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ツイートまとめ テーマ:オカルト的狂宴「ハロウィン」について警鐘を鳴らす


【ツイートまとめ テーマ:ハロウィン前後はオカルト犯罪者に要警戒! 】
http://kokuhiken.exblog.jp/26097640/
の続きです。


〇ハロウィン問題と麻薬問題は似ている。麻薬事件では警察は末端の購入者や売人は捕まえるが、流通製造元は放置する。ハロウィンでも末端の暴徒は取り締まるが、儀式殺人などをするオカルト犯罪者は放置・隠蔽する疑い(東京都日野市の事件では自殺として処理)。麻薬もオカルト犯罪も裏権力が関与。

〇ハロウィンは元々はケルト民族の習俗だったのかもしれないが、今や国際秘密力のオカルト犯罪者の狂宴=オルギアとなっているのだろう。一般人向けには単なる乱痴気騒ぎとして喧伝するのは常套手段である。対抗文化・ニューエイジ系のオカルト左翼は「イニシエーション」をエンタメとして普及している。

〇オカルト犯罪者の蛮行も「不発」になれ。それにしても、一般人の盛下がりと裏腹に何故マスゴミはこうも「ハロウィン」を喧伝したがるのか?電通の指示か?【渋谷ハロウィン「不発」にテレビ局も空振り 金曜夜、冷たい雨の中待ちぼうけの人たち】https://www.j-cast.com/2016/10/29282115.html?p=all

電通「戦略」十訓 
1 もっと使わせろ
2 捨てさせろ
3 無駄使いさせろ
4 季節を忘れさせろ
5 贈り物をさせろ
6 組み合わせで買わせろ
7 きっかけを投じろ
8 流行遅れにさせろ
9 気安く買わせろ
10混乱をつくり出せ


この中でも10が一番タヴィストック的である。

〇「電通戦略十訓」は1970年代に打ち出されたそうだが、1~9までは高度経済成長期らしく消費を煽る戦略のようだが、10は異質である。タヴィストックに「社会混乱理論」というのがあるらしい。混乱状況では人は判断能力が低下し操作誘導されやすくなる心理的傾向があるという研究に基づくようだ。

〇今やデフレ推進が蔓延している状況なので、「使わせろ」「モノを買え」戦略の逆で「緊縮・増税しろ」「マネーゲームに金を突っ込め」を喧伝していると言える。しかし「電通戦略十訓」の10は一貫して生きている。次々に新奇な流行を作り出し、人心をかき乱し、麻痺させ、操作・誘導し続けている。

〇ハロウィンなどを流行らせようとするのも、「電通戦略十訓」の10に関係があると分析する。非日常的空間を作り出す事で混乱状況を作り出す。混乱状況では人は思考能力・判断能力が低下し、操作・誘導に脆弱となる。息もつかせず新奇の流行・行事を浴びせ続ける事はこの状況を永続させる事を意味する。

シオンの議定書にある「芸能・スポーツ・クイズを流行らせる」という戦略も同じである。議定書自体は誰が書いたかは不明ながら、この心理操作手法自体は国際秘密力が実際に使用している洗脳技術そのものではなかろうか。人心を酔わせ、麻痺させる一種の阿片である。自律的思考力を奪うのが目的だろう。

〇「洗脳科学」とは基本的に、人の心が持つシンプルな法則を発見し、操作・誘導・支配に応用する技術だと言える。シンプルな法則とはタヴィストックの主要研究者のクルト・レヴィンの研究に基づきソ連の学者が発見した「ツァイガルニク効果」(未完了の課題ほど記憶に残りやすい現象)などである。

〇TV番組などで「次回が見たくなるような中途半端な所で終わらせる」やり方などが「ツァイガルニク効果」の応用である。人間の心理法則を応用して「次を見させる」という誘導目的を達成しているのである。これは心理操作そのもの。「己の意志を強制する技術=魔術」とするなら洗脳科学は魔術と言える。

〇「社会混乱理論」の「混乱」を具体的に言うと感覚的刺激によって心が乱されるという事だろう。つまり眼耳鼻舌身意が色声香味触法に接する事で乱される。逆に「混乱しない」とは感覚的刺激に気を付けて心を乱されない事である。誘導防止には新奇の流行の喧伝は冷ややかに斜めに見るくらいで丁度よい。

〇それにしても「電通戦略十訓」の「〇〇させろ」という部分に彼らの大衆蔑視の態度を見る事が出来る。庶民を心理操作の対象としか見ていない。完全に国際秘密力連中の態度と同質だ。かかる傲慢な姿勢でマスコミを支配し情報操作してきた。電通は東京地検特捜部と両輪をなす国際秘密力の対日侵略の手先。

