視。③共通の人脈的接点はあるか。例:右と左が笑顔で握手

〇「両建か否かを判断する主な指標」を三つ挙げたが、この中のどれか一つだけでなく、複数合わせる事でより両建の可能性が高くなると考える。例えば左右の国会議員が①国際連帯税など世界連邦運動系の政策を推進しつつ③同じ「世界連邦日本国会委員会」に所属していれば完全に両建と判断してよいだろう。

〇たった一つだけで両建と判断できる場合もある。例えば指標「①共通して何を目指しているか。」に於ける共通の目的が国の根幹に関わるほど重大なものである場合はそれだけで両建と判断してよいだろう。例えばTPP、RCEP、FTAAPの推進は民主党政権から自公政権への引継ぎである。この時点で両建と分かる。

〇さらに事例を挙げる。街頭で激しくぶつかり合う左右の活動家が裏ではにこやかに談笑し、かつ国と民主制度の根幹に関わる包括的奴隷条約は一切政治闘争上の争点としない場合は「②共通して何に触れないか」と「③共通の人脈的接点はあるか」の条件に合致する。該当条件が多い程両建の可能性が高まる。

〇両建を判断する主な指標「①共通して何を目指しているか。②共通して何に触れないか。③共通の人脈的接点はあるか。」はよく用いている個人的な判断基準を述べただけで、これ以外にも判断基準はあり得ると思う。あくまで判断基準の一例に過ぎない。個々人の判断基準で慎重に分析する事が重要であろう。

〇両建を破る思考方法として挙げた「中道」について説明する。中村元氏の「中道は道に中る(あたる)」という説明に感銘を受けた。大体の意味は「ある状況下で最適な判断・行動を行う事」。原始仏教では中道は「八正道」と同義で過剰な欲や怒り、無知(貪瞋痴)を伴わない中正な思考・行動・生活を指す。

〇中村元氏の「道に中る」という解説をヒントに自分なりに敷衍して「道」を「道理」「法則」だけでなくそれが相即する「現象」「事実」をも含めて「道=道理・法則と事実・現象」と解釈した。道理と事実・法則と現象=事と理=事理。ここから「中道=道に中る=事理への適合」という解釈を導き出した。

〇事と理=事理について。「事」は事実や現象を指す。「理」については2種類あると見る。①現象の法則性。②人としてのあるべき則(のり)。物事の道理。道義や道徳など。①は人の意思に関係せず、②は人の意思に関係するという違いがある。①は客観的に観察出来るが、②は文化の違いなども反映する。

〇①の意味の理は現象を観察する事によって客観的に認識する事が出来る。故にこの意味での理は冷静な観察や論理的な思考が重要となる。②は個々人の考え方の違いや文化の差異なども反映する。なので独善的にならぬように常なる自己反省と何が道理かについて対話や議論する姿勢を伴う事が重要だと考える。

〇「理」を「ことわり」と読むように、「理」には「事(こと)が想定されている。東洋の道理観では理は事に即するものである。故に「理」に合致するとは「事」に合致する事とも言え、「中道=道に中る(あたる)」の「道」を「事理」と解釈しても、それ程ずれてないのではないかと自分では考えている。

〇西洋の真理観では「理」は「ことわり(事理)」ではなく「こと(事)」から隔絶した只の「わり(理)」だと解釈出来る(プラトンの「イデア」が典型例)。「わり」とは思考分別(概念的思考)によって物事を概念的に二つに分ける事(分節化する事)。概念を実体視したものが各種西洋的形而上学である。

〇「中道」の考察の続き。「理(ことわり)」は「事割り」だと解釈。「事」とは認識された現象。「割り」「割る」とは「思考分別」即ち概念的思考。「事割り」とは認識した現象を概念(≒言葉)によって識別する事であり、それによって取り出された法則性などを「理(ことわり)」と呼ぶのだと解釈する。

〇「事(現象)」を「割る(思考分別する)」ことで抽出された現象の法則性や物事の道理などを概念化して「理(ことわり)」と呼ぶのだと解釈する。「理」という漢字は元々は「玉を磨いて文様を出す」事から来ている由。つまり「整える」が原義。そこから派生して「分ける」という意味も出てきたようだ。

