ツイートまとめ テーマ:「両建」を破る為の「中道」という思考方法についての認識論を中心とする理論的考察。

〇中道は中道主義に非ず。「安倍を擁護も批判もしない」「中立」「ニュートラル」というものではない。今現在の日本にとっての本質的な問題を見抜き、国民に害を及ぼす壊国政策を徹底批判する事である。「賛成でも反対でもない」ではない。「本質を突いた徹底的な批判」こそがこの場合の「中道」である。

〇中道で大切なのは事実に拠る事。工作員が「安倍さんは愛国保守」と言っても鵜呑みにしない。安倍一味がしている事を具体的に確かめ、それらの総体の評価で是非を判断する。TPP、種子法廃止、水道私営化などはどれか一つでもアウト。よって安倍一味は総体として「非」である。「是々非々」ではない。

〇具体的な事実に基づかず右とか左とか言うイデオロギーだけで判断すると両建に嵌められる。原発にしろTPPにしろ、国民生活に直結する重要問題が単なる左右のイデオロギー闘争にすり替えられる、というパターンが繰り返されている。中道は事実の観察の重視と特定の思想的見解に執着し過ぎない事も含む。

〇両建に嵌められる原因は現実の具体的な事実を見ずにイデオロギーなどの観念やイメージだけで判断する事だと考える。中道主義も「主義」なので例外ではない。「中道主義VS非中道主義」両建もあり得る。それに対して「中道」は具体的状況に応じてなす中正な判断。つまり「主義」ではなく思考方法である。

〇「中道主義」は思考の結果生み出された固定化した一つのドグマである。「中道」は主義などの「思考の結果」ではなく「思考」そのものについての方法論である。中道は中道主義よりメタな次元に関わる。主義ではなく方法論だから万人が活用可能。何が中正かは個々人の経験や見識に拠って判断すべき事。

〇中道主義は思考の結果生み出された一つの判断である。それに対し中道は「如何に思考するか」そのものについての方法論である。思考に関する方法論なので、万人が道具として用いる事ができる。何が中正・適正かは個々人の判断である。その判断が独善的にならない為には他者との議論・対話も大事である。

〇「中道とは事実・道理に適合する中正な判断」である。何が事実・道理に適合するかは「事実の観察」「事実の観察に基づく推論」「経験則」「良識」等々に基づいて判断する。だが、その判断を絶対視して独善的にならないように注意すべきである。そこで必要なのが他者の意見を聞く事、熟議する事である。

〇両建に嵌められると、具体的な問題を具体的に論じるのではなく、抽象的なイデオロギー争いにすり替えられる。TPP問題の議論を左右両建抗争にすり替えるのが典型である。工作員が「TPP反対派はサヨク」などという馬鹿げた宣伝をしていた。TPPは右左ではなくISDS等で国家主権の存亡に関わる問題である。

〇「具体的な認識主観のあり方を離れて絶対的な客観・中立(ニュートラル)な見方が成立する」というのは認識論的な幻想である。例えばコップの形は上から見ると丸いが、横から見ると正方形である。丸に見えるのも正方形に見えるのも客観的な事実だが、認識者の空間的な配置で見える形が決まるのである。

〇TPP問題も「日本国民である」という具体的な状況を背負う者にとっての「多国籍企業に国家主権を奪われる」事の是非が問われている。日本人なら「非」の一択しかないと考えるものである。「賛成でも反対でもない」という「中立」は頭の中でしか成り立たず、日本国民なら確実に影響を受けるのである。

〇「中立(ニュートラル)」は世界を超然と眺める超越論的主観の立場だと言える。西洋近代科学はこのパラダイムに拠っている。この立場に立つ西洋近代の理性主義では自然も人間も操作の対象になる。一方の「中道」は人間が具体的状況に置かれている事を前提に、その状況の中で中正な判断をする事である。

〇予め実体として成立している主観が同じく実体である客観を認識する、というのが西洋近代の認識論の骨子である。「中立」を想定する見方はこれに通じる。一方の「中道」は「具体的な状況下での中正な判断」なので「客観と主観が相互依存的に協働して認識が成立する」とする関係論的認識論の方が合う。

〇認識対象の具体的な姿・形は認識主体との関係に入って初めて確定する。例えばコップを上から見るか、横から見るか。「認識対象自体」が仮にあるとしても認識されない。「コップの形」を上から見るか、横から見るか、下から見るか、斜め上から...という認識主体のあり方を離れて認識する事はできない。

〇「コップの形はこうだ」と言えるのは「上から見るか」「横から見るか」等の具体的な状況によって決まる。それと同じく、中道=中正な判断も、具体的な状況によって中身が決まる。だから予め内容が固定されている「主義」「イデオロギー」とは違うのである。中道は思考方法であり、中道「主義」に非ず。

〇大抵のコップは縦長なので、「正方形」ではなく「長方形」と書いた方がよかったかもしれない。細かい事を申し訳ない^^;
「「具体的な認識主観のあり方を離れて絶対的な客観・中立(ニュートラル)な見方が成立する」というのは認識論的な幻想である。例えばコップの形は上から見ると丸いが、横から見ると正方形である。丸に見えるのも正方形に見えるのも客観的な事実だが、認識者の空間的な配置で見える形が決…」

〇「「コップの形はこうだ」と言えるのは「上から見るか」~云々」と書いたが、「コップの視覚像=姿・形は「上から見るか」「横から見るか」等の具体的な状況によって決まる」とした方が正確である。無数の知覚像から帰納して総体を直接知覚できない「円筒形」という「形」を観念的に構成するは出来る。