〇現代資本主義の特徴は供給者がコマーシャリズムを駆使して自ら人々の欲望を作り出す事であろう。「人々が欲しい物」ではなく「欲しい」自体を作り出すのである。電通の「使わせろ」戦略はまさにそれである。分析的に言うと、眼耳鼻舌身意を惹きつける魅惑的な色声香味触法を意図的に作り出す訳である。

〇人は感官(眼根耳根鼻根舌根身根意根)と対象(色声香味触法)の接触が作り出す認識世界(眼識耳識鼻識舌識身識意識)を生きている。人の「世界」とは実質的には認識された世界。対象を作りだすと「認識≒世界」自体を動かす事に。心理操作の危険性を認識論的に分析するとそういう事が言えると思う。

〇「ハロウィン」は過ぎたが、島根女子大生死体遺棄事件で遺体が発見されたのは11月になってからだったので油断はならない。オカルト犯罪への警鐘乱打を継続する。【島根女子大生死体遺棄事件】https://ja.wikipedia.org/wiki/島根女子大生死体遺棄事件

〇オカルト狂宴「ハロウィン」の「トリック オア トリート」はある意味「西洋覇道」の論理を子供風にオブラートに包んだものと言える。西洋覇道の論理を突き詰めると「よこせ。さもなくば死ね」と要約する事が出来る。中南米侵略など西洋が歩んできた歴史を振る変えるならばこの事実が明らかである。

〇儀式殺人に関してハロウィン前から警鐘ツイートを繰り返してきた。儀式殺人を「オカルト犯罪者やその手先が目星をつけた人をさらう→野蛮な儀式を実行」というイメージだけで捉えるのは不十分だと痛感する。ケネディ暗殺がそうだったように、思いもよらない形で公開儀式殺人を起こす場合もありうる。

〇子供がジャングルジムで焼死した事件。「ウィッカーマン」に似ているという指摘がある。ウィッカーマンとは編み細工でできた人形の中に人間や動物を閉じ込めて燃やすドルイド教の供儀である。【ウィッカーマン】https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィッカーマン

〇ハロウィンもウィッカーマンと同じく元々は古代ケルト民族のドルイド教の祭りである。ウィンストン・チャーチルがドルイド教の神官みたいな格好をした者達と一緒にに写っている写真があるが、国際秘密力の連中は古代エジプト宗教、古代ギリシャ密儀宗教などと並びドルイド教にも傾倒している。

https://pbs.twimg.com/media/Cwlv9TJVEAATv2y.jpg

国際秘密力のオカルト思想は様々な要素を混合したごった煮的産物。神智学に端的に現れているように、古代の印度やイランの思想、新プラトン主義グノーシスなど神秘思想、古代エジプト宗教、古代ギリシャ密儀宗教、猶太密教=カバラ、ドルイド教、北欧神話及び宗教など雑多な要素を詰め込んでいる。

〇11月6日にジャングルジムでの子供の焼死事件が起きたが、島根女子大生遺体遺棄事件で遺体が発見されたのも11月6日だった。引用:島根女子大生死体遺棄事件とは、2009年(平成21年)11月6日に発覚した死体遺棄事件である。https://ja.wikipedia.org/wiki/島根女子大生死体遺棄事件

〇秘密力がオカルトに固執する理由を分析。密儀宗教は「支配」に適した構造。密儀集団の「支配」メカニズム①「究極の実在」を設定する②「究極の実在」に至る「狭き道」を設定する③「狭き道」を独占するのが己らだと設定する④究極実在と民衆を仲介する唯一の集団として強固なヒエラルキー支配を完成。

〇「密儀集団」と一般的に書いたが、歴史的な具体例で言うとこれはカトリック教会が権力を獲得した方法そのものである。

〇今年も「ハロウィン」という名の「コスプレ・チンドン屋祭り」が近づいてきた。しかし裏権力の連中にとっては「ハロウィン」は単なる「コスプレチンドン屋フェス」ではなくオカルト的な「狂宴」である。ハロウィン前後は裏権力連中による儀式殺人の類を厳重警戒すべきである。儀式殺人防止月間である。

〇ハロウィン前後は不可解な猟奇的事件や「事故」が起きる事が多いので要警戒。島根女子大生殺害事件(結局真相は解明されず容疑者死亡で終結させられた)、東京都日野市の小学生エクストリーム自殺事件(警察がすぐに自殺と断定)、燃えやすい木製ジャングルジムで遊んでいた子供の死亡事故などである。