〇「理」の語源が「玉を磨いて美しい文様や筋目を出す事」だとすると「文様」や「筋目」は「玉」の存在を前提とする。玉を「事」とすると「文様」や「筋目」が「理」に当たり「理」は「事」と相即している事をこの語源自体が示していると解釈出来るのではないか。「事」と「理」で「事理(ことわり)」。

〇「中道」は元々は原始仏教で快楽主義と苦行主義を共に否定した「八正道」を指した。これ自体が「ある状況に於ける最適の解」の一事例と言える。仏陀のテーマは苦の克服である。その為には欲望の制御が不可欠となる。快楽主義や苦行はそれに資さないと見て、八正道という中正の道(中道)を導き出した。

〇アリストテレス的な「中庸」は両極端の間をとった中間を指すが、「中道」は「快楽主義と苦行主義の中間」とか「ほどほど」とかではない。「煩悩・苦の克服」というテーマ(これも「状況」の一つ)にとっての最適な道を指す。故に中道は「至要の道」とも言う。ある状況下での最適の判断や行動である。

〇「中道」は「快楽主義と苦行主義の否定」という限定した意味を超えた普遍的に通用する論理を持っている。つまり二項対立の否定。両建も二項対立である。「右か左か」などいずれに転んでも裏権力の思惑通りになる二択の強要。二択の強要を拒否し、その状況に於ける最適の判断をするのが中道=両建破り。

〇色々と細々とした理屈をこねたかもしれないが、要は「両建戦術によって強要される二択のどちらかを選ぶのではなく、状況ごとの最適の判断をする」という意味である。両建を破る方法・論理を自分なりに考えて提示しているのに、工作員は私が「両建」ばかり連呼しているかのような印象操作をしてくる。

〇「両建戦術によって強要される二択のどちらかを選ぶのではなく、状況ごとの最適の判断をする」とは、例えば、「TPPかRCEPか」という二択の強要を拒否し両者共包括的奴隷条約でありFTAAPへの「道筋」に過ぎないという本質を看破してTPP、RCEP、FTAAPの全てに反対するのがこの場合の「中道」だと考える。

〇「中道」が「最適な解を見つけ出す事」だとすると「両建」は「不適当な解を2択として提示し強要する事」だと言える。両建は「どっちを選んでも不正解」なのである。先入観として植え付けられる「この2択しかない」という両建の枠にとらわれずに、その状況下に於ける最適の判断を為す事が中道である。

〇何が「中道」かは個々人の判断となる。何が最適かも状況に依存する。だから、判断内容が間違っている場合もあるだろうし、状況判断を誤る場合もあるだろう。故に中道的判断の為に重要な事は自分の思考を点検する事や判断が誤っていれば修正する柔軟性、対話や議論による意見交換、寛容さなどである。

〇「何が最適かは状況に依存する」とは陸上競技で例えると分かり易いだろう。短距離、中距離、長距離では走るペースがそれぞれ違う。普遍的にどのペースが正しいという事は言えないが、それぞれの種目ごとに最適のペースがある訳である。長距離走で短距離のスピードで走るとすぐにばててしまうであろう。

〇「中道」と「中道主義」は違う。中道主義は固定した内容を持つ「主義」だが、中道は思考方法であり方法論の一種である。故にあらゆる事柄に応用が効く。中道主義は保守と革新の中間の政治的イデオロギーでしかない。中道主義は非中道主義との両建もあり得る。中道と中道主義を混同しては元も子もない。

〇「理(ことわり)」の考察の補足。「理」が「事割り(ことわり)」ならば「理」は「事」を前提とする。事と隔絶した理は只の観念に過ぎない。事を「認識された現象」とすると、現象に即して法則性が認識され、それが言語化されて「理」となる。故にリアルに存在するのは「事」のみと言う事も出来る。

〇事と理の関係を「諸行無常」という言葉で説明する。「諸行」が事で、「無常」が理に当たる。「諸行」とは原因・条件によって生じたあらゆる事物・現象を指す。それらが「無常」というあり方をしている事が「諸行無常」。具体的な事物・現象を離れて「無常」が実体的な原理として存在する訳ではない。