〇哲学者の大森荘蔵氏が「知覚像の無限集合」と書いていたと記憶する。上から見ると円、横から見ると長方形云々という無限にある知覚像が集合すると「円筒形」という観念が得られるという考え方である。しかし、「円筒形」を直接知覚はできない。直接知覚できるのは「上から見ると丸い」等だけである。

〇この考え方を参考にすると次の事が言える。具体的な状況の中で中正な判断をする事を措いて「国を守る」も「民主主義を守る」も無い。ISD条項などによる国家主権喪失の危機の時に、それを無視して「国を守れ」「民主主義を守れ」と言うのは空虚。具体的な知覚像を離れて「形」を云々しているに等しい。

〇認識論などを絡めて分析すると何かと嫌われやすい。衒学臭いと思われるのであろう。だが、そんなつもりはない。具体的な物事の分析から帰納的に論理や法則性を抽出しておくと多様な現象の分析に応用できるからである。あまり理解が得られなくても書いておけば誰かの参考になるかもしれないという思い。

〇先人達は現象(事=こと)と法則(理=ことわり)の両面から物事を探求した。江戸時代の儒者などは「気」と「理」で世界を解釈した。それ以前の仏者は「事」と「理」というカテゴリを用いた。これらの思考方法は現代でも活用できるものである。個別の現象とそこに通底する法則性の両面から探求すべき。

〇日本の伝統的な知の方法を用いているつもりである。TPPなどの個別の現象の探求は「事」に関わり、「両建の破り方」などは「理」に関わる。個別の「事」を離れた「理」は空虚であり「理」を無視した「事」の探求では物事の本質を見抜けない恐れ。「両建」を知るだけであらゆる政治的現象を分析できる。

〇現象=事=コト。法則=理=コトワリ。「理」を「コトワリ」と言う。事=コトを割る=コトワリ。「割る」とは言葉によって物事を分節化して分別・判断する事。謂わば言語機能による識別である。つまり「理」とは現象を言葉で分節(=割る)して抽出された現象に表れている法則性や性質の事であろう。

〇「事を割って」即ち「現象を言語で分節して」認識された現象の法則性を理(コトワリ)と申す。だが、現実に知覚経験できるのは事(コト)のみ。事のあり方・筋道が理。この理を事から引き離して自存視・実体視するところから様々な形而上学が生じる。理は事に即して理解しないと形而上学化する恐れ。

〇倶舎論は「分別」を3つに分けているそうである。① 自性分別。知覚などの直観的作用。② 計度分別。言語を用いた推理・判断作用。③随念分別。過去の経験を記憶として想起する表象作用。この分類で言うと、事は①で、理は②で認識される。だが、知覚などにも②が同時に働いている場合が殆どである。

〇日本の知の伝統、古い学問という事で倶舎論を取り上げたが「自性分別・計度分別・随念分別」という認識作用の分類は現代から見ても中々理に適った分類だと思う。廣松哲学の関係論的認識論(四肢的構造連関)だと①と②は二元的に分けられず同時に機能すると見るだろう。認識対象の二肢的二重性である。

〇目の前にコップがあるとして、それは単なる円筒形の視覚像だけではなく「コップ」として認識されているはずである。これが対象の二肢的二重性である。人間の認識は常に「知覚等の所与+概念(言葉)」が機能しているという見方である。倶舎論で言うと自性分別と計度分別が同時に機能している訳である。

〇随念分別、即ち過去を思い出すなどの表象作用も同様に計度分別と同時に働く二肢的二重性がある。例えばAさんという人物を思い出す場合、Aさんの顔や姿・形などをイメージするだけでなく、「Aさん」という言葉も同時に機能している。知覚像のみならず、心の中で思い浮かべる表象にも言葉が同時に働く。

〇「事」は認識論的に言うと「人間の認識可能領域」である。「理を事に即して理解する」とは「認識可能領域で理解する」の云いである。認識可能領域外に想定される「理」は形而上学的概念である。こうなると客観的に認識・検証できる現象の法則性ではない。認識可能領域外は無記=判断停止が合理的態度。

〇自分の顔を自分で直接見る事は出来ないが、別に実体ではない。顔は年齢で変化するし、傷を負う事もある。実体は変化しないのでそういう事はない。認識主体・主観もそういうものかもしれない訳である。認識対象・客観がある以上、認識主体・主観もあるが、それを「実体」と断定する事は誰にもできない。

〇唯識だと主観を見分、客観を相分と言う。心を主観と客観が相互依存的に相依って成り立っていると見るので、心を「依他起」と呼ぶ。依他起=縁起=無実体=空だとする。これを「円成実性」と呼ぶ。廣松渉の四肢的構造連関はこれを精緻化した趣である。主観・客観を実体視しない認識論はこのようなもの。

〇「顔は年齢で変化するし、傷を負う事もある。実体は変化しないのでそういう事はない。認識主体・主観もそういうものかもしれない」と書いたが、実際に主観は変化する。時間が経ち経験を積む事で思考は変わる。住んでいる国や地域の言語・文化の影響でものの考え方が違ってくる。後者は共同主観と言う。

〇アーガマ経典の中でサーリプッタは「識」(主観・認識主体)と「名色」(客観・認識対象)は藁の束のように相互依存関係にあると言っている。唯識の見分と相分の相互依存関係(依他起性)と同じと見てよいであろう。認識対象がある時には認識主体があるし、逆もまたしかりである。実体は得られない。

