〇裏権力は「多様性」なる言葉を広めているが、彼らが嫌うのは「国家の多様性」。多数の国家が併存する状況を終わらせ、「世界単一政府」によって一元支配する事を狙う。逆説的だが、「多様性」を消滅させる為に「多様性」なる言葉を広めていると見る事が出来る。世界統一支配とは多様性の消滅である。
〇裏権力は世界統一の妨げになる「国家の多様性」と「言論の多様性」を特に忌み嫌う。彼らは目下これらの破壊に注力している。国の主権を自称国際機関に移譲(破壊)させる事と言論空間を締め付けて自由な言論を封殺する事に血眼になっている。SDGs・P条約・IHR改定・改憲等は全てそこに収斂する企み。 〇裏権力が「国家の多様性を破壊する」と言っても、現にある日本政府などの各国政府機構を文字通り解体しようとしているのではないだろう。それよりは各国政府機構が完全に裏権力の意のままになるように改変しようとしていると見るのが現実的である。既に各国政府の中枢には裏権力走狗が入り込んでいるので、実質的には主要各国の政府は裏権力の支配下にあると言えるが、制度的に完全な裏権力支配が阻まれている場合がある。日本だと現行憲法がある限り全国民への惑沈強制接種や本格的な戦闘を伴う海外出兵は難しい。前述の「改変」とはこうした裏権力支配にとっての制度的障害を取り除く事を意味する。 〇近代憲法の本質的機能は「政府権力を縛る事」である。緊急事態条項は「政府権力への縛り」を一時的に解除する条項である。それが発動すると、「惑沈の強制接種(同調圧力による実質的強制ではなく権力による強制)」「接種拒否者の逮捕・投獄」など今の憲法秩序下では考えにくい事が起こり得るだろう。 〇憲法問題は思想やイデオロギーとして論じられる事が多い。改憲派=右・護憲派=左や、もう少し高度になると、「人権概念は天賦人権という基督教の産物」「国民主権・国家主権なる概念は西欧近代の産物」などという指摘もあり得るであろう。それは分かるが、個人的には主に制度論として論じたいと思う。 〇というのは、どんな思想やイデオロギーを持っていても、現に我々日本国民は近代憲法が規定する制度の中で生きている事実状態に変わりはないからである。その現実の中で如何に裏権力の横暴から身を守るかを現実問題として考えたいのである。「人権思想とは何か」などという思想問題はそれはそれで重要だが、今は「日本国民への惑沈強制接種や日本人が裏権力によって戦争の手駒にされるのを如何に防ぐか」という喫緊の現実問題として考えたい。例えば、近代民法の源流はナポレオン法典だが、民事紛争に巻き込まれた場合には「ナポレオン主義者」でなくても現行の民法を活用せざるを得ないのと同じである。 〇「各国政府機構が完全に裏権力の意のままになるように改変しようと(する)」企みが目下実行に移されている。改憲・日本版CDC創設など政府機構の改変以外にもCDCやNATOの日本事務所開設等が相関連する企みである。要は政府を名ばかりの「日本政府」とし、実質的に「世界政府日本支部」化するのが狙い。 〇「多様性」は魔語。魔語=マジックワード。マジックワードとは説得や宣伝に効果を持つ言葉。「多様性」と言うと、何かよさげで、抗しがたい語感を生じる。それが狙いと見る。額面通りに受け取らず、流布者が言葉の背後に込めた意図を推察すべき。世に流布される耳障りの良い言葉ほど注意が必要である。 〇「各国政府機構が完全に裏権力の意のままになるように改変しようとしている」と書いたが、最近裏権力走狗がよく使う「〇X(〇トランスフォーメーション)」(DX・GXなど)という表現はまさにそれを暗示する。X=トランスフォーメーション=改変。これもまた「魔語=マジックワード」の類と言えよう。 〇「「多様性」は魔語」と書いたが、これは当然「裏権力及びその走狗が宣伝の意図を以て使用する場合は」という意味である。この語自体はニュートラルなもの。魔語か否かは使う者の意図や文脈などで決まる。これもまた言語の主客連関態である。言葉の意味やニュアンスは様々な条件によって異なってくる。 〇裏権力走狗らがDXだのGXだのと喧しいが、その真の狙いは各国の制度を「世界統一支配体制」仕様に改変する事だと見る。謂わば「OX(ワンワールド・トランスフォーメーション)」である。「OX」は殆ど「マルバツ」にしか見えない。裏権力はマルバツ式の如き二元論で人々を両建に囲い込み、手駒とする。 〇ある一つの単語は単独ではなく文脈や使用者の意図などが込みの「体系」として機能するので、単なる辞書的な意味を額面通りに受け取るのは危うい。例えば、裏権力及びその走狗が多用する「自由」という単語は、文字通り人々を自由にするという意味ではなくて、権力奪取の為の魔語として機能している。 〇「自由」という言葉は江戸時代くらいまでは「好き勝手」というニュアンスが強く、あまり良いイメージの言葉ではなかったようである。だが、現代では良いイメージが強いので、そうした一般の語感を利用して「自由」という言葉を多用する事で、世の中を裏権力に都合の良い方向に動かそうとする訳である。 〇多様性は本来、人・土地・自然・歴史・風土などの結び付き(空間・時間に渡る関係構造)によって成り立つものだと思う。故に地球全体は元から多様である。それに対して裏権力の言う「多様性」とは、人々を祖国の土地から引き離して別の土地に移動させて流民の坩堝と化する事、即ちワンワールドを指す。 〇裏権力の言う多様性は多人数を一緒くたにしてタコ部屋に入れる事に喩える事が出来る。棲み分けない事には「和」というのは中々難しい。「鎖国」時代の日本は対外戦争をしないという意味で平和だった。混ぜこぜにするからこそ起こる衝突や不和もあるであろう。独仏など移民大国は大抵どこも荒れている。 〇「国家主権(特に保健行政)の多様性の根絶」を目指すパンデミック条約は裏権力の思惑通りには事が運んでいない模様である。このまま頓挫すべし。裏権力の「力」は必ずしも絶対的ではない。個々人が屈さずにたゆまず発言を続ける事が世界統一支配計略の打破に繋がると考える。https://jp.reuters.com/world/EGRRGJ4M4RMUZAY3YKHAETDUZ4-2024-01-23/ 〇テドロスは「新条約締結とIHR改定を実現できなければ、機会が失われ将来の世代はわれわれを許さないかもしれない」と発言。お為ごかし。お為ごかしとは「表面は人の為にするように見せかけて実は自分(達)の利益を図る事」を言う。P条約・IHR改定=パンデミック対策を口実としたWHOの世界政府化。 〇裏権力は美辞麗句やスローガンを言葉の本来の意味とは逆の意味で使う。例えば「自由を強調しながら言論の自由を抑圧する」「多様性を掲げながら画一化を進める」「民主主義を名乗りながら話し合いや議論を封殺する」「法の支配が大切と言いながら最高法規を停止させる緊急事態条項の創設を狙う」など。 〇裏権力及びその走狗は人々を騙す為に歯の浮くような偽善的な言葉を弄するが、単に偽善的な表現を使うというだけでなく、言葉の本来の意味とは違う意味を込めたり、全く逆の意味で用いたりする事が多いので厄介だ。その事を認識せずに彼らの言葉を額面通りに受け取ると、言葉の魔術に簡単に幻惑される。 〇「自由・民主主義・法の支配」を掲げる権力者は大体逆の志向を持っていると見る。つまり、個々人の自由(特に言論の自由)を軽視し、話し合いや議論を嫌い、出来る限りルールに拘束されずに権力行使する事を好む。「自由・民主主義・法の支配」を掲げる裏権力走狗の本音は言葉とは逆の所にあると見る。 〇裏権力が使う言葉は他の言葉で補足すればその真の意味が浮かび上がる場合も多い。国際金融資本が言う「自由」は「富を独占する自由」、フリーメイソンが言う「友愛」は「結社員同士の友愛」、ネオコンが言う「法の支配」は「恣意的な法の支配」や「無法者の支配(ネオナチ、テロリストが手先)」など。 〇裏権力走狗は、言論の自由を軽視しながら「自由」を騙り、話し合いや議論を軽視しながら「民主主義」を騙り、ルールを軽視して恣意的な権力行使を好むのに「法の支配」を騙る。何故そうするかと言えば、世の中でそれらの語が肯定的な語感を持っているため、それらの語を使えば人を騙し易いからだろう。 〇裏権力及びその走狗の言葉の使い方には異様な違和感を覚える。違和感を大事にしたい。違和感を押し殺して無理に納得しようとしたりせず、自分が感じる違和感を元に批判的思考を働かせ、事象の分析・考察を行ない、違和感の正体を見極める。そうすれば裏権力の言葉の魔術のカラクリが明らかになるはず。 〇言葉は文化・文明の基礎である故に、言葉に介入する事は人間社会の支配に直結する。人間の思考は言語で為されるので、言葉をいじると思考を操る事も出来る。これが裏権力が「言葉の魔術」を多用する動機であると分析する。彼らが使う「魔語」を額面通りに受け取り無批判に使用すると、思考が操られる。 〇人間は言葉で思考するので実態よりも名称に引っ張られ易い。この弱点を突くのが「名付けの魔術」である。