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ツイートまとめ テーマ:オウム関連と日本国内偽旗テロ策動に要警戒

〇ぱよぱよ事件、新潟の新聞記者暴言事件と続き、もはや横文字左翼の季節は終わったと言える。今後注目すべきは、日本国内のテロ人脈の動向である。日本社会の統制強化とネオコン戦争参加へと誘導する為の偽旗テロを要警戒である。オウムの残党やその周辺のカルト・裏社会人脈の動きを注視すべきである。

オウム残党や元オウム関係者の動きには注視が必要である。【頻繁にトルコへ渡航する元オウム「上祐史浩」はISに興味があるのか〈週刊新潮〉】http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20151125-00010001-shincho-soci

ドミトリー・シガチョフというロシアのオウム信者が麻原奪還の対日テロ計画を企て、未遂に終わった事件がある。ロシアで2000年起算の懲役8年の判決であるから、とっくに出所しているはずである。こういう人脈に要注意である。【シガチョフ事件】https://ja.wikipedia.org/wiki/シガチョフ事件

〇またオウム関連ニュース。17年間も逃亡していて「無罪」判決というのも違和感がある。逃亡を手助けしたネットワークについても気になる。【菊地被告に逆転無罪、釈放=「テロ計画認識なし」―オウム都庁爆発物事件・東京高裁】http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151127-00000061-jij-soci

オウム真理教についての印象付けが続く。ところで菊地直子は手配書と顔が変わりすぎていた。「菊地に似ている女性を見かけた」という通報によって逮捕されたそうだが、通報者は人相や骨格に関する知見に通じているのだろうか。全然似ていない気がするのだが。オウム関連の事象は不可解な事が多すぎる。

〇(安倍偽総理は)「テロ情報収集組織創設」とか言っているが、暗殺された議員が、某新興宗教のメンバーがオウム信者にすり替わったと発言しているのに、それを検証し突っ込んで捜査できないばかりか、売国政治家がその新興宗教の影響下にある現状を放置したままではそのような情報機関がまともに機能するはずもない。

〇アブバクル・バグダディと「友人」であるジョン・マケインと仲が良い安倍偽首相は「IS首領」とは「友達の友達」の関係となる。こういうマッチポンプ両建構造を暴き出して、この構造自体を破壊するのが真の「テロとの戦い」である。テロリストと傀儡政治屋は同じ胴体から生えている双頭の鷲である。

〇オウムも売国政治屋も背後に新興宗教の影がある。マケインとバグダディが近しく、イスラエル軍の大佐がISテロリスト部隊を指揮していたりするのと同じマッチポンプ構造が我が国にもあると思われる。大きな事件を起こすテロ集団の背後には常に権力の影がある。オウムの背後を注視すべきである。

〇オウム関連ニュースが出る時は要注意だと言われているが、同感である。何かを準備しており、「オウムがやった。それみたことか。さあ、共謀罪作るぞ!」という流れを作り出す手始めとしてのオウムの「印象付け」という気がしてならない。巷のニュースで「オウムネタ」が続くときは要注意である。

〇裏の連中が日本国内で偽旗をやるとしたら、ISよりオウムの方が日本人にとってはインパクトが強い。しかも、「ISと連携したオウム」という設定をすれば、フランス同時多発テロの衝撃が加味され恐怖の心理的効果は倍増する。このあたりの動きを今一番危惧している。

〇ただし表向き「イスラム原理主義」という設定のISと仏教を騙る、神智学の霊性進化論に影響されたグノーシス主義的なごった煮カルトのオウムが連携しているという設定をしたとしてもマルクス・レーニン主義という共通項がある日本赤軍とPFLPの連携とは違い無理な設定だということは指摘しておく。

https://twitter.com/kikuchi_8/status/669898656615497728
https://twitter.com/kikuchi_8/status/670615014051573761

(了)

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by kokusai_seikei | 2015-11-30 22:30 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

唯識哲学について

個人的に興味を持って勉強している「唯識」哲学について少しまとめて置こうと思う。

唯識の要点は三つに分けられる様だ。それは、

①唯識(ただ識=認識のみ)

②阿頼耶識説(深層心理の発見)

③三性説(遍計所執性・依他起性・円成実性)


まず①

「唯識」とは文字通り「ただ識=認識のみ」という意味である。
これは世界は実体的な事物の集積で成り立っているのではなく、
全て心=認識作用が現し出したある種表象に過ぎないという主張である。