〇仏教の哲学では「名色(名称と形態)」は普通は「心と身体」と解釈するようだが、認識論的観点からすると文字通り「名称と形態」と解釈する方が優れた見方だと思う。何故なら人間の認識対象は全て名称と形態又はそのどちらかを必ず持っているからである。後者の解釈だと名色は「認識対象一般」となる。

〇「名色」を「認識対象一般」と解釈すると「識と名色は藁の束のように相互に依存し合う」としたサーリプッタの見解は大変優れた認識論的見解だと言える。まさに関係論的認識論である。廣松渉の事的世界観・四肢的構造連関は謂わばサーリプッタの藁の束の認識論を精緻化したものである。発想が通底する。

〇藁と藁が依存しあって「藁束」になるように主観(識)と客観(名色)が依存し合って認識が成立するというのがサーリプッタの見解である(実際にサーリプッタが言った事でなくても、これを書いた人物の見識が優れているのは確かである)。唯識の見分・相分・依他起性等はこの発想を継いだものであろう。

〇サーリプッタの藁束認識論は主観と客観が藁のように相互に依存し合うとするが、四肢的構造連関もこれと発想を同じくする。だが、後者では主観を能知と能識、客観を所与と所識に分けて、合計で四つの項が関係し合って認識を構成すると考える。それぞれの項は関係の項としてのみ存在し自存しないとする。

〇前述の「能知」「能識」「所与」「所識」を説明する。能知は私やあなた、Aさん、Bさんなど個別具体的な認識主体の事。能識は特個的認識主体が自己形成を遂げた「日本語話者」等の一般的抽象的な認識主体である。所与とは知覚像等の現に認識される対象。所識は所与を「〇〇として」理解する概念である。

〇「能知」「能識」「所与」「所識」が関係の項として依存し合いながら認識を構成すると考えるのが四肢的構造連関である。それぞれの項は実体ではなく、全体の関係の項としてのみ存在する。謂わば縁起・無自性・空である。四肢的構造連関はサーリプッタの藁束認識論や唯識の認識論の精緻化と解釈できる。

〇ちなみにサーリプッタとはモッガラーナ(目連)と並ぶ仏陀の高弟である舎利弗の事である。「智慧第一」と称される。南方の上座部仏教の諸国で非常に尊敬されている由。「藁束」の巧みな例えで関係主義的(縁起論的)な認識論を語ったとするならば、まことに「智慧第一」の名は伊達ではないと思わせる。


〇西洋近代哲学の認識論は実体としての主観と客観を立てる主客二元論が基本なので「それ自体で独存する実体としての主観が同じく実体としての客観を如何に認識するのか」という難問に陥った。それを超克する答えの一つが四肢的構造連関である。サーリプッタの藁束認識論は端から軽々と超えていたと思う。

〇初期仏教で十二支縁起(無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死)という縁起論があるが、十二支縁起の各項同士は基本的に「これあればかれあり」という不可逆の継時的因果関係になっているが、「識」と「名色」は相互依存関係で説かれる場合がある。これが先述の藁束認識論である。

〇この「識」と「名色」が丁度、主観と客観に相当する。サーリプッタは「二つの藁束は相依って立つであろう」「名色によって識があるのであり、識によって名色があるのである」と言っている。藁束の喩えでもって主観と客観の相互依存性を述べている。主客の相互連関を説く四肢的構造連関とほぼ同趣旨。

〇「「事を割って」即ち「現象を言語で分節して」認識された現象の法則性を理(コトワリ)と申す」と書いたが、この仕組みは法則性の認識だけではなく、「このコップ」「あの車」など現象的な個物の識別でも同じである。モノに対する執着は対象を概念的に識別する事が前提。理に対しても同じ事が言える。

〇つまり何が言いたいかというと、モノに対する執着と同様に物事の法則性や原理即ち「理」も執着の対象になるという事である。理が現象=事に即して捉えられているならよいが、現象から遊離して形而上学的な原理を設定すると経験的に検証できないだけに執着が余計に増幅しやすい。そして争いが起きる。

〇鈴木正三がキリシタン批判書「破吉利支丹」の中で述べた「実有の見を専らとして、念慮識情を増長し」とは形而上学的な実体を設定して、それに執着するので妄想的思考や執着心が増長するという認識論的な分析である。龍樹は煩悩の原因を人間の言語機能や概念的思考と見ているが、それと同じ分析である。

〇世の中の思想的な争いは実体を設定する思考が原因との分析は妥当と考える。現象に実体を設定する場合はまだよい。現象は認識可能で検証できるからである。学問的な論争などはこれ。一方、認識可能領域外に実体を設定する論は検証不能なので収拾がつかなくなる。これで歴史上無数に殺戮が繰り返された。

〇①実体を設定する→②想定された実体に対する執着心が増大する→③その裏返しとしてその実体(「デウス」など)を否定する者への憎悪も増大する→④争いが起る。という順序である。歴史上の具体例を挙げると、江戸初期に長崎のキリシタンが論争を挑んできた道智という僧の寺に報復として放火を行った。

〇論争で負けた仕返しに放火するなど最低の行いである。歴史的に見て、実体観に執着する者は往々にして論争から暴力に走る傾向がある。キリシタンは「絶対の自存体・生みも生まれもせず、万物を創り、主宰するデウス」なる実体観を持っていた。執着する信者が論争の仕返しに寺に放火するという挙に出た。

〇伴天連追放令から20年近く経っても長崎はキリシタン全盛で論争を挑む者に対しては暴力で報復するという状態であった。道智の寺は長崎で二番目に古い寺だそうである。それ以前の寺は悉く破却されていた。思想戦で破っても暴力で報復してくるので、幕府が力で抑えるしかなかったのも無理はない面がある。