例えば、ある対象に肯定的な語感の名称を付ける事で、その対象の実態がどうであれ良い印象を植え付ける事を狙う。ネオナチやテロリストを「自由の戦士」と呼び人々の支持を集める手口などがある。 〇ネオコンは「使える」と見なした手駒であれば、どんな無法者や過激派でも「自由の戦士」「自由と民主主義の闘士」などと印象付けて人々の支持を集めさせる手口をよく使う。これなども「自由」「民主主義」といった旧西側諸国で肯定的なイメージで受け取られる言葉を使った「名付けの魔術」だと言える。 〇名称が実態に合うか吟味する事が重要。古代の儒家に「正名」という思想がある。事物の実態に適合する正しい名称を使う事が世の乱れを正す元になるという考え方である。物事の道理や筋道を表す「道」という語は「道う(言う)」とも読める。言葉を適切に使う事が「言葉の魔術」を破る鍵になると思う。 〇以前読んだ小林秀雄氏の本で「言辞の道」という言葉が頻用されていたと記憶する。これは本居宣長の歌論書「排蘆小船」に出てくる言葉だが、この表現自体が印象に残った。「言辞」は言葉。言辞の道=言葉の道。言葉の道は思考の道。やはり筋道に沿って言葉を適切に使う事が言葉の魔術を破る道だと思う。 〇政治的詐欺師の常套句「自由・平等・博愛(友愛)」「自由・民主主義・法の支配」など。これらの表面的な言葉に引っ張られる事無く、それらの名称が付けられる対象の実質実態を知る事が重要である。実質実態を知れば、それに相応しい名称を付ける。これが「正名」である。これが世を正す基本になる。 〇同じく常套句「多様性」。裏権力走狗が言う「多様性」は、たくさんの文化を尊重する事ではなく、様々な文化的背景を持つ人々を一か所に集めて混合する事にあると見る。特定の文化圏に移民を大量に入れ、当該文化圏に譲歩を迫りその特性を削ぎ落す。その為のスローガンとして唱えられるのが「多様性」。 〇ミックスジュースは多様な食材を混ぜて作られるが、ジュースが一旦出来てしまえば、多様な食材を元の状態に戻す事は出来ない。裏権力及びその走狗が「多様性」という言葉の魔術で狙っているのはこういう事態であろう。多様性が失せたワンワールドを狙う連中が「多様性」を唱える論理矛盾に気付くべき。 〇ハイエクは社会主義者が「自由」という言葉を使う事で知識階級の支持を集めたという趣旨の事を書いているが、これはハイエクを持ち上げる主義者(ネオリベやネオコン)も使っている手口である。「自由」は政治的詐術者が最も多用する常套句と言える。言葉が貼られた対象の実質実態の吟味が肝要である。 〇先述の「言辞の道」は原文では「和歌は言辞の道也」とあり、和歌の制作上で言語表現を工夫する事の重要性を述べた言葉である。そこに文芸評論家の小林秀雄が人生の上で経験される堪え難い心の動揺を直視し言語化する事で己の「所有」と化し生きる道..という人生論を射程に収めた意味合いを読み込んだ。 〇いずれにしても「言辞の道」は日本の古典文芸に於ける言語表現の重要性を示す言葉である。しかし、言語表現の重要性は文学に限らない。政治や社会を含む森羅万象を論じる上で言語表現が重要である。何故なら人間は言葉で物事を認識する故に言語表現が適切でないと認識自体を誤る危険があるからである。 〇陰謀追及に於いても言語表現を含む言語の考察が非常に重要である。これを言わんが為に「言辞の道」という表現を引用した。陰謀分析で言語の考察が重要なのは、裏権力が「言葉の魔術」「言語魔術」を駆使するからである。彼らは言葉の魔術で人々の認識を混乱・錯誤に導く事によって社会を操ろうとする。 〇言葉の魔術が裏権力の支配術の中核である以上、それを打ち破る事は裏権力の陰謀そのものを打ち砕く事に繋がると考える。その為の工夫や営為を追及者の言辞の道あるいは言語の道・言葉の道と呼ぶ事も出来るであろう。やはり国語による批判的思考という一筋の道を行くのが言語魔術を破る正攻法だと思う。 〇「人間は言葉で物事を認識する故に言語表現が適切でないと認識自体を誤る危険」と書いたが、かかる事態を意図的に引き起こすのが裏権力の言葉の魔術である。例えば「陰謀論」なる言葉に込められた意味や意図を深く考えないなど言語表現に注意を向けず言葉を雑に扱う人は言葉の魔術に簡単に引っ掛かる。 〇正名は「名付けの魔術」による認識の混乱や錯誤を正す事が目的であって、認識を誤らない範囲ならその言語表現には幅があって然るべきである。言語表現の豊かさは文化の豊かさに通じる。特定の言語表現を絶対視して言葉狩りをするような態度は思考が硬直しており、言葉の魔術に対してむしろ脆弱である。 〇「正名」は「事物に一対一で対応する唯一絶対の正しい名称を付ける」というような実体論的あるいは道徳規範的なものではなく、事物の実質実態に合う名称を使う事で事物に対する我々の認識を大きく誤らせないようにする事が目的である。明らかな認識の誤りに導かない限りは、どんな名称を使うかは自由。 〇言葉は単に辞書的な定義だけでなく、文脈や使い方でニュアンスが変わってくる点にも注意が必要だろう。その場合、辞書的な意味で受け取ると一見適切に見えるが、文脈や使い方で独特のニュアンスが施されている場合がある。例えば、「陰謀論」は「陰謀を論じる」という一見価値中立的にも見える表現だが、実際には、侮辱的・侮蔑的なニュアンスが含まれている。それはこの言葉が特定の言説を貶める文脈で使用されてきたからである。「反ワク」というのも同様。「惑沈に反対する人」という客観的な描写に見えるが、実際には惑沈に疑問を持ったり批判したりする人を差別し侮辱するニュアンスが含まれている。 〇故に「正名」は辞書的に正しい名称を適用すればよいというものでもなく、文脈をも考慮しつつ認識を誤らせない表現を使う必要がある。これが「特定の言語表現を絶対視して言葉狩りをするような態度は言葉の魔術に対してむしろ脆弱」と述べた理由。「正名」の実践には臨機応変な言語表現力が必要である。 〇和歌に於ける「言辞の道」は「心におもふことを、ほどよく言いつづくる道也」で「よき歌をよまむとおもはば、第一に詞をえらび、優美の辞を以て、うるはしくつづけなすべし」というものだが、陰謀追及に於ける謂わば「言辞の道」(言語表現の道)は、事実に即して極力正確に述べる事が重要だと思う。 (了) #
by kokusai_seikei
| 2024-03-11 00:08
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〇ご質問ありがとうございます。「日本では」と書いているように、これはあくまで近代日本に於ける特殊事情を踏まえた記述です。思想的な論理として両者が重なるという意味ではありません。これに関しては、コンパクトに説明しているツイートがあるので、直下にお貼りします。
「菊池さんは、ボチボチ間違えてるんだよなぁ。 昔から。イルミナティのことでも指摘した通り。グランドリアン系や百科全書派イコール進歩主義がどうやったら、厳格なるキリスト教原理主義=プロテスタントと重なるというのだろうか。」 ※カッコ内は対論者の発言。以下同様。 〇両建構造は国や地域ごとの歴史的背景を反映する場合も多い。例えば、プロテスタントと大東社系左翼の関係。欧米では両者は対立関係にある事も多いが、日本では政治的に同じ陣営に属している場合も多い。明治時代にプロテスタントと啓蒙主義が同時に入ってきたという歴史的事情を反映していると見る。https://twitter.com/kikuchi_8/status/1395820501889470471 〇日本では明治時代にプロテスタントと啓蒙主義が同時に流入してきたので、両方共「文明開化」思想と受け取られた。基督教と啓蒙主義の思想的対立が西欧の如くには強く意識されないで同じ「舶来物」という事で欧化主義者が両方歓迎したという事情である。これがプロテと大東社系の関係に反映したと見る。https://twitter.com/kikuchi_8/status/1395821796713066498 〇文脈を見ると分かるように、「日本では」プロテスタント系と大東社系が「思想原理的に」ではなく「政治的社会的な勢力として」近いという意味である。実際に日本の左翼陣営にはプロテスタント系が多い。「西早稲田」が有名である。また、安部磯雄や片山哲など初期の社会主義者にもプロテ系が多かった。 〇まとめると、近代日本では基督教とそれへの反発で生じた啓蒙主義の思想的対立関係があまり意識されず、特に欧化主義的な知識人によって両方共「舶来物」としてありがたがられ、その思想的対立が殆ど意識されなかった。それが日本ではプロテ系と大東社系左翼が近い位置にいる理由だという分析である。 〇「カトリックの聖地・長崎に原爆を落とした勢力=プロテスタント系」という判断は一応の図式としては理解出来るのですが、その枠組みを絶対視し過ぎると盲点をも生み出すと思います。例えば、原爆投下勢力の今の牙城であるCSIS創設者がカトリック系イエズス会士である事など。 「長崎という日本におけるカトリックの聖地に、ロスチャイルド=グランドリアン系のほうね。 