これは元々は華厳経にある「三界唯心」思想に根拠がある。
(「三界虚妄、但是心作。十二縁分、是皆依心
」華厳経十地品より
そこを根拠に大乗仏教の瑜伽行者が瞑想の中で感得した体験を元に(瑜伽行唯識派)、
説一切有部などが体系づけていた「アビダルマ=法、教説、存在の分析」(論蔵)
の学問を応用して「性」(法則、理法)と「相」(現象の姿)を秩序付ける
「性相学」または「法相学」と呼ばれる大乗仏教独自の「アビダルマ」を形成した。
この全体を唯識学と呼ぶようだ。

※部派仏教の説一切有部では「存在」の要素=法を分析して、五位七十五法に分類した。
「自我」などは存在せず、もろもろの事物を構成するこの「法」のみが存在するとしたから、
説一切「有」部と言われる。
唯識では五位百法を立てた。唯識は中観を経た大乗なので説一切有部とは違い、
最終的にはこの五位百法は全て「空」とする。

唯識で言う「心」は心王(しんのう)心所(しんじょ)に分けられる。
これはもともとは部派仏教のアビダルマでなされていた考えを受け継いだものである。
心王とは心の本体のことである(もちろん本体と言ってもアートマンのような実体ではなく、
刹那滅のもの=空・無我である)。
心王は眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の八つがある。これを「八識心王」という。

心所とは心王に付随する心作用のことである。これは遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定
の六つのカテゴリに分類され、全部で51ある。感情や意志、判断、記憶等、心の状態や機能
をまとめたものと言える。例えば遍行の心所の「受」は感受作用を表し、「想」は感性の多様を
まとめる知性、あるいは表象作用を表す。また同じく遍行の心所の「思」は意思を表し、
この思の如何によって心が善になったり悪になったりするとされる。
具体的には善の心所を伴えば心全体の状態が善となり、煩悩・随煩悩の心所が起これば悪となる。
ただし、阿頼耶識と末那識は常に無記であり、これらそのものが善悪に色づけされる事は無い。
もっと細かく言えば、阿頼耶識は「無覆無記」(むぶくむき)で、
末那識は「有覆無記」(うぶくむき)である。
(無覆無記とは無記でありかつ悟りを妨げる心所も伴わないこと。
有覆無記とは無記であるが、悟りを妨げる「我癡・我見・我慢・我愛」という四つの心所を伴うこと。
我癡とは無我の道理に無知であること。我見とは常住の自我を想定すること。
我慢とは想定された自我を誇り驕る事。我愛とは自我に執着すること。
これら四つは心全体を善悪に規定する程強力ではないが、悟りを妨げる作用を
及ぼすとされる。)

前五識(五感)と意識は性質として善・悪・無記に渡る。例えば、意識は善の心所を伴えば善となり、
煩悩の心所を伴えば悪となり、善の心所も煩悩の心所も伴わなければ無記となる。
唯識ではこの心王・心所の複雑に縁起する関係性の全体を「心」と捉えている。
(だから「依他起性」と言う。後述)

以上述べた心王心所の考えは心全体を心そのものと心の機能や状態に分けて分析した捉え方だと言えるであろう。
上手く整理されている。茫漠とした「心」全体のイメージが整理整頓される。



さて唯識というと、どうしても観念論とイメージされやすいが、西洋の観念論との決定的な
違いがある。西洋の観念論では「精神」を実体視するが、唯識では「識」は刹那滅の流れの
ような相続体(常に転ずること暴流の如し「唯識三十頌 」)であり、無自性で空なるものであると考える。

したがって、「ただ識のみ」と言っても「ただ精神という実体だけがある」という意味ではない。
唯識は「空」の哲学を説いた中観派を踏まえたところに出てきた哲学であるので、
当然「空」の思想が大前提となっている。
「識」とは実体ではない、縁起による流れのようなもの
とされる(だから「依他起性」と呼ばれる)。

この唯識の考え方は、「心内の影像を心外の実境と捉えるな」と戒められるように、
知覚にしろ表象にしろ思考にしろ、認識作用と認識対象は一体であるから、認識対象は
決して心から隔絶された「外界」にあるものではないから、認識対象を外部化(たとえば「物自体」
のように)させて、それに執着してはならない、という実践的な教えが中心となるが、
認識論として捉えても面白いと思う。
http://www.pon.black/page.cgi?kouitsu+ext12