〇論争・議論は万人が納得できる客観的な証拠・根拠を挙げて論じなければならない。検証し得ない形而上学的な実体に執着すると暴力的な争いが起きる場合が多い。いくら論理的に「破キリシタン」しても暴力で報復してくるようなキリシタン勢力に対しては力で対応するしかなかったという悲しい歴史である。

〇「実体はある」と断定するのも独断であるが、論証抜きに「何が何でも実体はない」とする独断もまた前者と同じく形而上学的な態度である。釈迦が「色は無我である。受は無我である..」としたように、認識可能領域の現象を着実に検証する事によって「これは実体ではない」と確認していく姿勢が望ましい。

〇何故これほど実体観の分析に拘るかと言うと裏権力の思想は一神教でも神秘主義でも理性主義でも全て実体観に基づいているからである。だから実体観を分析すると彼らの思想の構造が全て明らかになると考えているのである。かといって実体観に非実体観を対置させて同じ土俵に立とうとしているのではない。

〇古代印度や古代ギリシャが生み出した実体観に基づく思想哲学も人類の貴重な文化遺産だと思う。それらを破壊すべきと言っているのではない。だが、対日思想侵略に於いては伝統思想に西洋の実体観を混入するという手法が中心なので、思想工作を防止する為には実体観の批判がどうしても不可欠なのである。

〇裏権力の手先として意図してやったのかは知らないが、平田篤胤がキリシタンの「デウス」観念を神道に持ち込んで、「天御中主神」を「天地の創造主」に妄構したのが最初の実例だと言える。明治以後には神智学に影響を受けた仏教関係者が多かった。神智学は実体観の一つである西洋神秘主義の流れである。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1034474684216004609


(了)

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# by kokusai_seikei | 2018-09-02 13:02 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:安倍一味は「是々非々」ではない。明確に「非」である。旧民社党の猿真似論法を斬る。

〇「TPP断固反対だが、安倍総理は断固支持する」というスタンスは全く理解不能である。安倍一味は米国の離脱後も交渉参加国の中でも主導的な立場でTPPを推進し続け、参加国の中で二番目の早さで国内承認を完了させてしまった。これ以上の売国があろうか。安倍が「本当は反グロ反TPP」などあり得ない事。

〇「政権交代しても同じ事である」と言うが、与野党グル構造など最初から分かり切っている事である。次の政権にも何も期待していない。しかし、今は現在進行形の売国政策を停止させるのが先決である。安倍一味は秋の臨時国会で水道法改悪を成立させようとしているのである。現行犯罪を食い止めるのが筋。

〇「安倍政権じゃなければもっと酷い事になる」と言うが、TPP国内承認、種子法廃止、水道私営化の企み等々、安倍一味はこれ以上ないくらい酷い事をしている。国民の生命線である水と食料を危険にさらす輩共より酷い連中はそうそういない。野党も両建だが、今は現在進行形の売国を止めるのが先決である。

〇自称保守の言論商売人らの「安倍さんは本当は反グローバリスト(だからTPP反対派と思い込む者が出てくる?)」という情報操作は「安倍さんは本当は消費増税に反対している。全部財務省のせいだ。」という主張に似ている。内閣人事局があるのに財務省を制止できない、というストーリーは説得力が無い。

〇「ベストではないが、ベターだ」と言って安倍を擁護するパターンが多い。こんな事を嘯きつつ、TPP、RCEP、FTAAP、種子法廃止、水道私営化等々の推進に加担する。その為に保守業界総出で「安倍さんは保守」というイメージを捏造する。自称保守はコロッと騙される。そして売国を下支えする動員力と化す。

〇「ベストではないが、ベターだ」と言うのも「ベストだ」と言うのも結局同じ事である。安倍一味が推進する国家主権放棄や水・食料の売り飛ばしに加担するという結果に何ら変わりはない。安倍支持者は「グローバリスト」「新自由主義者」と名乗るべきである。「保守」とか「愛国」の偽装は紛らわしい。

〇海外に農産物を売る事より食料自給率100%を目標にそれに近づける事を目指すべきだ。新自由主義者は「市場競争」しか頭にないが、食料が無ければいくら貨幣があっても人間は生きていけないのである。欧米の大国は食料自給率100%を優に超した上で海外に農産物を売りつけている事を忘れるべきではない。

〇米国や、仏蘭西など欧米の農業大国は我が国よりはるかに政府が農業を手厚く保護しているそうである。これは食料安全保障上当然の措置である。売国政府はこれと逆の事をしようとする。保護を無くしてむき出しの状態で海外の農業大国との市場競争の場にさらすのは我が国の農業を滅ぼそうとするに等しい。

〇「保護主義は経済の発展を阻害する」とする風潮があるが、歴史的事実に反する。英国が経済発展したのは保護主義の「お蔭」である。印度産の安く良質な綿布の輸入を禁止して、自国産業を保護する事で後の「大英帝国」としての経済発展の基礎を築いた。欧米が市場原理を振りかざすのは「勝てる時」だけ。

〇「是々非々でベターな安倍政権を支持する」というのがリアリストを気取る自称保守の常套句である。多少は問題あるが総体的に日本の為になる政権なら「是々非々」という表現もよかろうが、TPP、種子法廃止、水道私営化などたった1個でもアウトな政策を多数実行&計画する安倍一味は丸ごと「非」である。