奴らが原爆を落としたので、右翼とカトリックのコラボは、実際にあるんだけど、どちらかと特殊な事例。 思想形態で説明するならダメだろと。 山本太郎=カトリック人脈が世界連邦で暗躍してるとかも含めてね。」 〇麻生太郎、渡部昇一、曽野綾子、山谷えり子など右派系人脈のかなりの中心人物にカトリック教徒が結構いるが、日本の基督教人口が1%未満である事を考えると、特殊な事例と言うにはかなりの割合だと思う。世界連邦運動に関しては右派左派、カトリック・プロテスタント問わず様々な党派が参加している。 〇戦後の世界連邦運動の主導者で「世界連邦建設同盟」の副会長だった賀川豊彦はプロテスタント系の牧師だった。ちなみに会長の尾崎行雄は聖公会の洗礼を受けたクリスチャンだったようだ。賀川に影響を与えた木下尚江は啓蒙主義とプロテスタントの両方に傾倒していた。これが先述の日本の特殊事情の一例。 〇繰り返し説明すると、近代日本の特殊事情とは「日本では明治時代にプロテスタントと啓蒙主義が同時に流入してきたので、両方共「文明開化」思想と受け取られた。基督教と啓蒙主義の思想的対立が西欧の如くには強く意識されないで同じ「舶来物」という事で欧化主義者が両方歓迎したという事情」である。 〇最近は週一ログインが常態化しているので、時間的な余裕がなくて論争的な議論は殆どしてなかったが、お正月でもあるし相手が村手さんクラスになると話は別である。実のある論議になるのは確実だからである。自分自身の思考・考察を引き出すのに非常に役立つし、見る方々の参考にもなるのではと思う。 〇私と村手さんの相違は、裏権力の各派閥の分類をどれだけ絶対的なものと見るか、その度合いであると思う。私の場合は「両建」を念頭に置いて見るので、各派閥の分類はあくまで相対的なものだと考えている。思想派閥が違っても条件次第では政治的社会的な勢力として徒党を組む事も普通にあり得ると見る。 〇「条件次第」という場合の「条件」の一例が「啓蒙主義とプロテスタントが同時に流入した近代日本」という地理的歴史的な条件である。あるいは、IPR太平洋問題調査会は米国の基督教人脈とソ連の共産主義人脈の寄り合い所帯だった。両者は当時「反日」で結束していた。これも歴史的な環境条件と言える。 〇ある文芸評論家が自らの人生と思想遍歴を記した本の中で、青年時代に無神論者で共産主義者だった著者が仲間の基督教社会主義者の青年と基督教信仰を巡り論争をしたエピソードが書いてあったと記憶する。当時の左翼陣営で大東社系とプロテ系が思想的な緊張対立をはらみつつ共同していた様子が伺われた。 〇「思想の違いが重要ではない」と言っている訳ではありません。「思想派閥の枠組みだけを絶対視しては盲点を生む事がある」という事ですね。思想は人間の思考・行動の大枠を規定する基本的プログラムではあっても、現実の謀略は状況に応じて調整しないと機能しないと思います。 「菊池さん、両建てだからこそ、思想の違いが重要になると思うのよ。 回覧板をまわして、全員に「地震起こすよー」「有事発生させるよー」って通知してからやるわけではないでしょ。 思想派閥単位で動くから、思想の決定的違いがどこにあるか見極められなければならないのですよ。」 〇「思想の違いが重要」は完全に同意見。ただし「思想の違いが重要」というのと「思想派閥の分類を絶対視する」は違う話である。「どっちが重要か」という百零の話をしているのではない。思想派閥の分類は非常に重要だが、それだけを絶対視せず事実ベースであらゆる情報を吟味する事が重要と考えている。 〇ロックフェラー家の表向きの信仰はプロテスタント系のバプテストとされるが、彼らの国際謀略にカトリック系が関わっていないかと言ったら全くそんな事はないのである。むしろかなり重要なポジションでが関わっている。その一例が、日米欧委員会(現在の三極委員会)日本事務局長だった山本正であろう。 〇欧州系裏権力人脈が日本人のビルダーバーグ会議への参加を拒否したために、代わりとしてロックフェラーが作ったのが日米欧委員会(三極委員会)だとされる。その日本事務局長だった山本正はロックフェラーの日本に於ける総代理人的な立場だったと見ている。山本正は上智大出身のカトリック教徒だった。 〇CSISの日本側カウンターパート笹川一派の日本財団会長だった曽野綾子。ジャパンハンドラーズのマイケル・グリーン(上智大学特任教授)、リチャード・アーミテージ。ネオコンの下請け傭兵会社ブラックウォーター創業者で十字軍を気取るエリック・プリンスなどロック系の要所に結構カトリック系がいる。 〇幕府の禁教政策で「邪宗門」のイメージが強かったカトリック(キリシタン)に対し、プロテスタント系基督教は明治時代に大東社系の啓蒙思想と同様に「進取の思想」と受け取られた。これは宗教というより「日本の因習打破」という名の下に日本の欧化を企図する政治イデオロギー的な受容だったと言える。 〇「舶来物なら何でも有難がる」近代日本の欧化主義の風潮の中では、基督教と啓蒙主義はどちらも「進取の思想」と受け取られ、ヨーロッパに於ける両者の思想的対立の歴史などあまり意識されなかったのである。「グラントリアン≒プロテスタント」的な解釈をしたのは明治の欧化知識人であって私ではない。 〇プロテスタント系の日本基督教団やキリスト教矯風会などと、大東社系左翼の日本共産党や社会民主党の政治的なスタンスや主張はそれ程違わないだろう。有神論か無神論かという形而上学的レベルで議論し出すと思想的対立が露わになるはずだが、政治イデオロギー先行だから特に対立したりしない訳である。 〇「左翼活動家で、姉はクリスチャン、弟は無神論者で共産党員、政治的な主張・陣営はほぼ同じ」というケースや「共産党はキリスト教徒より神の教えを守っている」と言う牧師がいたりする。このように日本の左翼陣営はプロテ系と大東社系が政治的なイデオロギー先行で近い関係にある場合が多いのである。 〇「思想派閥の分類は非常に重要だが、それだけを絶対視せず事実ベースであらゆる情報を吟味する事が重要」と書いたが、前述の分析はその実践例である。プロテスタント系と大東社系の思想的違いを重々認識した上で、近現代日本という歴史的文脈に即して事実ベースで両者の実際の関係を考察したのである。 〇「思想的な緊張対立をはらみつつ」と書く事で「グラントリアン≠プロテスタント」だと示しているのである。それと同時に「共同」という言葉で日本では両者が政治的社会的勢力としては近い位置にいたという見解をも示しているのである。正確に文意を読み取って頂きたいと思う。 「ある文芸評論家が自らの人生と思想遍歴を記した本の中で、青年時代に無神論者で共産主義者だった著者が仲間の基督教社会主義者の青年と基督教信仰を巡り論争をしたエピソードが書いてあったと記憶する。当時の左翼陣営で大東社系とプロテ系が思想的な緊張対立をはらみつつ共同していた様子が伺われた。」https://twitter.com/kikuchi_8/status/1741931613230129525 〇「思想的に同じ・重なる」というのと「政治的社会的な勢力として近い関係」というのは全く違う。要は、近代日本のプロテ系と大東社系は、思想的宗教的形而上学的な立場の相違(有神論VS無神論、一神教VS理性主義など)を棚上げして、政治的主張(因習打破など)の点で接近しているに過ぎないのである。 〇また、政治的主張についてもある条件下で「近い」「接近している」だけであって全く同じという訳ではない。「近い」という慎重な言い回しに着目して頂きたい。政治イデオロギーが先鋭化してくると、大東社系同士であっても激しい対立が生じる事はソ連の粛正や新左翼の内ゲバを見れば分かる事である。 〇「近代日本に於いてプロテスタントと大東社系が政治的社会的な勢力として近い関係にある」という事についてもう少し深掘り考察をしてみたい。抽象的に論じても仕方ないので、具体的に述べて見る。まず近代日本に於いて「大東社系左翼」とは誰なのかという問題がある。そこを確定する事で、その人物の 〇来歴を追えば、「プロテスタントと大東社系の政治的社会的な勢力としての近しい関係」が見えてくるはずである。日本の左翼の源流と言えば中江兆民である。兆民は仏蘭西に留学して仏蘭西啓蒙思想を学び、ルソーの民約論(社会契約論)を日本語訳するなどしている。その一方で兆民は幼少期から漢籍や仏典の教養を身に付けた東洋型の読書人でもあった。その点で中江兆民は純然たる大東社系左翼とは言い難い所がある。兆民よりはむしろ兆民の弟子の幸徳秋水こそが近代日本の大東社系左翼の元祖と言えるのではなかろうか。「秋水」の名はおそらく「荘子・外篇」の「秋水篇」から取られていると推測されるが、 〇「秋水」の号を与えたのは兆民である。「秋水」の号は秋水本人よりも、この名を与えた兆民の東洋的教養を示している。ひとまずこの幸徳秋水を「日本の元祖大東社系左翼」として話を進める事にする。幸徳秋水には「基督抹殺論」という基督教批判の著作がある。