〇毎年儀式殺人と疑われる何かしらの事件・事故が起きている。これ以上犠牲者を出さないように警鐘乱打して何も起きない(起こさせない)ようにすべきである。「妄想」で結構である。陰謀計画の先読み暴露と同じで陰謀を阻止する事で「妄想」にすべきである。何も起きずに無事に経過する事が重要である。

〇「ハロウィン=(商業的には)コスプレ・チンドン屋祭り=(裏権力的には)オカルト的狂宴」が終わるまでは「儀式殺人に対する防犯活動」として定期的にRTして参ろうと思います。

〇欧米ではハロウィン前後になると多くの子供が行方不明になっているそうだ。儀式殺人の犠牲になっている可能性がある。このような欧米の闇に巣食う悪習を我が国に絶対に入れてはならない。欧米文化の闇は想像以上に深い。経済効果も上がる楽しいイベントをやりたいならばオカルト絡みである必要はない。

〇裏権力はエジプトやメソポタミア、ギリシャ、ローマ、古代ヨーロッパなど中東以西のあらゆる地域の習俗や宗教を剽窃して混合したグロテスクなオカルト的嗜好を持っていると思われる。その一つが「ハロウィン」。ハロウィンは元々は古代欧州に広く分布したケルト民族が信仰するドルイド教の祭儀だった。

西洋では基督教と悪魔教は表裏一体である。つまり両建である。基督教が「異教」として排斥した要素を悪魔教が取り入れるという構造。だから悪魔主義者が「異教」たるドルイド教のハロウィンで騒いだりする。裏権力や結社の「異教」趣味は必然的に悪魔教という形態を取る。悪魔教は基督教文化圏の産物。

〇基督教と悪魔教は二つで一つの文化として見ないと西洋文化の構造が見えてこない。猶太教がゾロアスター教の善神と悪神の二元論を取り入れて後期猶太教が成立し、これが基督教に繋がる。一神教なので悪神はあり得ないので悪魔とした。この「悪魔」というカテゴリにあらゆる「異教」的要素を放り込んだ。

裏権力が信奉するオカルト思想が分かりにくいのはあらゆる古代の宗教や神秘思想をごちゃ混ぜにしているからである。ハロウィンはドルイド教だが、彼らはドルイド教だけでなくエジプトやメソポタミア、ペルシャ、ギリシャ・ローマなど地中海・オリエントを主としてあらゆる古代思想の影響を受けている。

悪魔教については以前分析した。
https://twitter.com/kikuchi_8/status/844683408764628992


https://twitter.com/kikuchi_8/status/792037110119182336


(了)

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by kokusai_seikei | 2017-10-23 23:03 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:「思考」を思考する


〇「思考」についての注意点。思考は思考作用と思考対象から成るが、この両者は不可分一体である。つまり思考は感覚と同じで必ず「対象」を持つという事。感覚でも思考でも対象を認識すれば何らかの「感情」が生じる。不快な事を考えれば不快になり、愉快な事を考えると愉快になる、というように。

〇好ましい認識対象には「好き」の感情が、好ましくない認識対象には「嫌い」の感情が生じる。この「好き」「嫌い」の感情が持続すると「執着」になる。心が執着に纏わりつかれると明晰で冷静な判断力が失われる。冷静な思考の為には思考が感情を生じさせる機制を自覚して気を付ける事が重要だと考える。

〇思考が人間を悩ませる一面がある。嫌いな人が目の前にいなくてもあれこれ嫌いな人間の事を考えて不快になるなど。不快な対象をわざわざ思い浮かべてあれこれ悩むのは自縄自縛である。なんらかの対象を認識したら感情が生じるというメカニズムを自覚すれば自縄自縛が緩和し思考が明晰化すると思われる。

〇「無相」とは「対象が無い事」であり、「無想」とは「対象を思い浮かべる表象作用がない事」である。つまり神秘的な用語ではなく認識論的な用語と言える。対象を認識すると感情が生じるので、対象を認識した所で止めて(過剰な)感情を生じさせないように気を付ける。これで明晰な思考の条件が整う。

〇無相=対象が無い事。無想=対象を思い浮かべる表象作用がない事。確かに論理的に言って何も対象がなければ感情も生じないので平静である。だが思考する以上必ず思考対象を伴う。よって冷静な思考の為には無相や無想より「対象認識に止めて感情を生じさせないように気を付ける」事の方が重要であろう。

〇「無相」で言う「相」とは「認識対象」の意である。たとえば唯識では認識対象=客観を「相分」とし、認識主体=主観を「見分」として両者は一体(見分・相分は自体分=自証分から分かれたとする)とする。同じく主観客観を一体と考える廣松哲学で言うと「所与・所識」成態が唯識の「相分」に相当する。