認識論として唯識を捉えた場合、西洋で言えば、観念論というより、主客二元論を否定した経験批判論
「意識は常に何ものかについての意識である」(仏教の認識論でいうと見分と相分が不二ということで
こんなことは東洋人にとって古来より至極当たり前のことである)
という「志向性」という概念を唱えた現象学など
20世紀前後に出てきた哲学にわりかし近い感じがしている。
(ただし、現象学の「本質直観」のように西洋思想はやはりどこまでも実体の観念を
伴いがちなので実体=自性を徹底的に排除する仏教哲学とは根本的に相違する)。
特に我が国の哲学者で言うと、西田幾多郎、大森荘蔵、廣松渉などに唯識に近い発想が見られると思う。
西田幾多郎は、W・ジェームズの影響と禅の体験によって「精神と物質が分化する以前の純粋経験
を説いたが、これは唯識で言う「自証分が分化して見分=主観と相分=客観に分かれる」という
考えに似ている(自証分とは主客が分かれる以前の心の本体。本体と言っても実体的なもの
ではない。さらに「証自証分」を立て、全部で心を四つの部分に分ける。「四分説」である。
先述の心王と心所の全てがそれぞれに四分されるとする。)

※ウィキペディアから引用:
四分(しぶん)とは、唯識の中でも法相宗が伝えている学説で説かれたもので、元来、前三分であったものに護法が「証自証分」を付け加えて四分としたものである。心(しん)と心所(しんじょ)に四つの局面があることを説明している。

相分(そうぶん) - 客観的側面
見分(けんぶん) - 主観的側面
自証分(じしょうぶん) - 自らが対象を認識していることを自覚する側面
証自証分(しょうじしょうぶん) - 自証分のはたらきを、さらに自覚する側面

四分と申し候は相分・見分・自証分・証自証分也。眼識にもこの四分あり、五十一の心所にもこの如し。〔唯識大意〕
https://ja.wikipedia.org/wiki/四分




つまり、西洋の近代哲学の様に、認識を「主観と客観の合致」として二元論的には
捉えないのである。逆に、人間にとって原基的に与えられる場としての「意識」「現象」
に定位する立場である。
この原基的な場を「純粋経験」と呼ぶのが西田だが、廣松渉は「現相世界
(廣松は西田と違って、あらゆる概念的色付けを離れた「純粋な所与」「純粋経験」
のようなものは否定するが。「所与を所識として認識する対象の二肢的二重性」)、
大森荘蔵は「対象自体」(対象そのもの)と「表象」(心に現れた像)を区別する二元論を
否定
する(立ち現われ一元論)。
つまり、この三者は、唯識と同じように、認識を「主観」「客観」という実体的な
認識主体と認識対象の一致としては説かず、人間にとって原基的な「意識」という場に定位して
認識がどのように成立するかを考えていく立場
である。
ここが非常に唯識と近い発想だと思うのである。

吾人は廣松哲学については以前以下の様に書いた。

廣松渉の「事的世界観」を自分が理解した範囲で述べる。主観と客観がそれ自体でまず存在し、それから認識関係に入る、というより「所与が所識として能識としての能知に対してある」という関係性(縁起)があり、その関係の「項」として主観や客観が存在し、独存はしていない。この関係を「事」と呼ぶ。実体としての物=モノの集積として世界を捉えるのではなく、モノに関係性が先立ち、関係性を待って「項」たるモノが規定されてくる四肢的構造連関として世界を捉えるわけである。

廣松渉四肢的構造連関「所与が所識として能識としての能知に対してある」について。感性で捉えた所与(視覚や触覚等)に知性で言葉を当てはめることで概念的に認識(所識)。そして知性(場合によっては感性も)はその認識主体(能知)が属する文化共同体のあり方で規定(能識:例 日本語を使う主体)この「所与が所識として能識としての能知に対してある」を具体的に「私はリンゴを見る」という事で言うと。知覚的に現前する赤い、ざらざらした、まるいそれ(所与)を、日本語の名詞「リンゴ」(所識)として、日本語を使用する主体(能識)として自己形成を遂げている、特定の誰某(能知)が認識する。となると思う。

事的世界観とは、「実体に関係が先立つ」という世界観である。言い替えると縁起的世界観である。「実体に関係が先立つ」と言っても時間的に関係が実体に先立つというより、関係の項である「実体」(モノ)は、関係無くしては存立しえない、という不可避の構造を指している。関係=事の基底性の指摘。

仏教学者の竹村牧男氏の華厳仏教の解説で「仏教は事的世界観」という言葉が出てきて妙に心に残った。世界を実体的な「物」の集まりではなく、縁起的・関係的に成立する「事」の世界と捉える世界観である。西洋の実体思想に対置される。その後ズバリ「事的世界観」を掲げる廣松哲学を知り興味を持った。廣松哲学の四肢的構造連関は主観と客観が其々二肢に分かれていて、しかも相互に連関し其々の「項」は関係的に成立し、独存していない、という縁起的な世界観である。現相世界(現象世界)は全て四肢的構造連関において成立する総世界的連関体である、というのは華厳の重々無尽の縁起思想に酷似する。