これにより秋水は「思想原理的」に基督教を批判していた事が分かる。だが、政治的社会的な運動をする上では、同志の多くがプロテスタント系の基督教徒だった。日本初の社会主義政党である社会民主党の創設メンバーは幸徳秋水・片山潜・安部磯雄・木下尚江・河上清・西川光二郎の六名だが、秋水以外は全員プロテスタント系のクリスチャンである。 〇また、幸徳秋水と同じ平民社メンバーで秋水と所謂「不倫」の関係にあった管野スガもプロテスタント系の基督教徒であった。管野スガはキリスト教婦人矯風会の影響を受けて廃娼運動や男女同権を目指す運動に参加していたという。このように幸徳秋水は思想原理的には基督教を批判したが、政治的社会的勢力としては、周囲にいたのはプロテスタントだらけであった。幸徳秋水は師の中江兆民を通じて学んだ仏蘭西流の啓蒙思想や唯物論を信奉していたと思われるが、政治的社会的勢力として徒党を組んでいたのは、その大半がプロテスタント系だった。これが「近代日本では大東社系とプロテ系が近い」事の具体例。 〇ちなみにマルクス主義を日本で最初に紹介したのはプロテスタント系の雑誌「六合雑誌」だったとされる。小崎弘道という牧師が書いた「近世社会党の原因を論ず」という論文が日本で最初にマルクス主義に言及した文献だとされている。六合雑誌は思想雑誌として日本で社会主義を広めるのに一役果たした。 〇個人の思想遍歴としてもプロテスタントから大東社系の革命思想に深入りしたパターンも多い。ソ連コミンテルンの執行委員会幹部だった片山潜は元々プロテスタントだった。初期共産党の理論家(山川イズム)から戦後は社会党左派のイデオローグとなった労農派の山川均は同志社出身のクリスチャンだった。 〇「プロテスタントと大東社系左翼は政治的社会的に近い」と言っても、全てのプロテスタントが左派系だったという訳ではない。思想派閥の分け方はグラデーション状になっており、様々な要素が加わる事により微妙に変化してくる。例えば、プロテスタント系でも国家主義的又は民族主義的な要素が強まると、 〇右寄りになったりする。植村正久・小崎弘道の一派と海老名弾正の一派で戦前のプロテスタント界を二分したというが、海老名弾正は国家主義的要素が強かったようだ。民族主義を内包する日猶同祖論を信奉するプロテスタント系も右寄りになる傾向がある。酒井勝軍・小矢部全一郎・中田重治は全員プロテ系。 〇「武士道」を書いた事で有名な新渡戸稲造はクウェーカー教徒で、どちらかというと英国系フリーメイソン寄りと見るべきだろう。「近代日本ではプロテ系は大東社系左派に近い」というのは一応の目安として言えるだけであって、国家主義・民族主義など色々な要素が加わる事によって実態は様々だった。 〇「思想派閥の分かれ方はグラデーション状になっている」と書いたが、一思想家の思想内容についても言える事である。幸徳秋水は中江兆民を通じて仏蘭西直伝の啓蒙思想と唯物論を学んだが、秋水が基督教を批判した「基督抹殺論」には神智学の言説の影響も見られるそうである。神智学は英国系石屋の系列。 〇幸徳秋水が基督教批判を展開した基督抹殺論は必ずしも大東社系思想のみで書かれている訳ではなく、神智学協会二代目会長アニー・ベサントの言説の影響があるという。秋水の同志で共に社会民主党を創設した安部磯雄は後に日本フェビアン協会を創設している。フェビアン主義は英国石屋系の思想である。 〇日本初の本格的な左派政党と言える社会民主党(初の社会主義政党)の創設メンバーは6名。 その構成内訳は 大東社系:1名 プロテスタント系:5名 である。 この事で以て「日本では大東社系とプロテスタント系は政治的社会的勢力として近い位置にいる」事に関しては、もはや議論の余地はないと思われる。 〇最初に「資本論」を日本語全訳した高畠素之は同志社出身で、最初はキリスト教徒(プロテスタント系)、後に棄教してマルクス主義者に転向し、さらにそこから進んで国家社会主義者となった。やはり、近代日本ではプロテスタント系の基督教が社会主義やマルクス主義の入り口になっているパターンが多い。 〇考察の続き。「プロテスタントと啓蒙主義は思想的に異なる」事を一応の前提として論じたが、この前提そのものを考察してみる。ひと口に「プロテスタント」と言っても、聖書の記述をそのまま信じる原理主義的立場から基督教の教義を極力「合理的」に解釈しようとする理神論的立場まで様々なものがある。 〇近代日本の左翼陣営に影響を与えたプロテスタントとしてはユニテリアン派が重要であろう。ユニテリアンはイエスの神性を否定するなど理神論的教義を持つ。社会民主党を結成した安倍磯雄はユニテリアン派だった。先述の六合雑誌は社会主義研究会の機関誌的存在で発行元は日本ゆにてりあん弘道会だった。 〇大東社(グラントリアン)は無神論を積極的に掲げている訳ではなく、「無神論も許容する」という姿勢だと思われる。無神論を許容するか否かが英国系フリーメイソンとの違い。大東社系の初期の啓蒙主義者の多くは理神論的な有神論者だったと思われる。百科全書派で有名なヴォルテールも理神論者である。 〇理神論は英国発祥の思想だが、ヴォルテールの理神論は実は英国から持ち帰ったものである。理神論の点で、百科全書派のヴォルテールとユニテリアン派は思想的に近い。このように思想史を辿ると、ユニテリアンもプロテ系である以上、「プロテ系と啓蒙思想は思想的に全く無関係」とも言えない事が分かる。 〇百科全書派の思想の中核にある理神論は英国から移入したものである。百科全書派のディドロやヴォルテールの主要な仕事の一つは英国の理神論や合理主義神学を翻訳し仏蘭西に紹介した事である。思想史を遡ると、英国系フリーメイソンと仏蘭西系フリーメイソンの思想が「両建同根」である事が見えてくる。 〇英国系石屋VS仏蘭西系石屋の対立を絶対視する枠組みだと、相互の思想的影響関係が見えず、百科全書派の理神論が英国由来の事実は盲点となるであろう。百科全書派は英国から理神論などの合理主義的思想を移入し、仏蘭西のカトリック教会中心の体制を批判する武器とした所に思想派閥としての特質がある。 〇「理神論の点で、百科全書派のヴォルテールとユニテリアン派は思想的に近い」と書いたが、「理神論的という点で」に訂正したい。ユニテリアン派は他のプロテスタント諸派に比べると、理神論的傾向があるとは言えても「神の人格性」の強調度合いで理神論そのものとまでは分類されていないからである。 〇百科全書派が英国から理神論を輸入したように大東社系の理性主義は元々は英国系の合理主義思想に由来する。しかし、大東社系は英国系石屋のもう一つの大きな特徴である神秘主義は拒否する方向に向かった。この点に英仏石屋の思想傾向の違いが表れてくる。魔術と科学のように源流は同じだったという話。 〇一応の考察結果:「プロテスタントと啓蒙主義は思想的に異なるのか」問題については、「異なるのは異なるが、思想史的に全くの無関係という訳ではない。派閥によっては思想史的に近い場合もある。プロテスタントに分類される一部のグループ(ユニテリアン)は、理神論的な教義を持っているからである。 〇そもそも「理神論」とはどういう思想かと言うと、「神は世界を創造したが、その後は世界を放置している。世界に対する神の介入などなく、世界は世界自体の法則性で動いている。」という教義である。「創造神」を認める点が無神論との違い。ユニテリアンは理神論よりも「神」の人格性を強調するようだ。 〇西洋の有神論も理神論も無神論も基督教に対する解釈や態度を示しているので、あくまでも基督教社会を前提としている。その意味で西洋思想で基督教に無関係なものはないと言える。また、哲学的には大半が実体論である。「神」という実体を「理性」という実体に置き換えたのが啓蒙思想とも言えるだろう。 〇西洋文化圏の外にいる日本人の立場からすると、「基督教も啓蒙主義も実体論である」と言えるが、それだけだと西洋内部の各思想派閥の分類・分析にならないので、もっと細かく見ていく訳である。とは言え、西洋の外から裏権力の各派閥の思想・教義を俯瞰し得るというのが日本人が持つ有利な点である。 〇特定の思想同士の異同は視点をどこに置くかによっても判断が違ってくる。西洋思想全体を俯瞰する巨視的視点からはプロテスタントも啓蒙思想も西洋的実体論の一種だと言える。だが、「理性を重視するか」「創造主観念の人格性を重視するか」などの個別の思想的特徴に着目すると異なる思想と判断される。 〇陰謀追及に於ける思想分析の意義について。「思想(世界観や人間観、行動理念など)」は人間の思考や行動を根底で規定する重要な要素なので、国際秘密力たる「陰謀者(陰謀を実行する者)」の「思想」を分析する事は、彼らが実行する「陰謀」という現象の根本に迫る本質論的なアプローチだと言える。 〇陰謀研究に於いて思想分析は非常に重要だが、「思想が本体」という表現には少し注意が必要であると思う。「思想が本体」という表現はインパクトがあるため情勢論的な分析を重視する陰謀追及者が多い中で「思想」の重要性を喚起するのに効果的だと思うが、あくまでも比喩的表現と受け取るべきであろう。 