〇「中道」に関する考察を整理する。「中道=道に中る(あたる)」の「道」をまずは「道理」と解釈する。次に「道理」を「理」とする。一方、「理」は「事(事実、現象)」と相即するので「道理」を「事と理=事理=事実と道理」とする。故に中道=事と理への合致=事実と道理に適合する事と解釈した。

〇【事への合致】とは事実・現象をありのままに観察する事。事実に立脚する事。【理への合致】とは「理」の意味は「法則」という意味と「人としての道理」という意味に大別出来るので、それに応じて①物事の法則性を理解する。②人としての道理に則る。という意味になる。どれもごく当たり前の事である。

〇まとめ。「中道(道に中る)」の「道」を「事と理」と解釈し「中道」を「事と理への合致」と解釈する。その意味は①ありのままに事実を観察し事実に立脚する事。②事実・現象に表れる法則性を理解する事。③人としての道理を守る事。当たり前の道理だが、当たり前の道理こそが両建を打ち破ると考える。

〇①と②は密接な関係にある。事実・現象を離れた「法則」などないからである。「法則」を理解したとして理論化・体系化しても事実に対応していないという事が古今東西の歴史上で往々にして見られる。法則理解はあくまで事実の観察に立脚しないといけない。事実に反する法則理解を修正する柔軟性も必要。

〇また「記述」の問題もある。五感で認識した現象とそれを概念的思考で分別し取り出した「法則」の間には「言葉」が介在する。同じ現象を観察しても違う表現で記述する場合もある。認識した実際の現象は一回限りのものであり、そこから抽象した「法則」の記述とは差異がある。現象と言葉のズレである。

〇人間は言葉を用いて現象を解釈する。「法則」も言葉による解釈の一つである。現実に認識されるのは変化する無常な現象(=事)である。だが、変化する現象の中に一定の規則性が見いだされる。これに言葉を付与して「法則」(=理)として取り出す。故に、理は出来るだけ事に引き付けて理解するべき。

〇理を事から引き離して解釈すると理に対応する現象が無いので何とでも言えてしまうであろう。形而上学は対応する現実の現象なしに思考作用のみによって生み出された表象と概念の塊である。西洋的な形而上学は大体これである。かかる思考の空転に陥る事を防ぐ為の心得である「無記」も中道と並び重要。

〇理を事から引き離して理解すると思考のみで何でも言えてしまうので理を「絶対の真理」のように見なして執着してしまう恐れがある。こうなると事実認識が歪むばかりか、排他的独善的になってしまい非常に弊害が大きい。見解への執着は事実の観察で反証出来ない形而上学的見解の場合が弊害がより大きい。

〇東洋では理は出来るだけ事に引き付けて解釈する傾向が強い。例えば理を極めて重視する朱子学ですら「理」と「気」を二元的に解釈しつつも「理」は「気」と離れたものではないとする。朱子学の「格物窮理」という標語は個物の観察による法則理解を指す。科学的な合理的思考を発達させた朱子学者も多い。

〇朱子学は「理」を重視するが、朝鮮では特にこの傾向が強かった。気(現象)に即して理を解釈すれば合理的思考を発達させるが、逆に気から遊離して理に執着すると形而上学的傾向が強まり、西洋的形而上学の受容の土壌になり得る。朝鮮で基督教が広まったのは「理」偏重の朱子学の土壌が関係あると思う。

〇それに対して日本の儒学は全体的に「理」より「気」重視の傾向が強かったと言えよう。朱子学者でも貝原益軒のように気に引き付けて理を解釈する学者が多くいて合理的思考を発達させた。また山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠らが古学を創始した。古学は気(現象)を重視し、理は気の条理として理解される。

〇日本と朝鮮が仏教や儒学という印度・支那由来の思想学問を受容しながら、その思想傾向が全く異なるのはその解釈の仕方の傾向の違いに由来すると思われる。朝鮮で基督教が広まったのは「理」偏重の朝鮮朱子学の土壌に由来する部分が大きいと見る。日本の「気」重視は根強いアニミズムに由来すると見る。