〇「是々非々」がどうとかいう口吻はかつての民社党を真似たものに見える。旧民社党設立時にCIAが秘密資金を投入していた事が分かっているようだ(旧社会党にはKGBの資金が入っていたようなのでまさに左右両建である)。冷戦時代以来の左右両建構造に囚われていては中正な認識・判断をする事はできない。

〇検察、財務省、朝日新聞、NHK等が安倍一味と対立していると本気で思っている人がいるのが信じられない。検察は安倍一味の母体である旧清和会(現・細田派)の政敵を潰してきた。財務省の増税路線は安倍「政権」の方針。内閣人事局があるのに「財務省のせい」は理屈が通らない。朝日もNHKもTPP推進派。

〇TPPや種子法廃止、水道私営化等の国の存亡に関わる重要問題を中心とする安倍批判と、それらの問題を無視した大手左派メディアやパヨク派の安倍叩きを一緒にしてはならない。後者は急所を外した事実上の安倍のアシストである。安倍一味とメディアはグル。与野党グル両建、反日左右両建構造でしかない。

〇「両建」を知らないと、「安倍擁護か、安倍叩きか」という単純な二元論に陥ってしまう。これこそが両建たる所以。何度も言っているように両建を破る鍵は「中道(道に中る=道理と事実に適合する中正な判断)」だと考える。この場合で言うと「国家主権や水・食料を脅かす壊国政策」という急所を突く事。

〇逆に言うと、安倍擁護派は勿論、寸止め的な安倍反対派(実質別動隊)も「中道」ではなく「不中道(道に中らず)」である。「国家主権や水・食料を脅かす壊国政策」という急所に中らず(あたらず)に、些末な問題を延々と取り合えげて両建芝居を繰り返すのみである。急所を突く安倍批判が中道である。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1033736351512899584
(了)


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# by kokusai_seikei | 2018-09-02 12:53 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

安倍とトランプの確執は「日米の対立」ではなくTPP路線と日米FTA路線の対立である。最悪の両建。

〇「日米の蜜月関係の揺らぎ」というより米国の政権がCSIS系でなくなったので、CSIS直系の安倍一味と齟齬・対立が生じていると見るべきだろう。日米の対立ではなく日米FTA路線とTPP路線の両建対立(どちらも地獄)であろう。【政府「真珠湾」発言否定に躍起=揺らぐ日米蜜月】https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180829-00000084-jij-pol 

〇安倍は絵面からしてジャイアンなトランプにスネ夫のように媚び諂ってみせたが、CSIS系なのでトランプとは「蜜月関係」にはならない。トランプはシオニストに取り巻かれているが、表面的には保護主義を打ち出しているので安倍とは合わないはずである。TPPも日米FTAも日本国民にとっては厄災でしかない。

〇ネオコンのブッシュ政権。その次がブレジンスキーの弟子であるオバマ政権。今は反グローバリズムを掲げるトランプ政権である。しかし、トランプのアドバイザーはブレジンスキーと双璧をなしたキッシンジャーである。以前の政権と毛色は違うが、やはり裏権力は「手綱」を握っていると見るべきであろう。

〇安倍とトランプの確執を「日米の対立」と見るのは間違い。「TPP路線と日米FTA路線の対立」と捉えるべきである。TPPも日米FTAも日本にとっては国家主権を失う結果に変わりはない。グローバリストの安倍とアメリカ第一主義者のトランプの対立に過ぎず、安倍を「米国と闘う愛国者」と誤解してはならない。

〇トランプ政権誕生前にも書いたと記憶しているが、トランプは公然と圧力をかけてくる分可視的なので、CSISが裏で仕切っているのよりはマシだと思う。政治家ですらないマイケル・緑みたいな連中が表では「知日派」に見せつつ、裏で政権を仕切っているのよりは堂々と圧力をかけてくるトランプの方がマシ。

〇CSISが裏で政治家や官僚に何を言っているかは表に出てこないが、トランプの場合は圧力をかけている事が可視化されている。メディアは元々トランプに好意的ではないので逐一報道する。トランプがメディア批判を繰り広げ、メディアと対立しているのは「民主主義の危機」どころか民主主義に資している。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1034840521745694720


(了)
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# by kokusai_seikei | 2018-09-02 12:27 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:神奈川県川崎市でイスラエルの軍事見本市が開催さる。「日本・イスラエル共同声明」の悪影響が拡大しつつある。要注意。

〇神奈川県川崎市でイスラエルの軍事見本市が開かれている。最近はイスラエル人脈の浸透が著しい。安倍が締結した「日本・イスラエル共同声明」なる準軍事同盟の影響だろう。イスラエルは中国とも軍事協力している。まさに両建だ。福島原発のマグナの件を忘れてはならない。世界一信用ならない国である。

〇日本で堂々と軍事見本市を開くとは舐め過ぎである。まさに死の商人。日本にいた事もあるショール・アイゼンベルグがその代表である。中国の核開発にも関与したと思われる。【市の公共施設でイスラエルの軍事関連見本市。「全く問題ない」とする福田紀彦・川崎市長に市民反発 】https://hbol.jp/172679

〇安倍が「日本・イスラエル共同声明」なる「準軍事同盟」を締結して以降、コンピュータ・セキュリティ関係などでイスラエル人脈が対日浸透を図っている。以前から売国一味はシオニストの手先だったとはいえ、米国経由が主だった。それが最近は中東のイスラエルから直接乗り込んできている。注視すべき。

〇最近イスラエルの議会で「イスラエルは猶太人国家」と定める法案を可決した由。「民族自決権は猶太人にのみある」とする。本当に古代のパレスチナに住んでいた者達の子孫かDMA鑑定したら?と言いたくなる。子孫でも他人が住む土地を奪う権利はない。根本からおかしい『国』だ。https://www.bbc.com/japanese/44883320