〇「思想が本体」という事を比喩的表現ではなく文字通りに「思想という実体が人から人へと乗り移る」というイメージで受け取ると、イデア論や新プラトン主義などと同様の形而上学的な実体論になるであろう。かかる実体論的錯視に陥らないようにするには、「思想」とは如何なる存在形態を持つかを現実的に 〇考察するのが効果的だと考える。「思想」というのはあたかも“幽霊”のように宙に浮いたような抽象的実体として存在するのではなく、語られたり書かれたりする言語・言葉の体系として存在する。「思想を残す」とは、思想を表現する言葉を口承で伝えたり、文章に書き記して保存したりする事と同義である。 〇太古に於いては思想が口承で伝達される場合が多かったと思われるが、文字が登場して以降は思想が文章に記され文献として伝わる事が多くなった。このように思想は言葉で伝達されるという点に留意する事が重要である。「思想」という実体が人から人に乗り移るのではなく、思想を表現する言葉が人から人に伝達されるというのが「思想の伝播」という事の本当の機制(仕組み・メカニズム)である。それ故に、思想分析では言語に着目する事も重要となる。さもないと、「思想が本体」という比喩表現で「本体である思想が乗り物である人間に次々に乗り移っていく」という実体論的なイメージに陥る危険性がある。 〇思想は言語で伝わる。思想が文字に記された場合で考える。ある思想家Aが自分の思想を書き記す。その文献をある探求者Bが読む。Bは文献を読み、解釈し、内容を理解する。而して思想の価値や真理性を考え、そこに共感や納得が生じれば、その思想を己のものとして受け入れる。かくして思想が伝達された。 〇思想の伝達では思想という実体が人から人に乗り移るのではなく、人に伝わる際に「読み」や「解釈」というプロセスが介在する。思想を表現した文をどのように読み、解釈するかで、思想の伝わり方が異なってくる。筆者の意図した通りに語意や文意を解釈されるとは限らないからだ。誤読や曲解もあり得る。 〇「読み」や「解釈」の場面で新たな思想が生成される事もある。それは「誤読」や「曲解」ですらも然りである。先人が残した思想的文献を読み自分なりに解釈する事で、それを媒介にして独自の思想が生成される事がある。お正月に安藤昌益の「自然真営道」なる本を読んだが、これなどはまさに好例と思う。 〇安藤昌益は儒学・老荘・仏教・易経・記紀など江戸中期に入手出来たありとあらゆる文献への「読み」と「解釈」を通して独自の思想を生み出したと見ている。昌益の読みや解釈の中には今の研究からすると、明らかに誤読や曲解も見受けられるようだが、それすら媒介にして独自の思想が生成された訳である。 〇例えば、昌益の「自然の真道」なる哲学は易経の読みを通じて、易経の宇宙観を否定的・批判的に媒介する事を通じて形成されたと見る。昌益は易経で言う「陰陽」を二元論的だと批判し(「一気の働きを二つに分けた」云々という趣旨の批判)、「陰陽」の二元ではなく一気の「進退」に過ぎないとしている。 〇易経には繋辞上伝に「一陰一陽これを道と謂う」云々とあり、易経のいう「陰陽」は必ずしも二元論とは言えないと思うが、少なくとも安藤昌益は二元論だと解釈した訳である。その解釈が妥当か否かにかかわらず、このような「読み」「解釈」を通じて昌益は独自の思想を新たに生み出したと言えるのである。 〇思想の伝達の現場は「思想」という実体が人という乗り物に乗り移るという単なる受動的な事態ではなく、思想を表現した「言葉」を「人」が「読み」や「解釈」を通じて自分なりに受容する生成の過程であると思う。読みや解釈の仕方次第で、忠実に伝達される事もあれば、新たな思想が生成される事もある。 〇思想の伝達には幾つかの段階がある。文字で伝わる場合だと以下のように考察する。➀思想を表現する文章を理解する。その為には文章を構成する個々の単語や文を解釈する。ここで筆者の意図通りに解釈出来れば、思想を正確に理解する事が出来る。筆者の意図とは異なる読み屋解釈をすると、思想は正確に伝わらないが、その代わり新たな思想が生成される事もある。読みや解釈は創造的プロセスでもある。➁理解した思想内容について自分なりに批判・吟味し価値判断する。賛成・反対・どちらでもないなど。➂自分なりの価値判断で思想内容を「是」と判断した場合は、その思想が自分のものとして受容される。 〇まとめると、思想の受容過程は➀思想内容の客観的理解➁思想内容に対する価値判断➂思想を己のものとして受け入れる事、という3つの過程から成ると分析する。だとすると、「思想の伝達」とは、➀~➂のどの段階を指すのかが問題となる。「人間を内面から動かす」という意味での思想伝達は③の段階まで到達しないと成就しないだろう。陰謀追及者による思想分析は主に➀を指す。批判的思考を働かせて語意や文意を吟味し思想内容を出来るだけ客観的に正確に理解する。それが陰謀の根底をなす思想的原理を解析する事に繋がる。陰謀追及者が➁以降に進むと、「ミイラ取りがミイラになる」危険が出てくる。 〇「思想に取り込まれる」という事態は➁と③の段階で起こる。批判的思考が不十分な為に陰謀者の思想を「是」と判断し、共感し、己の論理として取り入れてしまう。この場合「取り入れる」は「取り込まれる」である。自分で取り入れたつもりが、思想的に裏権力側にまんまと取り込まれてしまう訳である。 〇故に陰謀追及者が思想分析を行なうには、十分な批判的思考力と耐性が必要である。それがないと、取り込まれる危険がある。思想分析では分析対象である思想との「間合い」が重要である。剣の間合いと同じで、近間過ぎると相手を正確に捉え易くなる代わりに打たれる危険が増す。遠間だと安全ではあるが、 〇自分の剣が相手に届きにくくなる。近間でも遠間でも中間の間合いでも相手に打たせず、自分が相手を捉えられる事が肝心であろう。思想分析の「間合い」はそれと同じだと考える。陰謀追及者の思想分析は裏権力の思想と対峙する事なので、もし間合いを取り損ねると、裏権力側の思想に取り込まれかねない。 〇「(思想は)宙に浮いたような抽象的実体として存在するのではなく、語られたり書かれたりする言語・言葉の体系として存在する」と書いたが、江戸時代の学問にはこうした認識がかなり浸透していたようだ。特に古学・古文辞学・国学(平田派より前の文献実証主義的な国学)などに特にその傾向がある。 〇前述のような学問で共有されていた方法論は次のようなものだと考える。➀古意(先人の心や思想)を明らかにするには古文献に直接当たり正確に読み解け。➁古文献を正確に読み解くには、古文献に書かれている文を正確に読解せよ。➂古文献の文を読解するには、文を構成する古語の語意を明らかにすべし。 〇古言古語の精密な注釈を通じて古意を明らかにせんとした方法論。分かり易く言うと「思想を正確に理解するには思想を表現している言語を正確に理解せよ」という方法論である。江戸時代の個々の学問・学派が得た結論の妥当性は別としても、かかる方法論は今でも通用するものなので、参考にしたいと思う。 〇仏教や基督教などの宗教がたくさんの宗派に分かれているのは、聖典や教典の「読み」「解釈」で様々な差異が生じたからであろう。カトリック教団で教皇にのみ聖書の解釈権があるとされたように、宗教の教団組織とは特定の「読み」「解釈」を構成メンバーに強制する所にその本質的な機能があると言える。 〇プロテスタントがマジョリティーの欧米国(アメリカやドイツなど)では白人至上主義などの右翼思想と結び付き易いのに対し、非基督教圏である日本(近代以降の)に来ると進取の思想と受け取られ、大東社系左翼と政治的社会的に近い位置にいたりするのも、思想受容の際の読みや解釈の差異によっている。 〇「思想」というものが実体として不変だという前提に立つと、「プロテスタント=白人至上主義」という思想内容が如何なる条件下でも一定不変と見なすが、この捉え方は思想を表現する言語の「読み」や「解釈」の段階で思想の受容の仕方に差異が生じる事を見落とした実体論的錯視という他はないと思う。 〇例えば、アメリカなどプロテスタントがマジョリティーの欧米国の極右は「イエスは白人」と主張するのに対し、近代日本には「イエスはアジア人である」と主張する矢内原忠雄(無教会派基督教徒)のような人物が存在した。矢内原は右翼ではなく、リベラル寄りの知識人である。欧米の白人右翼の思想内容を実体視し、それをそのまま近代日本のプロテに当てはめると、「プロテが大東社系左翼と政治的社会的な勢力として近い」事などとても「信じられない」となるが、近代日本という歴史的条件下ではプロテは啓蒙思想と同様の「進取の思想」と解釈される傾向があったのである。読みや解釈の差異でこうなった。 〇思想分析を重視すると言っても、思想を如何なる条件下でも一定不変のものと見るか、思想は言語で構成され読みや解釈で受容に差異が生じるものと見るかで、分析方法や結論が異なってくる場合がある。この辺は理論的にややこしく一言二言では真意が伝わりにくいので、少々掘り下げて考察した次第である。 