唯識哲学と廣松哲学の対比。①見分と相分からなる識≒其々二肢的な主観と客観の「項」からなる現相世界。②見分も相分も依他起(縁起)なもの≒主観も客観も四肢的構造連関の「項」としてのみ存在し独存しない。③見分及び相分を実体と見るのは遍計所執性≒「項」を「実体」と見るのは「物象化的錯視」④見分(主観)も相分(客観)も「自体分(識の本体という意味だが「実体」ではない」が分かれたもの≒能所(主観と客観)の渾然一体性。➄全ては阿頼耶識に依る≒認識は「世界が世界を認識する」総世界的連関体。類似点と思う部分を思い付くまま挙げてみたが➄は現代人的には廣松の方が説得的だろう。

「世界が世界を認識する」総世界的連関体、を補足。例えば脳が機能するには人体のみならず外部環境から栄養素を取り入れないといけないように、蛇口から水が出るには水道システムが総体として機能していないといけないように、一つの認識が成立する為には、総世界的な連関システムが機能するという意。この廣松哲学の、「世界が世界を認識する」総世界的連関体、という考え方が非常に華厳的だと思った。「無限の縁起的関係性」を説く華厳思想と、認識の「総世界的連関体」を指摘する廣松哲学は、かなり酷似しているのではないか?と感じる。縁起・無自性・空が基本の華厳と実体概念の破棄を唱える廣松哲学。


廣松渉は政治思想的にはマルキストで新左翼のイデオローグなので、吾人の立場とは
まるで正反対、水と油なのであるが、その哲学に関しては、関係主義的・縁起的世界観
共感する部分があった。「依他起」とか仏教哲学用語を普通に使う廣松渉はあきらかに
仏教哲学の影響を受けているのが分かる。廣松渉の哲学はマルクスの物象化論の延長と
されているが、個人的には仏教哲学の現代的精緻化として捉えている。
仏教哲学、特に中観派の空の哲学の影響を抜きにしては、単にマルクスの延長では
あの哲学はひねり出せないのではないだろうか。
そう言う観点で廣松哲学を参考にするのも面白いと思う。
元々は、仏教学者の竹村牧男氏が「仏教とは事的世界観」と書いておられたのを見て、
なんとなく心に響くものがあり、「事的世界観」を説く廣松渉哲学にも興味を持った、
という次第であった。実際少し勉強してみると、「四肢的構造連関」という認識論が
まさに縁起的な世界観であるのを知った。また「現相世界
(超越的自我や物自体のような形而上学的実体ではない、認識主体に現れた経験世界。現象世界)
に定位して、その構造を関係主義的に分析する姿勢が唯識に通じる面があると思う。

われわれにおいては“主観・客観”関係は世界内的な関係であって、もはや近世的「主観‐客観」図式が要求するごとき transzendental な関係ではない――ということが即ちそれである。われわれが問題にするのは、あくまでフェノメナルな世界の世界内的な構造聯関、もっぱらこれのみである。
(「世界の共同主観的存在構造」より引用)
※廣松渉は独得な漢語的表現とドイツ語を交えた特異な文体なので最初面喰う。
「フェノメナルな世界」とは「現象世界」のこと。現象世界から超越した自我や物自体
についてはいわば「無記」の姿勢で臨むということ。ここでは、主観と客観をそれぞれ独立の実体
と見なす二元論を破棄し、主客が相互に連関する現象世界=経験世界内で成立する認識の機構
をもっぱら問題にすると言っていると思われる。

※廣松哲学については以下のサイトに非常に簡潔で優れたまとめが引用してある。
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2007-04-15


廣松哲学についてやや長くなったが、とにかく唯識哲学は認識論としても非常に面白いと思う。
西洋の主客二元論を超える発想を秘めている。


次に②の「阿頼耶識説」について述べる。

阿頼耶識とは、五感=前五識=眼識・耳識・鼻識・舌識・身識 と
第六意識(主に言葉を伴った認識を担う)の根底となる深層心理のことである。

この説も元々は大乗仏教の瑜伽行者の体験が元になっているらしい。
近代で現れたフロイトやユングの深層心理学のはるか以前の古代インドにおいて
既に深層心理が発見されていたのが興味深い。

この阿頼耶識の阿頼耶とはサンスクリット「アーラヤ」(
ālaya)の音写で、
「蔵」という意味である。
何を納める蔵かと言えば、人間が、考え、話し、行動(身・口・意)した時に生ずる影響力の
残滓=種子を蓄える貯蔵庫のようなものとされる。