〇その実「猶太人」とされる者達の殆どは古代パレスチナとは何の関係も無い「猶太教に改宗した者の子孫」だと思われる。「ユダヤ人の起源」という本は「ディアスポラ」は史実ではないとする。「パレスチナは猶太人の故郷」は「信仰」と捉えるべきである。信仰を押し付けて命や土地を奪うのはテロである。

〇イスラエルで非猶太教徒の中で唯一徴兵に応じ、非猶太人の中では最も社会的に優遇されてきたというドゥルーズ派はグノーシス主義的なイスラム教の一派との事。ドゥルーズ派は「猶太人国家法」で「裏切られた」と反発している由。シオニストとグノーシス派の同盟関係の決裂?http://www.afpbb.com/articles/-/3184987

〇ドゥルーズ派は中東に於いて現存するグノーシス主義の一派の一つだと言えるかもしれない。ニューエイジまがいの自称グノーシス主義者より本格的である。そのドゥルーズ派はイスラエルでは猶太人と「血の盟約」を結んでいるとの事である。元々グノーシス主義自体が猶太教周辺から出た思想の流れである。

〇現存するグノーシス主義の一派であるドゥルーズ派がイスラエルで猶太教徒と「血の盟約」を結んでいるという事実からして、「グノーシス主義=反猶太」とは言えない事は明らかである。グノーシス主義に執着する者がにわかに「猶太批判」をし出した事は笑止千万な現象であった。両建でしかない訳である。

〇イスラエルでは猶太とグノーシス派は「血」の同盟関係。引用:ドゥルーズコミュニティは、イスラエル多数派のユダヤ人と「血の盟約」を結び、ドゥルーズ派の男性はイスラム教徒やキリスト教徒のアラブ人とは異なりイスラエル国防軍における兵役義務がある。【ドゥルーズ派】https://ja.wikipedia.org/wiki/ドゥルーズ派


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1028682795848151040


(了)
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# by kokusai_seikei | 2018-08-26 14:02 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:個人的に陰謀追及上役に立つと考える認識論的考察。分析者としての耐性を身に着ける方法論について。

〇先日の補足。執着には必ず対象がある。感覚も思考も停止すると対象が無くなるので執着も無くなる。だが、生きている間は感覚は機能し、思考もする。なので、感覚や思考という「一本目の矢」には刺されても、執着という「二本目の矢」に刺されないように注意する事が釈迦以来の「仏道」の核心である。

〇「天台座主」を名乗った武田信玄に対して織田信長が名乗った「第六天魔王」略して「魔王」は「仏道を妨げる存在」。「仏道」とは「感覚・思考=眼耳鼻舌身意・色声香味触法の認識で生じる執着を断ち切る道」なので「魔王」は「執着を起こさせる者」の神話的表現と言える。現実的に言うと洗脳者である。

〇洗脳・思考誘導は全て「認識」に関わる。思想ツールを製造して流布する、視覚的シンボルを造形して刷込む、サタニズム的な音楽を流行させる等々。一言で言うと認識対象に対して生じる「欲」「執着」を煽る(「怒り」は事が思い通りにならない場合などに発するので欲の裏返し。欲と怒りは表裏一体。)。

〇シンボルや音楽は五感に関わるが、思想ツールは言葉(≒概念)と表象(イメージ)に関わる。概念的思考と表象作用は眼耳鼻舌身意で言うと「意」。眼耳鼻舌身という感覚と同様に意なる思考や表象も対象を持つ。概念や観念、イメージの類である。思想ツールは概念・観念・イメージで人を魅了し操る道具。

〇「思考」しても「執着」しなければ「洗脳」される事は無い。例えば、思想ツールの分析はその対象となる「思想」を明確に理解しなければならない。それは「思考」のプロセスである。だが、洗脳される盲信者との違いは「思考」に続いて「執着」が生じない事である。あくまで客観的な理解にとどめるのだ。

〇思想ツールの内容を「理解」するという思考プロセスまでは分析者も被洗脳者も同じだが、「思考」という認識作用に続いて生じる対象への「執着」の有無で違いが出てくる。被洗脳者は思想ツールに魅了され渇望し執着するので増々思想的洗脳が進むというスパイラルに入る。分析者は客観的な理解で止める。

〇俗に言う「ミイラ取りがミイラになる」とは、この場合で言うと思想ツールなどを批判的に分析しているつもりがいつの間にか対象に魅了されて自分自身がその思想を受け入れて盲信するに至る事である。戦前の猶太批判者の多くが辿ったコースである。猶太批判からいつの間にか日猶同祖論を信奉し親猶太化。

〇「影響されそうなので見ない」という判断が賢明な場合もある。分析力を真に身に着ける為には何を見ても聞いても考えても悪影響を遮断できる程の強靭な耐性が必要である。その面で不安を抱えた状態では思想ツールに取り込まれる恐れも無きにしも非ず。取り込まれなくても精神的打撃を受ける恐れもある。

〇その意味で陰謀追及者としての分析力を鍛える上で「対象の認識→対象への執着」という認識の過程を明らかにしている仏教の認識論は個人的には参考になった。「受」という感受作用の次に「愛・取」=渇愛・執著が生じると分析するので、感覚と思考を含む受=感受作用に第一に気を付ければよいと分かる。