〇話を戻す。先述の①と②は極めて密接である。人間の認識には言語が伴う場合が殆どだからである。現象は言葉を使って識別される。謂わば現象の「二肢的二重性」である。例えば「ある現象同士の因果関係を観察する」という場合は現象を認識しつつ「因果関係」という概念的な範疇を適用している訳である。

〇事と理で説明する。前述の「「ある現象同士の因果関係を観察する」という場合は現象を認識しつつ「因果関係」という概念的な範疇を適用している」だと、現象という「事」を観察しつつ、同時にそこに「因果関係」という「理」を当てはめている。ここでは①と②が密接に関係しつつ同時に行われている。

〇感覚的には「丸く赤い」(視覚)「甘酸っぱい」(味覚)という対象が「りんご」(概念)として認識される。「りんご」という概念はありとあらゆる「丸く、赤く、甘酸っぱい、それ」に適用される。これが具体的な個別の現象が概念的に認識される「二肢的二重性」である。因果の範疇の適用なども同様。

〇③について。「人としての道理を守る」と言っても何が道理かについて人それぞれ考え方があると思うのであくまで個人的な考えを述べる。大体道理に反する行いは欲や怒りが原因なので過剰な欲や怒りに執着しないよう気を付けると自ずと言動も道理に適ってくると考える。これは分析力の維持の為にも重要。

〇固定化した道理の観念に執着し過ぎてもそれを他人に押し付けたりしてかえって道理に反する事になりかねない。自分の心を調整して自他を傷つける過剰な欲や怒りにとらわれないように気を付けると自ずと道理に適うようになるのではあるまいか。冷静な分析力の維持や感情を煽る洗脳の防止にも有益である。

〇度々引用している鈴木正三は「道理に執着せず道理を行え」という趣旨の事を言っている。仏陀も筏の例えで「法にも執着するな」と教えている。道徳は世の中の平和を維持する為にも大切ではあるが、道徳を観念として立てて執着し過ぎると他人を拘束したりしてかえって道理に反する事にもなりかねない。

〇例えば仏教では多数の戒律があるが、善行為の根本は「無貪・無瞋・無痴(三善根)」とされる。即ち心の中に「貪瞋痴(過剰な欲・過剰な怒り・無知)」が無い事が人としての道理の根本だと。我々凡人は「無貪・無瞋・無痴」とは中々いかないが、欲や怒りを多少なりとも制する事が出来れば御の字だろう。

〇「妄執と執着、無知と貪りと怒りを除く」という事が仏陀の教えの根幹にあったのが、段々修行者の集団が大きくなって色々な問題起こってきたのでその度に戒律が制定された。これは「道理や道徳とは何か」を考える際にも示唆に富む。数ある道徳規範の根底にあるものを掴めば自ずと道理に合致すると思う。

〇「中道(道に中る)」の「道」を「事と理」と解釈する場合の【事への合致】(事実・現象をありのままに観察する)【理への合致】(①物事の法則性を理解する。②人としての道理に則る。)に関する個々の項目について大体説明出来たと思う。個別事象の分析と共に方法論など原理的考察をも重視している。

〇学問も「事と理」の探求以外ではない。江戸時代の学問は①事(事実・現象)の探求②理(法則性)の探求③理(人としての道理・道義道徳)の探求だと③が中心的テーマだったが、それだけではなかった。古学や国学は文献実証主義で①を重視し、法則性を探求した三浦梅園の「条理の学」などは②だった。

〇欲や怒りに執着し過ぎる事は禁物。陰謀追及を金儲けのネタにしたり、自らの勢力拡大を目的としたり、ルサンチマンの捌け口にするような事は「中道」に悖るあり方だと考える。以前「英国系石屋は欲中心、仏蘭西系石屋は怒り中心の結社」と分析したが、裏権力を倒す為には彼らと違うあり方をするべき。

〇以前は「貪瞋痴が無い八正道」が何故「中道」なのかピンと来なかったが、過剰な欲や怒りが制御されたら思考も冷静・明晰になるし欲や怒りに駆られた道理に反する言動も自ずと無くなってくるので確かに「中道(道に中る)」だと納得した。これは普遍的に通用する物の考え方と思ったので参考にした次第。