人間が何かを、心の中で考え、言葉を使って話し、身体を使って行動する、
その影響力が阿頼耶識=深層心理に蓄えられる(現行熏種子

そして一端蓄えられた影響力は、阿頼耶識中で刹那滅しつつも相続する(種子生種子=種子の非実体性=空)。
そして蓄えられた影響力の残滓は機縁を得て新たな行動として表面化する(種子生現行)。
行動し、行動力の影響力が深層心理に残り、その影響力がしかるべき機縁を得てまた行動となる。
人間存在をこのサイクルとして捉える。
これが「阿頼耶識縁起説」である。

現行熏種子・種子生種子種子生現行のサイクル=阿頼耶識縁起

これが阿頼耶識説の要諦である。要するに、行動とはその場限りのものではなく、
確実に深層心理に影響を残すから、一瞬一瞬の「こころ・言葉・行動」のあり方に
気をつけよ、という実践哲学
と言える。
一瞬一瞬の行動が善であれば、それだけ阿頼耶識を清め、
一瞬一瞬の行動が悪であれば、それだけ阿頼耶識を汚す。

だから常に自分の表層意識に気を付けて、自らの行動を戒めていかなければならない、
そういう趣旨のようである。


これは全く神秘なところは無い、ごくごく良識的で理に適った教えという気がする。
体験的にも、日ごろ思っていたり、繰り返している行動が咄嗟の場合にも無意識に
出てきたりする。一瞬一瞬になされた行動の積み重ねが自分自身の人格を形成していき、
良くも悪くもなるのは確かだと思う。気を付けたいものである。

これは陰謀追及の視点からも応用できる。「洗脳」の問題である。
洗脳とは基本的に潜在意識をターゲットになされる。
それは単に言葉による刷り込みだけではなく、映像や音楽を使った刷り込みなど
媒体は多岐にわたる。食物や薬物による味覚を通じた刷り込みも洗脳の一種と言えるだろう。

こう考えると、洗脳は潜在意識をターゲットにするとは言うものの、
潜在意識を支配する為には、「五感」という「関所」を通らねばならないことに
気付く。さらに五感のみならず、五感と共に働いたり、五感と無関係に働いたりする、
表象作用や思考作用など仏教の認識論で言う「第六意識」も潜在意識に至る「関所」である。
(五感と共に働く意識を「五倶の意識」、五感と無関係に働く意識を「独頭の意識」と呼ぶ)

つまり、潜在意識への支配を防止するには、五感と思考(前五識と第六意識)を通じて
入ってくる情報に常に気を付けておくことが重要
になってくると思われる。
見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり、考えたりしたことの影響力が
もれなく潜在意識に影響を受け付けるのだとしたら、潜在意識を汚され、支配されない
ためには、常に六識のあり方に気を付けることがシンプルだが着実な道だと思われる。
(古来これを「六根清浄」と言った。「六根清浄」は現代においては洗脳防止の指針に
なりうる標語であると思う)

最古の仏典スッタニパータから引用する。


1034 「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎ守るものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いてください。」

1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」


「気をつけること」と言われると「なんだ、そんなことか」と思われるかもしれないが、
このシンプルな戒めこそ、「煩悩克服」のみならず、「洗脳防止」のための普遍的な
指針であり、金言に思えるのである。参考にしてまいりたい。
確かに、一瞬一瞬気を付けていれば、刷り込み洗脳の侵入する余地はない。
とはいえ、無意識の内に誘導してくるのが洗脳のプロなので、
なかなか難しいことだが、指針として心がける事が重要であると思う。
現代人は常に心理戦の脅威にさらされているという事を忘れるべきではない。

ちなみにだが、この唯識で言う阿頼耶識と、フロイトの深層心理学でいう「無意識」、
ユングの分析心理学でいう「集合的無意識」の違いについて述べておく。

まずフロイト心理学の「無意識」との違い。
フロイト心理学でいう「無意識」とは、理性とは対立する、抑圧された欲望が渦巻く
何か衝動的なカオスとして捉えられている。
多少語弊があると思うが、どちらかと言えば理性の力で制圧・制御されるべき「悪」として規定される。

一方、唯識の「阿頼耶識」は、そのような善と悪という価値からは中立な「無記」の性質とされる。
善行を行なえば善の種子が、悪行を行なえば悪の種子が植えつけられ、その植えつけられた
種子の性質に応じて清められたり、汚れたりする、とされる。
しかし、阿頼耶識そのものは善でも悪(不善)でもない無記性なのである。
阿頼耶識がもし善ならば、人間は善しか行わないから、悪を行なうことは無いはずである。
(従って、仏になろうと修行努力する必要が無くなる。)
阿頼耶識がもし悪ならば、人間は悪しか行わず、善を行なうことは不可能である。
(従って、いくら修行しても仏になることはできないから無駄な努力という事になる。)
このいずれも人間のあり方と矛盾する。人間は善も行えば、悪も行うからだ。
心の根底である阿頼耶識を「無記性」と規定するからこそ、善を行ない、悪を避ける
倫理的実践の根拠が得られると考えるのである。これは大変理に適っていると思う。