〇対象を認識すると「好き」「嫌い」の感情が出る(勿論好きでも嫌いでもない対象もある)→「好き」「嫌い」の感情が持続すると「執着」になる→その結果、対象認識が歪められる→歪められた認識対象によってさらに執着が増す→さらに対象認識を歪める、という悪循環。これでは到底冷静な分析は不可能。

〇陰謀追及においても分析対象に対する好悪がもろに出て認識を歪めている場合が多々あると思われる。根底に義憤を秘めながらも対象を正確に認識した上で冷静な分析をする事が本当の意味で強力な追及になると考える。事実に基づいた冷静な分析であれば言い逃れもできないし否定しようもないからである。

〇感情を無くしてしまう事はできないので、分析の際にはできるだけ感情に自覚的である事が重要であろう。自覚的であるとは感情をカッコに入れて第三者的に見る事=対象化する事。対象化できている分感情に飲み込まれてはおらず、その分だけ冷静という事になる。感情の滅尽ではなく統御又は調整である。

〇同じ「感情」と言っても世の為人の為を思う公共心に基づく義憤と個人的なルサンチマンでは全く異なる。後者は対象認識を歪める原因になるが、前者は陰謀追及に欠かせない原動力である。ただ「正義」という観念に固執し過ぎると排他独善的になって逆に不正義に転じる危険性もある。やはり中庸が必要。

〇己の心を適切に調整・統御する事で感情の豊かさと思考の冷静さのバランスを保つ。ここでもやはり中道(道に中る(あたる)=適切)・中庸(常に偏らず中正な事)が必要である。
「以前「破両建の極意は中道」と書いたが、そもそも東洋における「中道」又は「中庸」の本来の意味とは。中道とは「道に中る(あたる)=適切」の意。中庸は「中」と「庸」に分けられる。「中」は「偏らない」という意味で「庸」は「常」「平常」という意味である。つまり「中庸=常に偏らない事」の意。」
https://twitter.com/kikuchi_8/status/915261437592793088

〇西洋の合理主義思想では感情を軽視又は無視して理性だけを働かせる事を「合理的」とするが、人間の感情を無視して尊厳を踏みにじるような事は到底「合理的」とは言えない。イルミニズムなどに見られる理性主義は往々にしてそういう道を辿る。合理とは理に合致する事。理には「道理」が含まれるべきだ。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/917038719659470848


(了)

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by kokusai_seikei | 2017-10-15 09:27 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:「中道」「中庸」についての考察。※「武士道」についても


〇以前「破両建の極意は中道」と書いたが、そもそも東洋における「中道」又は「中庸」の本来の意味とは。中道とは「道に中る(あたる)=適切」の意。中庸は「中」と「庸」に分けられる。「中」は「偏らない」という意味で「庸」は「常」「平常」という意味である。つまり「中庸=常に偏らない事」の意。

〇中道とは「偏りなく、こだわらず、適切な行為を為す事」だとすれば無執着の実践と同義。無執着は生存への執着(有愛)と生存の断滅への執着(無有愛)を共に断つ事なので虚無にあらずしてまさに中道。「常住死身」で為す事を為すという古武士の生き様はまさにこれであろう。「死の賛美」などではない。

〇「武士道とは死ぬ事と見つけたり」は「死の賛美」などではなく「生死に囚われず為すべき事を為す」という意味だと思われる。原始仏教では死への願望は「無有愛」(虚無への執着)として否定される。江戸時代に儒学的な「士道」が成立する前の「武士道」は戦場を往来した武士の死生観そのものであった。

〇巷でよく語れる「武士道」は「士道」である場合が多い。新渡戸稲造の「武士道」もその類である。戦国武士道は生々しい武士の生き様そのもの。そもそも「武士道」なる語の文献的初出は甲陽軍鑑のようである。甲陽軍鑑は武田家の遺臣で兵学者であった小幡景憲が編纂した武田家の事績を記した書物である。

〇甲陽軍鑑が「武士道」という言葉の初出という事は「武士道」という言葉は戦乱の時代から平和な時代への過渡期に成立した事を意味する。つまり戦国武士の生き様を戦のない時代に伝える言葉だったと言える。「武士道」を持て囃す立場もくさす立場もあるが、かかる成立の由来を踏まえていない議論が殆ど。

〇「武士道」を新渡戸稲造の解釈で理解するのは偏っている。一方、フリーメイソンでクェーカー教徒の新渡戸の著「武士道」があまりにも有名になり過ぎた為に「武士道」なる語自体を明治以後の捏造とするのも誤解である。他の日本の精神文化と同じで「武士道」も憑依型戦術を受けたと考えるべきであろう。