〇「事理」を①事(事実・現象)②理(法則性)③理(道理)の三つに分けたが、①と②の探求は素晴らしいのに感情をぐちゃぐちゃにされて潰される陰謀追及者も結構見受けられる気がする。陰謀追及に於いてはメンタルの維持も重要である。とりわけ怒りの制御が重要である。その意味でも③の探求も大事。

〇吾人も無数のバトルを行ってきたが、バトルに於いては闘志を燃やすが、怒りに囚われないように注意し、相手を憎んだりはしないようにしている。論争には応じるし、卑劣な工作にはその都度筆誅を加えるが、怒り過ぎたり憎む事はしない。過剰な怒りは分析力を曇らせる。バトルが終わればさっと忘れる。

〇自己分析すると、「売られた喧嘩は購入させて頂く」という「スルー力ゼロ」(笑)でやらせて頂いているが、忘れるのも早い。これまで膨大な工作員が攻撃を仕掛けてきたが、一々ムカついていたらキリがない。怒りはさっと忘れた方がよい。事後の追及活動に支障が出たり、分析が歪んだりする弊害がある。

〇攻撃を仕掛けてくる工作員に一々応戦するというのは個人的な流儀だが、あまりお勧めは出来ない。個人的にこのやり方が合っているだけの話で、人ぞれぞれ対処の仕方があると思う。例えばこのようなやり方はストレスがたまるだけという方は工作員は相手にせず本筋の追及に専念された方がよいと思われる。

〇「理」という事に関してもう一つ言うべき事がある。それは「合理」という事である。「理」を⦅①法則性②人としての道理⦆に分けたが、西洋的な合理主義に於ける「理」は①のみを指す場合が多い。だから「合理主義」と言うと功利主義的で冷たい印象がある。「目的合理主義」と言った方が正確であろう。

〇「目的合理主義」とは「ある目的を設定した場合にその目的を実現する為の最も効率的な手段を選択する事」と定義する。だが、その目的や手段が人としての道理に適っているかは分からない。非人道的な手段にて非道な目的を実現せんとする「合理主義」もあり得る事になる。裏権力の発想は全てこれである。

〇「適正な人口に調整する」として大量虐殺を企てるような事も悪しき「合理主義」の発想である。裏権力はNWOという野望達成の為に「効率的手段」を取ろうとして悪行に手を染めてきた。また一見正しい目的の為に「手段を択ばない」という事もあり得る。例えば「平和」を掲げてテロを行うような事である。

〇西洋的合理主義の「理」は主に①の「法則性」なのに対し、東洋では②の「人としての道理」の「理」を重んじてきた。これは思想学問によっては「道」「法」などとも言う。「道理に合致する事」。これこそ「合理」の名に値する。目的も手段もこの意味での「理」に合致させる事が東洋的な「合理」である。

〇「合理主義」については以前以下の記事にて考察した。
https://kokuhiken.exblog.jp/27729350/

〇しつこく「中道」の考察の続き^^;他にも分かり易い例があった。宮本武蔵は五輪書にて特定の得物(武器)に拘る事を戒めている。例えば刀は長ければ有利というものでもなく間合いが近いと打ち難くなり脇差を使う人に劣ると言う。特定の得物に執着せず状況に応じた最適の選択をすべきという事だろう。

〇状況に応じた最適な獲物がある。二刀流もこの発想から出た。腰に大小を指しているのに左手を遊ばせておくのは不合理という発想である。二刀自体に拘った訳ではない。状況によっては二刀どころか刀すら使わなかった。巌流島の決闘では佐々木小次郎の長刀より長い舟の櫂を削って作った木刀で勝利した。

〇鎖鎌使いの宍戸某との決闘では太刀を捨てて脇差で勝利したとされる。これはフィクションかもしれないが、状況に応じた最適解を見つけ実行するという武蔵的発想を示す話と言える。武蔵は特定の「構え」にも拘ってはならないと言う。戦う場所や相手は千差万別なので状況に応じて適切に対処する為だろう。

〇「中道」を「特定の状況下での最適解を見つけ出す事」とすると武蔵の兵法は「中道」を武に於いて体現したものだと言える。当時は「武芸百般」と言って武士は剣術だけでなくあらゆる武芸を学んだ。この事で状況に応じて選択出来る手段が増えるので、最適解を実行出来る可能性がより高くなったであろう。