フロイトの理論には、フロイト自身の心の病理や、
フロイトが主に診療した患者が(恐らくキリスト教的モラルに
よって)性的抑圧を強いられていた19世紀末のオーストリア社会
の上流階級の女性だったことが影響を与えている、という趣旨の解説を
読んだ記憶がある。この説明が正しいとすると、理論構築の原点に
特殊な文脈が存在するのかもしれない。
その点を差し引くとフロイトの理論は必ずしも普遍妥当的とは
言えないように思う(もっとも「理論」というのは皆そういうものであるが)。

唯識の理論からすれば「性的抑圧」なるものは、「現行熏種子」の
一つに過ぎず、たとえば、性的抑圧以外の権力欲や名誉欲、
金銭欲あるいは暴力衝動、闘争心などが強く、その欲望を抑圧している人だったら、
フロイトが診療した患者とは別の説明が可能かもしれない。
抑圧と言っても必ず表層意識によって繰り返しなされたことが
深層心理に影響を与える(現行熏種子)わけだから、
常なる表層意識のあり方如何によって深層心理のあり方も決定される、
という唯識の考えの方が、なんでもかんでも性的抑圧で一元的に説く
ように見えるフロイト理論よりも合理的に見える。人間の中に渦巻く
「欲望」というのは多様なのである。唯識はそれを冷静に観察している。
(ちなみに唯識では、六つの根本煩悩との二十の随煩悩を数えている)

次にユング心理学の「集合的無意識」との違い。
ユングは個々の人間の心理の根底に人類全体に共通する「集合的無意識」があるとする。
これは人類という種レベルの一つの根底的無意識の想定である。
一種の形而上学と言えるだろう。

唯識の「阿頼耶識」はこれとは異なる。「人人唯識」と言って、あくまでも阿頼耶識は
個人個人の深層心理であって、個人を超えた共通の無意識のようなものとは性質が
異なる。個人個人のなした心の働き・言葉の働き・身体の働きの影響力を留めるのが
阿頼耶識とされているから、当然、阿頼耶識は個人単位のものなのだ。

そもそも「集合的無意識」は「個人的無意識」とは違う、人類共通の「元型」が備わっている
という想定だが、これは五感には対象を感受する能力が人類に普遍的に備わっているし、
意識には表象能力や判断能力が備わっているわけであるから、これらも「人類に共通」と言える。
(どの民族にとっても聴覚は「聞く」機能を持ち、民族によって言語は様々あれど
言語能力が備わっていること自体は共通している)
従って、集合的無意識というのを敢えて立てなくても、人間の意識現象には「人類に共通」の
形式が備わっていると言える。だが、現象としてはあくまでも個々別々の意識現象である。
何が「共通」なのかと言えば、あり方、法則、機能といういわば「理」が共通なのである。
事=現象理=法則であり、理においては共通でも事においてはあくまでも個別なのである。
これは華厳の四法界説を取り上げた時に言及した。
集合的無意識という「人類に共通の無意識」を立てる発想は、事と理の峻別をせず、
理の同と事の異が同時に成立する事を見誤ったがゆえにたてられた説だと考える。
かりに「集合的無意識」のようなものがあったとしても、「人類に共通」というのはあくまでも
他の五感や表層意識と同じように「理」においてであって、「事」においてはあくまでも個別のものだろう。
(例えば、母なるものをふっくらした土偶でイメージしたり、父なるものを老賢者でイメージする傾向。
そのような「理」としては共通性があったとしても、実際にイメージしたり、潜在的イメージを
保持したりするのはあくまでも個々の意識・無意識=事である。
もっとも実際にはこのようなイメージは文化的な文脈に依存すると思われる。
ある人間が生まれた文化共同体によって繰り返し刷込まれた共同主観的イメージ。
これもまた「現行熏種子」の機制と言えるかもしれない)
そうでないと、形而上学的実体としての「一者」を立てる新プラトン主義のような形而上学説になる。
理の共通性に過ぎないものを事の共通性とはき違えるとオカルトになる。


以上、唯識とフロイト、ユングの違いについて若干述べた。
吾人が見るところ、性的抑圧で一元的に説くところがあるフロイトや、
形而上学的な集合的無意識を説くユング(グノーシス思想や錬金術などオカルトも研究)より、
阿頼耶識=深層心理を善でも悪でもない無記性のものとし、
阿頼耶識はあくまで個人単位とする唯識の方が合理的に見える。