〇「思想は言語で伝達される故に、読みや解釈が重要である」という趣旨の事を書いたが、これは言語や記号一般にも言える事である。思想が言語で表現される体系だとすれば、思想の性質は言語の性質に還元されると言う事も出来る。言葉は「意味」を担う。正確な意味を理解しないと言葉は正しく伝わらない。 〇「言語は主客連関態」と書いた事がある。言語の機能は客体側の条件(発音や文字表記)だけでなく主体側の条件(話者が言葉にどういう意味を込めるか)にも左右されるという意味である。言語は「能記(表現=声や表記)+所記(意味)」で構成される。同じ能記でも所記まで同じとは限らない訳である。 〇「能記が同じ(又は似ている)なら所記も同じ」と決め付けるのはアナロジー的な思考と言える。「アナロジー」とは「似ている」と思える点を根拠にして事物同士の関係を推し測る事を言い、「類推」とも呼ぶ。例えば、「修験者と猶太教ラビの被り物は形が似ているから同じものだ」という風な思考である。 〇日猶同祖論はアナロジー的思考の産物である。アナロジーは中世に顕著に見られ、ファンタジーなどある意味で豊かな文化を作り上げたとも言えるのだが、厳密・精密な分析をする際にはアナロジー的思考に陥らないように注意すべきである。陰謀追及界には昔からアナロジー的な思考が蔓延していると感じる。 〇思想の伝達過程に於ける「読み」や「解釈」の違いで受容される思想内容に差異が生じると論じて来たが、それとは逆に「思想はどこの誰にどのように受容されても常に一定の思想内容が伝達される」という捉え方は実体論的であると同時にアナロジー的な思考とも言える。「〇〇教」「××主義」など思想の名前は同じでも、思想内容も全く同じとは限らないのである。例えば、「基督教」という名前は同じでも(言語の違いや翻訳の問題は置く)、近代日本の欧化知識人が受容した基督教と、プロテスタントがマジョリティーのアメリカの白人右翼の基督教では、その思想解釈や社会的立ち位置にも差異がある訳である。 〇「呪術」の漫画が流行っているが、呪術というものも典型的なアナロジー的思考の産物と言える。文化人類学上で「類感呪術」という概念がある。類感呪術とは「標的」と類似の事物を傷付ける事で「標的」に危害を加えるとする呪術を指す。日本の「丑の刻参り」が典型例。現代も呪術的思考が蔓延している。 〇アナロジー的思考では、表記上あるいは造形上の類似性があると、すぐに結び付けてしまう。同じ能記なら所記も同じだろうと思い込むのは、能記(表現)自体に意味が宿っているという呪物崇拝的な思考とも言える。呪術がアナロジー的思考をベースにしている事を考えると呪術的思考と言ってもよいだろう。 〇「同じ能記なら所記も同じだろうと思い込む、能記(表現)自体に意味が宿っているという呪物崇拝的な思考」に陥るのを避けるには、先述の「言語の主客連関態」という関係構造を観察・考察するのが有効。能記を話者・記述者と切り離さずに「誰が、どんな意味で」その能記を使ったかを考えるようにする。 〇アナロジーに関しては補足説明が要る。アナロジー的思考自体が悪いと言っているのではない。アナロジー的思考とは既知の領域の知識や知見を未知の領域に適応する思考方法を言う。これは時に新たな発見や発明をもたらす場合がある。ただ、物事を精密に分析する場面には適さないと言っているだけである。 〇陰謀追及ではアナロジー的思考は探求のとっかかりとしては有効な場合があるが、それが本当に有効であるか真実であるかは後々の分析や検証を待って初めて言える事である。分析や検証が伴わなければ只の思い付きである。分析や検証の結果、当初の思い付きが間違いと分かれば、固執すべきではないだろう。 〇具体例を挙げる。コロナ騒動の初期に「三密(を避ける)」という言葉が流行った時に、陰謀追及界隈では真言密教の「三密」と重ね合わせる言説が見られた。これはまさにアナロジー的思考で発想されたものである。着想は良いので、後は二つの「三密」が如何なる筋で重なるのかの論理的分析が必要である。 〇アナロジー的思考は裏権力側も多用している。裏権力の心理戦マニュアルとされる「沈黙の兵器」なる文書では、電気工学的な概念を人間社会にそのまま適用しているのが特徴。電気工学的な概念が人間社会にそのまま当てはまるかを検証したのか定かではなく、あたかも既定の真理であるかの如く扱っている。 〇「アナロジー」の話の続き。フリーメイソンももろにアナロジーを使っている。石工の建築技術を社会構想に当てはめるという発想はアナロジー以外の何物でもない。「天然の大理石を切り出して一つずつ精巧に加工し、それを積み上げて一つの建物を作る」という古代の石工の技術を社会に適用しようとする。 〇そこでは「石工が建物の部材となる石を加工するように、人間を世界政府に適合するように思想洗脳する」という発想になる。石工による建築と人間が構成する社会は自ずから性質が異なる。それを無理やり同質視して独善的論理を適用するのは暴力である。アナロジーの中でも非常に悪い部類のものと言える。 〇古代ギリシャのパルテノン神殿は当時の建築技術の粋を集めて緻密な計算を元に非常に精巧に作られているそうだが、そうした技術知を人間社会に適用して理想社会を作れるというのが結社的思想の枠組みだと分析する。対象(建物と社会)の性質の違いを無視して同一の論理を適用すると悲惨な結果を招く。 〇人間社会を石造建築物のアナロジーで考える事は人間を「石」と同様に見なす事に繋がる。実際に裏権力の民衆に対する態度はまさに路傍の石に対するが如くである。物理的暴力だけでなく、人の内面を土足で踏みにじり心を操ろうとする。アナロジーは適用対象を誤ると暴力に繋がる事に注意が必要であろう。 〇人と石の性質の違いは「心(知覚・感情・意思などの認識作用)の有無」であろう。物理的法則にのみ従う石とは違い人の動きの予測は困難。故に人間社会に石造建築のアナロジーを適用しようとすると、人を石と同様の「予測」と「操作」が可能な対象に仕立て上げようとするだろう。それが「洗脳」である。 〇結社にとって「洗脳」とは、人間を「世界統一支配」という石造建築物を構成する“石材”に加工する工程だと言える。人々を裏権力が扱い易い(予測・操作が容易な)対象に仕立て上げる事。そうすれば物理的な法則にのみ従う石材の動きを計算して建築物を作るように世界支配が出来ると考えているのだろう。 〇パルテノン神殿は大きな地震にも耐え得る耐震構造を備えているそうで、地震で倒壊する事はなかったようである。パルテノン神殿を破壊したのは「人」である。ペルシャとの戦いなどで破壊された。パルテノン神殿の設計者は石材の動きを計算したが、歴史を動かす「人」の動きを予測する事は出来なかった。 〇人を石と同様な予測と操作が容易な対象に“加工”即ち洗脳する事が「世界統一支配」の前提条件だとすれば、「世界統一支配」を阻止するには、個々人がそうした(裏権力にとって)予測と操作が容易な存在にならなければよい。それは「世界統一支配」という“石造建築物”の“石材”にならないという事である。 https://twitter.com/kikuchi_8/status/1741856538153865479 (了) #
by kokusai_seikei
| 2024-03-11 00:04
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〇初めまして。自分なりに考えた解決策を記事に書きました。「両建の認識の浸透」です。また、ヘーゲルは私の論理ではなく裏権力側の論理です。それを客観的・対象的に分析し批判しているのです。昔の日本人がキリシタンを分析・批判した事を南蛮被れと言う様なもので暴論過ぎ。