〇武蔵は兵法の心構えについても「心を広く直ぐに、きつくひっぱらず、たるまず、偏らぬように、真ん中に置け」と言っている。これもあらゆる状況に柔軟に対処できるようにする為だろう。「得物や構えに拘るな」「心を真ん中に置け」とは要するに特定の事物に執着しない事が大事という趣旨で一貫する。

〇武蔵の場合は命がかかった極限状況に於ける「中道」なので現実感覚が研ぎ澄まされており、中道の本質を取り出すのに適した事例である。要点は①特定の事物に執着し過ぎてはいけない。②状況を見極めて最適の対処をする。③最適の対処をするには選択可能な手段は出来るだけ多い方がよい(武芸百般)。

〇陰謀追及もある意味「戦い」である。試みに前述の要点を陰謀追及者に当てはめると次のようになるかもしれない。①固定化した特定の見解や説に執着し過ぎると冷静な判断を歪め、分析力を曇らせる。②両建戦術によって強要される不適切な二択を拒否し、その情勢下に於ける最重要問題を見抜き、追及する。

〇③いたずらに博識を誇るのではなく、アンテナを広げて、あらゆる事柄に関心を持ち、知識の習得や情報収集に努める。有用な知識や情報を蓄積しているとより的確により素早く状況判断が出来る。例えば国内外で怪しい騒乱が起きた場合は「人工芝」という知識があれば瞬時にその本質を分析する事が出来る。

〇今度は哲学的な観点での「中道」について。龍樹の中道は「有無の中道」である。物事は原因・条件に依存して生じる(縁起)ので、原因や条件に依存しない実体的な「有」と「無」は成り立たないという意味である。物事の因果関係や関係性を冷静に観察し、二択に誘導する実体論に執着しないようにする。

〇龍樹の中道は言葉の考察に基づく。「A」という言葉があると必ず「非A」の領域が出来る。「分別(分節化)」の作用である。これ自体は言葉の必然的な作用であるが、「A」という言葉及びそれに対応する対象・概念を実体視(独存すると見る)すると「非A」も実体視される。これによって二元論が成立する。

〇例えば「善」が強烈に実体視されると「悪」も強烈に実体視される傾向が出てくる。このような二元論が両建戦術の観念的基礎だと言える。「有無の中道」という考え方から引き出す事が出来る教訓は二元論による二択の強要を破るには現実の現象の因果関係や関係性を冷静に観察する事が重要という事である。

〇柳生宗矩の師の沢庵の「不動智」は相手の動きに臨機応変に対処する無執着の心の働きを指す。武蔵の「心を広く直ぐに、きつくひっぱらず、たるまず、偏らぬように、真ん中に置け」という平常心の教えに相通じる。特定の事物に執着し過ぎると臨機応変な対応が出来なくなる事は万事に通じる道理と言える。

〇「道理」に関する考察で「欲と怒りを制する」と書いたが、どうして「欲」と「怒り」なのか。欲と怒りが人間の反応の基本だからである。あらゆる認識対象は快・不快・中立という感情値を帯びている。欲は快への、怒りは不快への反応なのである。他の感情も欲と怒りの一種又は派生と捉える事が出来る。

〇故に「欲と怒りを制する」とは快と不快への反応を制する事と同義である。感覚は制御できない。条件が整えば意思に関係なく見えるし聞こえる。だが、認識した対象への反応は何とか調整出来る。反応を調整しないと対象に引きずり回されるだけになる。これは心理操作に対しても非常に脆弱な状態である。

〇裏権力の心理操作も人間の快と不快への反応即ち欲や怒りに働きかけて操作している。例えば「勝ち組・負け組」「上級国民・下級国民」という言葉は「勝ちたい」という欲、「負けるのは嫌だ」という不安、「上級国民は許せない」という怒りなど快と不快への様々な反応を惹起して人心を操る仕掛けである。