〇「中道」から「武士道」に話が飛んでしまった。次に「中庸」について。中庸は先に述べたように、「常に」「偏らない」という意味だと解釈できる。人間の心は波があるので時にはバランスを崩して偏ってしまいがちである。だからこそ儒学では「常に偏らない事=中庸」を最高の徳と考えたのだろう。

〇中道は「道に中る=適切である」だが、中庸は「中=偏らない」に加え「庸=常に」という時間的意味合いを含むのが特徴である。常日頃偏らず適正な判断を下す事の重要性を教えている。このように中道・中庸は両建を破する極意にもなり得る。両建に嵌る事は「偏り」「適切ではない」状態だからである。

〇中道は縁起=関係的成立とも同義とされる。これを陰謀追及に応用すると中道とは「両建の背後関係を見抜き、事態の本質を適切に判断する事」と定義できる。例えば右派と左派があるとして、その背後関係(背後の関係性=縁起)を見抜き全体の構図の中で各派閥がどのような位置を占めているかを把握する。

〇明治以後西洋に改竄された文化を無条件に礼賛する立場もそれを奇貨として日本文化を全否定する立場も偏っている。この両者は両建。ある文化が成立するに至った因果関係・原因条件関係(縁起)を冷静に辿っていくと公正な見方=中道に到達すると考える。即ち縁起=中道である。偏りのない中庸。無執着。

〇中道とは理論的認識では「因果関係・原因条件関係を辿る事」であり、実践的認識では「執着しない事」だと言える。総合すれば「適正適切に判断し行動する事」である。中庸は「常に偏らない判断を下す事」である。何が適切かはその時々の状況に依る。固定したドグマの如き固執を持たない事が重要である。

「AかBか」というあらゆる二元相対論は突き詰めると「有か無か」の対立である。しかるに「縁起=自性(実体)が無いから有ではなく、他に依って有るから無ではない=非有非無=中道」。つまり有無の対立は縁起=中道という見方で解消する。縁起や中道とはあくまで「ものの見方」に関わる概念である。

あらゆる二元相対論の根底にある「有か無か」の対立論は中道によって解消する。これを応用すれば「右翼か左翼か」「猶太か耶蘇か」「安倍一味か小泉一派か」などのあらゆる両建的対立論も両者が形成された歴史的な因縁(縁起)を分析し解明すると解消すると思われる。中道というものの見方は役に立つ。

〇両建戦術も弁証法戦略も西洋の知の枠組みで考え出されたものなので西洋の知的枠組みの中にいてはこれを相対化し超克する事はできない。我々日本人は本来西洋の圏外にいるのだから、日本や東洋の伝統知を参考にするのがよいと考える。「中道」「中庸」「縁起」などは非常に役に立つものの見方である。

〇縁起・中道などの概念は知覚経験及び知覚経験に基づく推理によって認識された領域即ち「現象」のみに妥当する。それを超えた領域(が仮にあるとして)については判断停止=無記が無難。断定できる事は断定し断定できない事は断定しない。物事の探求に際してはこの着実な経験主義的な姿勢が重要と思う。

〇東洋の合理思想を抽出した哲学者・末木剛博氏が言うように「縁起」「空」という概念はあくまで述語であって主語にはならない。主語にする事は実体化するという事である。現実に存在する現象を主語とし、その主語に関する述語として「縁起」「空」等の「理」が語られる。ここが西洋思想との違いである。

〇東洋思想で語られる「理」(法則)は西洋で「ゴッド」「一者」「イデア」「自我」「理性」「物質」等々の語で語られる形而上学的存在ではなく、現実の現象に即した「あり方」を意味する。東洋的思考では事(現象)から離れた理(法則)は存在し得ないと考える。朱子学ですら理は気=現象を離れない。

〇東洋における経験主義は例えば南方仏教の「無我相経」という経典に典型的に表れている。この中で仏陀は「全ての存在は無常である」という証明抜きの形而上学的な説き方はしない。認識し得る色・受・想・行・識(五蘊=人間存在の構成要素)の一々について「常か無常か」と着実に確認していくのである。

〇「我々日本人は本来西洋の圏外にいるのだから」と書いたが、西洋文明の源泉は地中海・オリエント世界である。地中海沿岸地域及び中近東を指す。地中海・オリエント的思考の枠組みからも離れて俯瞰する必要があると思う。石屋の憧れ「偉大なる東方=グラントリアン」とは地中海・オリエントの事である。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/915261437592793088


(了)

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by kokusai_seikei | 2017-10-06 00:17 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)