「初めまして。さて、あなたはいつものように両建論を展開しています。もしそのように裏でグルだとして、あなたはどんな解決策をお持ちでしょうか?私からすれば、ヘーゲルを持ち出している時点で西洋かぶれの域を出ていないかなと思います。」 ※カッコ内は質問者の発言。以下同様。 〇ここも公共の場なので表です。ネットと現実情勢を二元論的に峻別するのは道理に合わないと思います。良くも悪くもネットの情報や言説が現実情勢に影響を与え、逆に政争や戦争などの現実情勢がネット上の論争や情報戦を惹起します。答えるまでもない質問と思われたのでしょう。 「もう一つ質問です。あなたは表では活動しないのでしょうか?ネットの中だけでで吠えていても何も変わりません。ちなみに、あなたの「盟友」であるよーすけさんに同じ質問をしましたが、彼は何も答えませんでした(笑)」 〇陰謀追及では裏権力の思想分析も重要である。その為には「敵」に内在する論理に分け入って、その正体を暴く必要がある。それは「敵」の思想・論理に「被れる」事とは違う。あくまで対象を客観的に観察・分析する事だからである。敵の思想論理に取り込まれ、己の論理にしてしまう事を「被れる」と言う。 〇確かに思想分析は「ミイラ取りがミイラになる」ように分析対象の思想に影響を受け、その論理に取り込まれる危険を伴う。故に取り込まれないだけの耐性が必要である。耐性を身に付けるには自分の中で物事を判断する際の基準を確立しておく事が重要であると思う。個人的には事実と道理を判断基準とする。 〇「敵の思想論理に取り込まれ、己の論理にしてしまう事」の例としては、「猶太批判をしている内にいつの間にか日猶同祖論者になり猶太を選民視するようになる」「NWO批判をしながら『良いNWOもある』と言ってワンワールドを肯定するようになる」といった事が挙げられる。裏権力の援兵になる現象である。 〇「ネットで吠えていても何も変わらない」と言うが、ネットの情報を見ているのはあくまで生身の人間なので、ネット言論は現実情勢への影響はあると思う。だからこそ裏権力側は膨大なコストや人員、AIまで動員してネット言論の締め付けをしているのではないか。ネット言論に力が無いなら放っておくはず。 〇街頭で声を上げる事なども意味があると思うが、そうした行動を主宰する団体・集団・グループは紐が付いている事が多いと思うので、十分な注意が必要である。容易に特定の団体に関り個人情報を取られないようにすべきである。ソロス一味はそうした「制御された反対派」の集団行動を組織するプロである。 〇個人的には集団行動に参加する事よりも純度の高い独立的思考者を増やす事の方が重要だと考えている。自分で物を考え、騙される事のない独立的思考者がいる場所は思想侵略や情報工作が無効化する領域。全国津々浦々にそうした純度の高い独立的思考者がいる事は、日本の最後の抵抗線になると考えている。 〇追及者は団体を作る事にも慎重であるべきと思う。どんなによい目的・考えのもとに集まっても、その団体が目立つようになると、裏権力側が工作員を送り込み、破壊又は乗っ取りを仕掛けてくる可能性が高い。彼らはその手の破壊工作のプロ。素人は太刀打ち出来ない。そういう領域で戦うのは得策ではない。 〇団体は中枢が潰されたら終わりである。素人が団体を作って裏権力に対抗するのは、少数ゲリラが正規軍に野戦を挑むようなものだと思う。その点、どこまでも個である所の純度の高い独立的思考者が全国至る所にいるという状況は(裏権力にとって)厄介なはずである。「中枢」が無い為、潰しようがない。 〇裏権力の本体は「思想」であるという考え方がある。これはその通りであると思う。逆に追及者にとっても、陰謀追及の鍵は「物の考え方」だと言えるのではないか。「両建」という捉え方にしろ、事象を捉える・分析する枠組み・観点が普及する事で、裏権力側が謀略をやりにくくなる状況が作れると考える。 〇それは見解の相違ですね。大東社系左翼など旧来型の政治運動論に固執する人々はその見方に賛同すると思います。しかし、もはやネットと現実情勢を峻別する前提自体が私には時代錯誤のように思えます。現状、政治闘争の主戦場は街頭よりネット空間に移ったと見る事も可能です。 「先の引用RTで述べたことに補足。日本における親パレスチナデモの主催者は到底支持できる連中ではありませんが、それでも外に出て行動している点ではるかにましです。いくら素晴らしいことを言っていてもネットに引きこもってる時点で、「…」となるかな、と。」 〇あなたはあなたの信じる道を行かれたら良いと思います。私はネットで発言するも街頭で活動するも、個々人の自由であり、どちらが「正しい」「価値が上だ」とは思っておりません。ただし、デモ活動等に参加する際には主催団体の背後関係に十分ご注意下さい。 「ご返信有難うございます。この部分ですね。ただ、この程度の認識は私も持ち合わせています。いずれにしても、私はあなた方のようなネットでしか吠えることのできない人間よりも現実世界で行動を起こす人を支持…いや、私自身も何か行動を起こさなければと考えています。」 〇抵抗線という言葉で決して特定の団体に組織化されない独立的思考者が全国津々浦々にいて、それぞれがそれぞれの場で独自の考えに基づき発言したり行動したりする状況をイメージした。身近な人を説得するだけでも立派な行動。誰かの独立的思考の一助になればと思い、自分なりの情報発信をしていくのみ。 〇いつも「自分で考える事が大事」という結論になるが、表現自体は月並みでも非常に大事な事だと思う。「自分で考える」は「自分のいいように恣意的に考える」事でないのは言うまでもない。独立的思考とは何らかの説得的な基準に基いて思考する事だと考える。個人的には「事実」と「道理」を基準とする。 〇「基準」は自分の思考自体とは異なる。基準に則って思考するが、思考自体が「基準」である訳ではない。事実と道理を基準として思考する場合は、その思考が事実や道理そのものなのではない。もしそう考えるなら単なる独善である。少しでも事実や道理に則って思考しようとする姿勢が重要なのだと考える。 〇江戸時代の学問は生き方の真実を「道」として立て、その「道」の探求を最大の目的とした。そうした学問では、思考の基準としての事実や道理を「道」と呼ぶかもしれない。「道」という基準を立てる事で、先人達の独立的思考は独善を免れたと言える。陰謀追及が真実探求の道ならば同様の事が言えよう。 〇特定の対象の思想の論理を分析するには、その対象に内在する思想・論理に即して考察する事が重要だと考える。裏権力(国際秘密力)の思想・教義は日本や東洋の文化圏とは異なる所に淵源があるので、こちらの文化圏の枠組みを当てはめるだけでは不十分である。それどころか実態を誤認する危険性が高い。 〇例えば、東洋の伝統的な政治哲学でいう「王道・覇道」(王覇の別)という概念を用いて、「西洋文明は覇道だ」と言ってみた所で十分な分析とはならないであろう。覇道的な権力者は日本や東洋にもいた訳であるから、「覇道」と言うだけでは地中海オリエント世界に淵源する裏権力の特質を分析出来ない。 〇「東洋王道と西洋覇道の対決」を主張した孫文は基督教徒で、一説ではフリーメイソン又はブナイ・ブリスの会員だったとされる。ブナイ・ブリスは猶太人しか入れない石屋的結社だが、もし事実なら何故孫文が入会出来たのか謎。日本でも単純な東西対抗史観に立つ思想家は裏権力側の援兵が多かったと見る。 〇再度質問ありがとうございます。どうやら私の書き込みは海外の方にも読まれているようで、英語で返信が来たりフォローされたりもします。英語以外にも以前はサウジの人からアラビア語で返信が来て驚きました。翻訳機のお陰か、日本語発信でも自然と海外の方と交流が生じます。 「あと一つお伺いします。せっかくツイッター(Xとは言わない)をやっておられるなら、海外の有志とは連携するおつもりはないのでしょうか?これこそネットの強みだと思いますが。なお、可視化する目的があるので通常の形式はとらずにこのような形でリプライをさせて頂いております。」 〇「独立的思考」とよく書いているが、独立的思考は「孤立的思考」ではない。他の如何なる事物事象とも無関係な「思考」は成り立たない。思考には必ず思考に「対象」があり、他者との対話・会話の中で刺激やヒントを得て思考が磨かれたりする。特に思考と言語は不可分の関係にある。特に国語との関係。 〇人間の思考は言語と密接不可分である。特に国語。生まれてこの方慣れ親しみ、最も身に染み付いた母国語による思考こそが独立的思考の基本になると考える。他の言語を使用する場合にも、最終的に考えをまとめる際には、国語でしっかりと思考する事が重要だと思う。独立的思考は国語の体系と密接不可分。 〇「大和魂」「大和心」などという言葉は「熱狂的な愛国精神」というイメージがあるが、この語に関してそういうイメージが強まったのは江戸後期の平田篤胤以降である。元々は知識・学問に対比される「生活上の知恵」「実践知」というニュアンスの語だった。国語による独立的思考とそれ程意味が遠くない。 〇平安時代には「大和魂」という言葉は「漢才(からざえ、かんさい)」の対概念として用いられていたようだ。当時の最新の知識・学問は大陸から渡って来たので「漢才」と呼ばれた。それに対して、常識や実践知、知識・学問を使いこなす知恵を「大和魂」と呼んだ。近代以降とは大分違う意味合いである。 〇知識・学問に対比する知恵の名称に「大和」という地域の固有性を表す冠が付いているのは、「思考」には必ず使用する個別の言語が影響するという直感が働いたからではあるまいか。勿論単なる想像に過ぎないが。平安時代の「大和魂」は「やまと言葉による思考」と言い換えても当たらずも遠からずと思う。 https://twitter.com/kikuchi_8/status/1731298060268196283 (了) #
by kokusai_seikei
| 2024-03-11 00:00