〇誘導の意図を込めた言葉やシンボルを見ても一切反応せず、只客観的に冷静に認識するだけならば何の悪影響も無い。完全に無効化する事が出来る。逆にそれらの工作を分析する事が出来る。裏権力の工作を分析する為にもかかる耐性を備えている事は必須である。その為の基本もやはり欲と怒りの制御である。

〇ベンサム流の西洋的な功利主義では快を最大に、不快を最小にする事を目的とする。これは下手をすると欲と怒りを最大化させる道となる。快への反応が欲で、不快への反応が怒りだからである。欲と怒りを調整しないと貪りと憎しみで突き進み道理に外れてしまう事は西洋近代の歴史を見れば明らかである。

〇人間は何かを認識し反応する。人間の「心」の基本の仕組みはこれだと言える。認識対象は快・不快・中立の感情値を帯びる。快は引き寄せ、不快は遠ざけるか壊そうとする。前者が「欲」で、後者が「怒り」。不安、恐怖、傲り、嫉妬等の他の感情もこの2種に大別可能。反応を調整しないと対象に操られる。

〇人間の行為も認識に対する反応の一種である。西田幾多郎が言う「行為的直観」は芸術家が何かを観てそれに刺激を受けて創作活動を行う一連の認識と行為の過程を指すようである。悪い事も同様で、何かを認識する事でそれを欲しくなったり憎んだり壊したくなったりする。裏権力の世界支配欲も同様である。

〇「世界」を認識するから、それを支配したくなる連中も出てくる。特定の地域に土着して平和的に暮らし「世界」なる概念を持たない民族がいたとしたら、その人たちは決して「世界支配」なる欲を持たないであろう。だが、世界を認識しても支配欲など持たない人もいる。結局認識より反応如何の問題なのだ。

〇故に認識の制御でなく反応の制御が肝となる。何を認識しても、例え広大な世界を認識し尽したとしても決して貪欲や憎悪を生じなければ何の問題も無い。だが、認識の対象が快・不快の値を帯びている以上、欲や怒りがどうしても生じる傾向がある。なのでこれらを調整して引きずり回されないようにする。

〇「認識の制御でなく反応の制御が肝」と書いたが、ここに言う認識とは主に感覚の事であって感覚と無関係に生起する思考や表象(イメージ)は別である。これらの認識作用は欲や怒りとより密接な関係がある。例えば無欲な人が金儲けの妄想をしたり心優しい人が人に危害を加える妄想などしないはずである。

〇思考や表象は人にとって必要な認識作用だが、それらが暴走すると自他を破壊する所まで行く場合や不毛な思考を働かせて過ぎて欲や怒りが雪だるま式に増大してしまう場合もある。思考や表象は欲や怒りと同様にきちんと統御しないと極めて危険である。過剰な欲や怒りが伴わない時にまっとうな思考になる。

〇時々いつの間にか私に対し物凄い憎悪を燃やしている工作員に遭遇するが、特に接点も無いという場合が多い。こういう連中は私の発言を見て繰り返し繰り返しそれについて思考して憎しみを雪だるま式に増幅させているのだと思われる。怒りに纏われる思考は自分自身をも破壊する。工作員はその見本である。

〇思考に於ける中道(事実と道理への適合)とは。①事実から遊離した形而上学的思考や妄想ではなく、事実に基づいて考える。事実に基づかなくても邪欲のない想像力はよい。②物事の法則性や言葉自体の規則である論理に沿って考える。③貪欲や憎悪を増長させるような人としての道理に外れた思考はしない。

〇裏権力工作員は①②③の全てに外れている事が多い。①特定の形而上学的教義や特殊な見解に激しく執着している。事実を歪めて藁人形論法を多用する。②非論理的で「話にならない」事が多い。③力や利益を得る事で頭が一杯で(だから裏権力走狗に)、異常な憎悪を燃やすなど道理に外れた思考しかしない。

〇このように思考は適正に制御しないと自他を破壊する。異様に執拗な憎しみは思考で増幅されたものである。偏執狂タイプの妨害工作員がいるが、この類は大して接点もないのに異常な憎悪を向けてくるのが特徴。接点がない人に対して異常な憎悪を燃やすのは思考を繰り返す事で憎悪を増幅させた結果である。