唯識では阿頼耶識に加え「末那識」という深層心理も設定する。
末那とはサンスクリット語「manas」の音訳。
考える、思量するという意味。「考える」「思量する」働きは
第六意識と同じなので、区別する為に音訳して「末那識」と表記されたようだ。
だが第六意識と第七末那識では「思量する」対象が違う。
末那識は意識のようにあらゆる事物を対象(広縁の意識)とはせず、
ひたすら阿頼耶識の流れのみをアートマン=自我のような実体として
誤認し執着する意識下の作用である。
表層の意識でも言葉を使った実体視が行なわれるが、こちらは睡眠時など
途切れがある。
しかし、末那識の方は途切れが無く、常に阿頼耶識を実体視して執着しつづける
とされる。これを「恒審思量」(ごうしんしりょう。常に審らかに思量する。
末那識は別名思量識と言われる。意識も思量する作用を持つが、
末那識の場合はそれが無意識に行われ、その対象も阿頼耶識に
限られる点が異なる)などと言われる。


以上八識について説明したが、唯識で言う「悟り」とは、この八識が全て智慧に転換すること
を意味するようだ。「四智説」である。
つまり、前五識は「成所作智」(じょうしょさち)に、
第六意識は「妙観察智」(みょうかんざっち)に、
末那識は「平等性智」(びょうどうしょうち)に、
阿頼耶識は「大円鏡智」(だいえんきょうち)に、
それぞれ転換する事が唯識における「悟り」とされる。
これを「転識得智」(てんじきとくち)と言う。
成所作智とは、自他のためになすべきことをなす智慧。
妙観察智とは、物事の本質を見抜く智慧。
平等性智とは、阿頼耶識を誤って実体視せず、我執が消え、全てを平等と見る智慧。
大円鏡智とは、我執(主体への執着)・法執(客体への執着)、
煩悩障(心の情的汚れ)・所知障(心の知的汚れ)ともに
完全に煩悩が断絶され、心が根底から極まり、全てを鏡のようにありのままに映し出す智慧。


最後に③の三性説(さんしょうせつ)。

これは要するに世界をどのように認識するか、という「モノの見方」を三つに分類した
理論である。
「三性」とは、遍計所執性・依他起性・円成実性
(へんげしょしゅうしょう・えたきしょう・えんじょうじっしょう)
これらは三つの別々の世界があるという意味ではない。
あくまで認識主体から見て、世界がどう見えているのか?という
認識の問題であり、これらは相互に別々の世界を言っているのではない。

まず遍計所執性だが、これは、言葉によって分別され、分節化された
バラバラのモノの集積で世界が成り立っているという見方である。
つまり、「空」を知らず、実体(自性)を持った個々別々の事物から
世界が構成されているという見方である。以前、華厳哲学に関して述べた
「事法界」に相当する。http://kokuhiken.exblog.jp/24907349/
要するに、言葉に馴染む内に自然と身に付けたごくごく日常的な世界の見方
である。
個々の事物が実体視されているので、そこに貪欲や怒りなどの執着が生じる
ことになる。唯識では事物を実体視することを「心内の影像を心外の実境とする」
などと言われる。つまり、認識された表象に過ぎないものを心から離れた
外界の客観的実体とするからそこに執着が生まれる、という考え方である
(認識論としては先述の大森荘蔵の対象と表象を分けない「立ち現われ一元論」
という考えに近いと思う)
これを唯識では凡夫の迷える境涯とする。

次は依他起性。依他起とは文字通り「他に依って起こる」という意味。
つまり、「縁起」ということである。
先述の遍計所執性も後述の円成実性も、この「依他起性」を基盤としている。
縁起する世界が全ての基盤なのである。唯識では依他起性を「識」とする。
阿頼耶識という深層意識と六識という表層意識が、相互に因となり果となって
「現行熏種子・種子生現行」というサイクルを展開する「阿頼耶識縁起」
というあり方をする「識」である。

最後に円成実性。これは依他起性の上に於いて遍計所執性がないことを意味する。
縁起する世界をありのままに見て、その上に実体などの形而上学的な
妄想をしないことである。つまり、縁起=空というありのままの現象の姿を見るという
ことである(支那や日本では古来「諸法の実相」などと表現する)。
縁起する現象世界を誤って実体視した認識が「遍計所執性」であり、
縁起する現象世界を縁起・無自性・空であるとありのままにとらえるのを
「円成実性」という
のである。