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〇「東アジア反日武装戦線」による一連の事件は戦後の思想史上も重大な事件だったと見ている。このグループは新左翼とは言っても、マルクス・レーニン主義やアナキズムではなく、「反日亡国論」と呼ばれるイデオロギーに立脚していたからである。赤軍派の梅内恒夫なる人物が八切止夫の歴史観を利用して書いた「共産主義者同盟赤軍派より日帝打倒を志すすべての人々へ」という手記に基いている。マルクス主義から離れて、八切史観の日本原住民論を利用して反日本人的な政治理論を構築した。梅内が八切史観に着目した事は新左翼の中から偽史(古史古伝)やオカルトに関心を持つ者が出る切っ掛けとなった。
〇太田竜(後の太田龍)が梅内恒夫の手記の影響を受けたとされている。特に八切史観に触れた部分。梅内の影響かは分からないが、実際に太田龍氏の本には八切説への言及が多い。このような新左翼から偽史やオカルトにシフトした流れは、今でも陰謀追及界などで一定の思想的影響力を持っていると見ている。 〇陰謀追及界隈では旧大本教系や基督教系の影響が強いが、新左翼系の流れもあるのである。その切っ掛けとなったのが梅内手記であり、反日亡国論である。その理論の影響を受けたグループの一つが件の東アジア反日武装戦線。この辺の系統はあまり注目されないので、参考資料として書いておいた次第である。 〇「このグループ(東アジア反日武装戦線)は新左翼とは言っても、マルクス・レーニン主義やアナキズムではなく」と書いたが、一応アナキズムの一種ではあるので、バクーニン的な典型的な大東社系アナキズムとは異なるという意味である。バクーニンは大東社のHPでメンバーだったと公表されていると記憶。 〇以前「大東社系左翼にはオカルトや神秘思想、偽史、陰謀に関する理論などで重武装した特殊なタイプがいる」という趣旨の事を書いた事がある。この「特殊なタイプ」こそ、このスレッドで述べた「新左翼から偽史やオカルトにシフトした流れ」を主に想定しているのである。大東社系は理性主義・啓蒙主義が基本であるが、前述したように戦後日本には新左翼から偽史・オカルトにシフトした系譜が存在する。このような日本の特殊事情を踏まえて「特殊なタイプ」を想定した訳である。大東社系思想は基本的に非オカルトなので、この手の新左翼系の特殊タイプを「大東社系」と分類してよいかは微妙な所ではある。 https://twitter.com/kikuchi_8/status/1751598702362587141 (了) #
by kokusai_seikei
| 2024-03-10 23:59
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〇久しぶりに自己紹介文を更新しました。よろしくお願いします。
「日本及び日本人の立場からの国際秘密力研究(特定の外国や宗教の立場の言説が多過ぎるので日本人としての主体的な陰謀追及を目指すという意)。日本及び東洋の先哲に学ぶ。戦前陰謀研究の継承と発展。純正愛国者=独立的思考者と定義し、そうあらんと努力したい。陰謀追及とは真実探求の道。「道」(真実)を探求した古来の学問と本質は同じ。」 〇付加した文の解説。「「道」(真実)を探求した古来の学問と本質は同じ」。「古来の学問」とは江戸時代までの学問を指す。儒学・国学・仏学・老荘学その他諸々。荻生徂徠は「道」を「統名」とした。統名とは学問探求の対象の総体を呼ぶ名称という程の意味と解釈。つまり「真実」の総称とも解釈出来る。 〇「陰謀追及とは真実探求の道」。様々な重要事実を調べ分析し世の中のあるべき方向性をも考察する陰謀追及は真実探求の道だという意味。真実=道とすると古来の学問にも通ずると考えた。古来の伝統的学問では「道」は探求すべき真理の名称であると同時に、探求の過程自体をも指す名称として使われた。 〇「「道」(真実)を探求した古来の学問と本質は同じ」と書いた事に対し、「真実を探求するのは近代的学術も同じではないか?」と思う人もいるかもしれない。確かに近代的学術も事実や法則を探求するという点では真実探求の営みだが、いかんせん細分化しているので、トータルな認識に乏しい傾向がある。 〇陰謀追及では個々の事物事象の解明も大切だが、世界の権力構造など物事の全体像を把握する総合知が非常に重要になる。そういう意味で陰謀追及は、蛸壺的に細分化した近代的学術よりも、「道」という「統名」で物事の全体や根本を認識・体得しようとした古来の伝統的学問に性質が近いと考えるのである。 〇個々の分野では一流の専門家が大勢いるのに日本がこの状態なのは、物事の全体像や構造を把握する総合知が普及していないからだと思う。例えば、特定の分野に精通する専門家が惑沈を頻回接種してボロボロになったり、逆に惑沈問題に精通している研究者が特定の勢力(参政党など)に取り込まれたりする。 〇よくない言い方だが「専門馬〇」という言葉がある。これは特定分野には精通していても総合的な思考・判断力に欠ける所がある状態を指すと考える。その点、総合的な思考・判断力を磨く事を重視するのが、昔の「道の学問」だと考える。その点が全体の構図理解が重要な陰謀追及に通じると思うのである。 〇荻生徂徠の定義によれば「道」とは「統名」。統名とは様々な要素を包括する全体を表す名称。したがって「道」の認識は物事をトータルに把握する「総合知」という事になる。陰謀追及では世界の全体像や構造を把握する総合知が重要なので、昔の日本で学ばれていた道の学問をそれに比定した次第である。 〇江戸時代の学問は「事又は気(事実・現象)」と「理(道理・法則)」という枠組みで物事を考察した。これが当時の知の枠組み、今風な表現で「パラダイム」である。その中で「事」を重視する学派(古学・国学など)と「理」を重視する学派(朱子学)があった。そのいずれもが「道」という統名を用いた。 〇江戸時代の学問は総じて「事実(事・気)」と「道理(理)」という2つの基準に沿って物事を考える思考方法を持っていたと見る。この思考方法は物事をシンプルに整理して明晰化するのに役立つと思う。それら事理の総体(事実と道理の全て)に付けられたのが「道」という統名だったのだろうと考察する。 〇「道は統名」と言っても「道」の具体的な内容は一定しておらず、学派や思想家によって様々だった。何を以て自分の「道」とするかは、それぞれの思索や探求に委ねられるという事だろう。また「道はない」説も「道」と呼び得る点で、哲学で「真理はない」という命題も「真理」として主張されるのと似る。 〇江戸期各学派の道の内容 古義学;人道(人倫日用の道) 古文辞学;古聖人が作った制度(礼楽) 宋学;理 国学;真心(まごころ)と日本古来の慣習(古道) 昌益;自然の働きと農耕(直耕) 梅園;条理 仲基;日常倫理(誠の道) 仏学;無分別の智慧とそこに至る道(仏道) 老荘学;自然の道(どう、タオ) ..等 〇江戸時代各学派の「道」の内容は一致しない。そこが良いと思う。中には全くの正反対の場合すらあった。荻生徂徠は聖人が作った制度(礼楽)を「道」としたのに対し、安藤昌益は聖人が作った制度は私のこしらえ事(私法)に過ぎず、天地自然の循環の働きとそれに則った農耕生活(直耕)を「道」とした。 〇各学派の「道」の内容が一定しないという事は、そこに思想や学問・言論の自由、活発な議論・対話・論争がある事を意味する。松平定信による寛政異学の禁というのがあったが、その禁圧の範囲は幕府の官学にしか及ばず、在野の学問は自由だったようだ。同時代の西洋では教会や革命党が思想統制していた。 〇統名としての「道」は決して古語ではなく今でも用いられている。歌道・茶道・華道・香道・剣道など芸術や技芸の体系に「道」と名付けられる。特定の分野を「道」と言い、「その道のプロ」などと表現する。人生の総体を「生きる道」「道を歩む」などと表現し、人生の選択を「道を選ぶ」と言ったりする。 〇西洋では「神」という絶対的概念を立て「神はいる」「いや、神はいない」という風に論点を立てる。共通項が無いため相互の殲滅を狙う二元論的争いになりがちだ。昔の日本では「これが道である」「いや、真の道はこれだ」という風に論点を立てた。「道」という共通の統名の中身を巡る議論は穏和である。 〇西洋では常に「神の有無」が争点になる。江戸の学問では「道の有無」は問題にならず「道の中身」が主な論点となる。江戸の学問から少し離れるが、印度中観派の道は「実体のない道」なので、有無が問題にならない。統名としての「道」も中身が空だからこそ内容を充実させられると言えるかもしれない。 〇西洋の実体論的「神」は常に有無が問題になる。その意味で無神論も西洋の基督教文化の産物である。東洋の「道」は人が「生きる」という事の上に立てられているので、生きるという現実がある以上どんな形であれ「生きる道」はあるのであり、そこで「道の有無」を論じてもしょうがないという事であろう。 (了) #
by kokusai_seikei
| 2024-03-10 23:58
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by 菊池 カテゴリ
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