〇偏執狂型工作員の心理分析。思考によって相手のイメージを仮構する。自ら作り出したそのイメージに対して憎しみを増大させる。その憎しみがさらなる思考を促す。それがまた憎しみの増大をもたらす、というスパイラル。元が思考による虚構なので、相手に対する非難が悉く的外れなストローマンになる。

〇欲は快に対する、怒りは不快に対する反応である。思考も感覚と同様に認識作用なので対象を持つ。思考の対象が快なら欲が、不快なら怒りが生じる。しかも、感覚と違い思考はいつでも生起する。故に感覚以上に思考は欲や怒りを無限に増幅させやすい。なので異常に欲や怒りを増幅させる思考は制するべき。

〇「独立的思考」について考える。独立的思考とは「他者に思考を操られずに事実や道理に沿って自分で考える事」と定義する。独立的思考と言っても完全に「他」と無関係になされる訳ではない。人間は言葉を使って思考する。特に身に馴染んだ母国語による思考。言葉は共有財産なのである意味「他」である。

〇ある言語はその言語の話者達との共時的な共有財産であると共に、通時的にも先人から受け継がれた遺産でもある。だから一人の人間が言語を用いて行う独立的思考にも数限りない「他」が関わっていると見る事が出来る。その事を自覚する故に真の独立的思考者は言語を基礎とする固有の文化を大切にする。

〇特定の言語ではない抽象的な言語一般なるものは存在しない以上人は何らかの特定の言語を用いて思考する。自由に思考する為には最も身に馴染んだ母国語を用いて思考するのが最善だと考える。母国語を用いて思考する事は固有の文化を守り「単一言語」などワンワールド的価値観を拒否する姿勢にも繋がる。

〇日本語を母国語とする日本人の独立的思考者は日本語を用いて自由に思考する者だと考える。日本人の独立的思考の背景には日本語を作ってきた先人の営為の積み重ねがある。それなくして「独立的思考」も無い。故に「独立的思考者」である事と「日本及び日本人の立場」に立つ事が重なってくる訳である。

〇「日本及び日本人の立場」とは何かすら日本語を用いて自由に吟味・考察する。固定的なドグマ的見解は独立的思考と相反する。「母国語を用いて独立的思考を行う者」を「純正愛国者」と仮に定義するが、所謂近代的ナショナリストとは違う。「愛国者とは何ぞ」すら吟味・考察するのが独立的思考者である。

〇実はこの考察はプロフィール文の解説である。これまで、あらゆる思想派閥を分析・分類してきたが、「人の事ばかり言って貴様の立場は何なのだ」という疑義があり得ると思うので、それについての解答でもある。日本及び日本人の主体的な立場で自由に独立的思考を行う事を重視するのが吾人の立場である。

〇陰謀追及界では特定の宗教やイデオロギー、裏権力由来の諸思想、外国勢力の立場による言説(猶太基督教系や神智学系など)があまりに多すぎる。これ自体が既に思想工作の結果と見るべし。故に「日本及び日本人の主体的な立場」とはっきり宣言し、日本人の独立的思考者の立場を明確にしている訳である。

〇だが、「日本及び日本人の主体的な立場」を固定化した所謂「日本主義」などと誤解してもらっては困る。「日本及び日本人の主体的な立場」とは何なのかすら常なる探求の対象である。「主義」などの固定的なドグマ的見解を拒否し、常に探求し、更新や修正を可能とする柔軟な姿勢を持つ事を重視している。

〇独立的思考者は自らの思考過程すら観察し吟味する。故に認識論的な考察を個人的には重視している。人は何かを考えるが、「考える」をも考えるべきという考えである。そうする事で自らの思考をチェックし、誤りを修正する事も出来る。思考誘導の防止の為にも「思考」という認識作用自体の吟味は大事。

〇「人の思想ばかり分析・分類しやがって。貴様はどんな立場なのだ。」というツッコミがあり得るので、フェアを期す為に自分の立場を明示した次第である。そもそも端からプロフィールに書いてある。それを説明したのみである。まとめると「日本及び日本人の立場での自由な独立的思考」が我が立場である。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1166030447102398464


(了)

# by kokusai_seikei | 2019-09-01 14:58 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(4)