〇知識があれば思考誘導を防止できるとは限らない。インテリから真っ先に洗脳されたという歴史的事例は多い。思想などの対象を認識しても鵜呑みにしたり引き込まれたりする事なく、ワンクッションを置いて距離を取り、執着する事なく客観視する姿勢が重要である。知識はその姿勢があってこそ活きてくる。

〇一つの思想に執着すると、その思想に釘付けになって絶対視する事になるので、その思想を相対化する事が出来なくなる。これを防ぐには多様な思想について一応幅広く知っておく事も大事である。ある思想が全体の中でどこに位置付けられるかが見えるので相対化でき、一つの思想を絶対視する事もなくなる。

〇フリーメイソンの300周年の式典の様子がユーチューブにアップされていた。あれはまさに「眼耳鼻舌身意」をフル動員する儀式である。秘密結社の儀式は五感・表象・思考のフル動員で思想を刷込む過程だと言える。視覚的シンボルや演劇的な趣向、壮大な音楽などで五感をフル動員して結社の思想を刷込む。

〇結社は五感をフル動員する参入儀礼を行う事で新規参入者が容易に裏切れないように精神的な錠前を掛けるのだと分析している。視覚や聴覚を通したシンボリックな「死と再生」の儀式、「死」への恐れ、「再生」の喜び。これらは全て眼耳鼻舌身意という認識とそこに生じる快不快の反応を出るものではない。

〇何かを認識したら【快・不快・どちらでもない】という反応が生じる。快に対しては欲が、不快に対しては怒りが生じる。「死と再生」の儀式に於いて、参入者を「死」や「闇」という不快に直面させて動揺させ、次に「再生」の喜びという快を享受させる。ここに堅固な結社への忠誠心=強烈な執着が生じる。

〇即ち「①対象を認識する→②対象に快・不快を感じる→③快には欲を、不快には怒りを生じる→④欲・怒りが増長し凝り固まると執着になる→➄認識対象に意識が縛り付けられる→⑥心の自由を失う→⑦結果、隷属心が昂進し、独立的思考、冷静な観察力・判断力を喪失」という認識論的過程を起こすと分析。

〇何かを認識すると欲や怒りが生じ、欲や怒りが増長すると執着になる。ところで龍樹は煩悩の原因は言語作用だとした。思うに人間の全ての認識には大なり小なり言語が関わっているからだろう。感覚的対象の認識にも言語が関わる。言語によって対象が明確になり認識が固定される。「それはりんごだ」など。

〇欲や怒りは言語で強化される。例えば純粋に機能的に見ると生命を維持する為の食べ物も「なんておいしそう」「大好物」「流行の」「高級だ」「インスタバエする」などの言語を伴う事でその食べ物に対する欲は増大する。むしろ食欲を超えてそれらの言葉、概念、記号への欲と言った方がいいかもしれない。

〇逆に怒りの場合も同じである。他人から嫌な事をされても現象としてはその一瞬であるが、それを記憶し、何度も思考して繰り返して思い出して嫌な気持ちを再生する。そこには言語が伴う。「あいつは許せない」「理不尽だ」「いつか仕返ししてやる」等々の言葉が反復される。これにより怒りが増強される。

〇このように欲や怒り、執着には言語が関係する。だから龍樹は言語の分析を重視した。言語は思考だけではなく五感の認識にも関係する。感覚的には「赤い丸いそれ」(これ自体言語表現だが)を「りんご」として認識する。認識のこの「として」構造を廣松渉の認識論では「対象の二肢的二重性」と言った。

〇このように欲や怒り、執着という感情と言語機能は密接な関係を持っている。ストア哲学はロゴスの機能は理性にのみ関わり、パトスたる感情とは対極にあるとするが、これは事実に反する。言葉で感情は増強されるのである。だから龍樹は煩悩の原因を言語、正確には言語が示す概念の実体視にありとした。

〇ある禅僧が「涅槃の定義について経典には何も確固たる事は書いていない」と書いていたが、実際は一番古い仏典の一番古い章に「この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。」という極めて明確な定義が書いてある。

〇最古の仏典スッタニパータの中でも第五章「彼岸道品」は最も古く成立した章だと言われている。そこに前述の明確な「涅槃」の定義がある。神秘性や曖昧さのない明確な「涅槃」の定義は他にもある。「貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅」「渇愛を滅しつくす」などである。これは全て認識作用に関わる。

〇「見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地」の「見たり~識別した」は一言で言うと「認識」。「認識した快美な事物に対する貪欲を除き去る」。欲望や貪りに認識が先行する。認識に関わるのが言語。言語で認識が明確に分節し固定する。

〇「認識した快美な事物に対する貪欲を除き去る」なので「貪欲」という感情には認識作用が先行する。廣松渉の認識論で言う「認識対象の二肢的二重性」からして認識作用には言語が大きく関係する。ストア派の主張とは異なり、ロゴス(理性、言語)とパトス(感情、情念)は対立物ではなく相互に関係する。

〇鈴木正三が書いた「実有の見」(実体観)とは廣松渉の認識論で言うと「所識の物象化的錯視」である。所識とは感覚対象等の所与に被せる概念である。例えば五感で認識した「赤い丸いそれ」が所与だとすると「りんご」が所識である。この所識=概念の自存視が「実有の見」「所識の物象化的錯視」である。

〇江戸初期の思想家と昭和期の哲学者が認識論的にほぼ同じ事を言っている訳である。これは「無実体論」「空観」という日本及び東洋の思想史的伝統に拠るものだと見ている。正三は倶舎論や三論・法相を学び、廣松は中観を参考にした。廣松に影響を与えたマッハの認識論は倶舎論の認識論とそっくりである。

〇先述の禅僧は「世の中の思想は仏教とそれ以外しかない」と書いていたが、これは「実体論と非実体論しかない」という意味なので妥当だと思われる。言語機能が問題だとするのは素晴らしい視点。明治以後の僧は倶舎・三論・法相という哲学を学ぶ習慣が無くなったのでこういう哲学的思考をする人は少ない。

〇だが、「仏典は確固たる『涅槃』の定義をしていない」というのは明らかに事実に反する。「認識対象に対する欲望や貪りを除き去る」「貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅」「渇愛を滅しつくす」など曖昧さのない明確な定義が書かれている。「涅槃の定義はない」などと言うからいたずらに神秘化される。

〇後半はちょっと読書感想文めいてきたが、言いたい事は感情と認識の関係、認識と言語の密接な関係である。客観的な思考に止める分析者と思考に執着を生じる被洗脳者の違い、認識対象に縛り付ける結社の儀式=洗脳技術等を論じたので、それらの認識論的な機制をさらに掘り下げておこうと思ったのである。

〇暗闇の中で料理を食べても味がよく分からないと聞いた事がある。「おいしさ」には味覚だけではなく視覚的要素も影響を与える訳である。ここに言葉≒概念や表象=イメージも加わると思う。味は正真正銘ソフトクリームでも「ク・ソ〇ト」というネーミングで「おいしい!」と思えるかは人によるだろう!

〇このように「認識」とは視覚や聴覚などの五感、言葉≒概念を伴う思考、表象=イメージなど複合的な要素が合致して成り立つもの。これらの要素を「一つの認識」としてまとめる中心的な働きをするのが言語である。だから「一つ」のモノとして認識された対象への執着も「=言語への執着」という面がある。

〇複数の感覚的要素のまとまりに名前を与えると分節化して「一つのモノ」として認識される。だが、これはあくまで仮の事である。名称が示す「それ自体で存在する(形而上学的な)実体」が実在する訳ではない(少なくとも認識可能領域には)。現実に存在するのは複数の感覚、思考、表象の複合現象である。

〇何故「無念無想」が「悟りの境地」みたいに言われるのかというと認識対象である概念や表象(イメージ)が消えると、執着の対象が無いので必然的に執着も消えるからだろう。だが、執着が無ければ概念や表象があっても別に問題はないはずである。だから、概念や表象を消すより執着しない事が大事である。

〇「無念無想」だと思考ができないので分析ができない。分析者として重要なのは「執着を伴わない、対象に引きずり込まれない冷静な思考」である。なので陰謀追及者としては無念無想よりミイラ取りがミイラにならないように「思考しても思考対象に執着しない」ような耐性を身に着ける方が重要だと考える。

〇目をつぶると見えないし、耳をふさぐと聞こえない。対象が無いので「見える対象」「聞こえる対象」への執着も生じない。思考は目をつぶっても耳をふさいでも生起する。思考も認識なので対象が存在する。思考の認識対象は概念や表象である。対象がある以上執着も生じる。思考を停止すると執着も消える。

〇このように目をつぶったり耳をふさぐ事と思考を停止する事は同じである。つまり認識作用の停止。認識作用が止まると認識対象が消えるので執着も生じない。だが、生きている以上は見て、聞いて、考える。執着を断つ為に認識作用を停止させるより認識しても執着を生じないよう注意する方が合理的である。

〇熊本地震で毀損した熊本城が修復中であるが、おかしな形にならなければよいが。祇園祭に「光のピラミッド」が出ていたが、結社のシンボリックなデザインにしようとしているのなら許しがたい。憑依型戦術は「思想」だけではなく「形」もターゲットになる。文化財の形は具体的に表れた先人の心である。

〇日本の伝統的な祭りに何故「光のピラミッド」が?結社は伝統に憑依し視覚的な「形」「デザイン」を駆使したシンボリズムで存在を誇示する。このようなシンボリズムも全て「認識」に関わる。だから「認識」に気を付けないといけないのである。シンボルに気づき「受け入れない」という意思表示をすべき。

〇バラモン教の「解脱」は梵我一如の神秘的境地とされるが、仏教の「涅槃」は「貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅」と明確に定義される。愚痴とは「欲をかいたり怒り過ぎるとろくな事が無い」という事に心から納得していない無知な状態。無知だから過剰な欲や怒りが生じる。貪瞋癡は相互に密接な関係。

〇ユネスコの無形文化財に登録されたという祭りに「光のピラミッド」が登場。ユネスコ創設に大きな影響を及ぼしたのが神智学協会。この祭りは「1803(享和3)年に疫病退散を祈願して始まった」と書かれているが「光のピラミッド」山笠もその当時からあったのだろうか。https://mainichi.jp/articles/20170723/k00/00m/040/108000c

〇「光のピラミッド」と形容される山笠が江戸時代からあったのか否か。仮にあったとするとそれを「光のピラミッド」という言葉で表現する事自体が憑依型戦術である。日猶同祖論のようにたまたま形が似ているものを「同じ」とするやり方。いずれにしても視覚と概念に関わる。これも全て「認識」である。

〇シンボリックな造形をして紛れ込ませるか、たまたま形が似ている事に付け込んで「光のピラミッド」などとラベルを貼り付けるか、である。いずれにしろ何らかの形で伝統文化に絡みついて改竄し破壊しようとする憑依型戦術である。造形は視覚という感覚・知覚に、ラベルの貼り付けは思考・概念に関わる。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1031936092163862529


(了)

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# by kokusai_seikei | 2018-08-26 13:13 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)