この三性説に対して、「三無性」説も説かれる。
三無性とは「相無性」「生無性」「勝義無性」のことである。
これは遍計所執性・依他起性・円成実性を「無自性」の視点により裏側から述べたものである。
遍計所執性とは事物を誤って実体と錯認した見方なので、実体としては相=姿が「無」とされる(相無性)。
「他に依って起こる」(依他起性)から、それ自体で生ずることはないから
「生無性」(龍樹の中論の冒頭の「八不」に「不生不滅」とある。不生とは単に生じないという
ことではなく「それ自体としては生じない」という意味で「空」と同義。
空を悟ることを「無生法忍」などと言われる。
江戸時代前期の名僧・盤珪の「不生禅」はここからくる)とされる。
円成実性とは究極の真理としての無自性=空だから「勝義無性」。
三性説が誤って「有」と誤解されるのを防ぐ為に、無自性の視点から
さらに念入りに説明したものと言える。
唯識も畢竟するところ「空」の立場が根底にあるのである。


以上、唯識哲学の自分なりのまとめである。

唯識は実践哲学としても認識論としてもかなり参考になると思った。
章炳麟が「実証分析的且つ理論的である点が考証学に通ずる」と言った
のは分からなくはない(わが国で言うと考証学は実証的な国学や古学
に言い替える事が出来る)。
唯識の論理性実証性を参考にすれば、色々と応用ができそうな気がする。

陰謀追及上では、上記取り上げた「洗脳防止策」の為に応用できそうである。
吾人の思想哲学に接する際の基本スタンスだが、唯識においても、あくまで
参考の為の「理論モデル」「世界観モデル」として捉えている。
また、唯識自身、「唯識無境」(ただ識の作用のみであり、実体的外界はない)
から「境識倶泯」(主体も客体も実体ではない「人法二空」)へと、
最終的には自らの理論すら超えていくことを想定しているようだ。
(境識倶泯という言葉を見ると、初期大乗の二大学派・中観派と唯識派は
最終的に同じところを目指しているのだなと思った。)

仏教の理論とはどこまでも川を渡る為の「筏」とされる。
川を渡り終えれば執着せず、捨てられるべきものだと。
吾人は吾人なりの立場から、この東洋の遺産を参考にさせて頂き、
活用していこうと思っている(たとえば、洗脳対策の理論的座学としても捉えている)。

(了)

参考文献 「やさしい唯識―心の秘密を解く」横山紘一著

「唯識 こころの哲学―唯識三十頌を読む」多川俊映著





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by kokusai_seikei | 2015-11-26 07:18 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(1)

フランス同時多発テロについて

フランスで同時多発テロが勃発した(フランス時間13日、日本時間14日)。

勃発からさほど時間が経たぬうちにフランス大統領は「ISの犯行」と断定。

まだまだ犯人も特定されておらず、被害の全容すら分からない時点でである。

これは、2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロの直後に、当時の

ジョージ・ブッシュ大統領が「アルカイダの犯行」とすぐさま断定したのに似ている。

そもそも、この時点では、FBIすらアルカイダの犯行とは断定していなかった。
(FBIの重要指名手配犯リストの中で、ビン・ラディンの容疑に911事件が入っていなかった
のはある程度知られた話である)

この911が起きる1年ほど前に「アメリカ新世紀プロジェクト(Project for the New American Century, PNAC)

というネオコン系のシンクタンクが、アメリカの安全保障政策の転換を訴える

アメリカ防衛再建計画」を発表しているが、その中で、

アメリカの防衛体制は新しい真珠湾攻撃のような破滅的な出来事抜きには、その再建のプロセスは長期間を要するものになるであろう

と指摘している。

つまり、アメリカにおけるネオコン的軍事改革のためには、なんらかのショックを与える出来事

が不可欠という認識を示しているのである。

そして、その後911同時多発テロ事件が勃発した。

ネオコンはその911事件を最大限に利用し、自らの「安全保障」政策を実行していった。
(吾人はネオコンをトロツキー主義の流れを引く極左と断じ、「ネオコン革命戦争」と呼んでいる)
ネオコンは左翼であるという記事を以前書いた。
〇ネオコンの左翼思想的特質①進歩史観(フランシス・フクヤマのヘーゲル的「歴史の終わり」思想)②グローバリズム=無国境主義③全世界を「アメリカ化」するまで終わらない「永久革命」論④武力革命論➄前衛エリート主義(シンクタンクの知的エリートが主導)⑥理性崇拝を根底とする設計的合理主義。



今回のフランスの事件を見ると、経過が非常に911と似ているように思う。

①警察の捜査も被害状況の把握も完了していない段階で首脳が特定のテロ組織の犯行と断定

②それを理由に、大統領権限の強化や非常事態宣言期間の延長など権力強化を実行する
(米国においては愛国者法など国民の統制と監視の強化がなされた)

③戦争遂行を正当化する
(米国は911を理由にアフガン戦争、イラク戦争へと突き進んだ)


何から何まで911事件後のアメリカの動きとそっくりなのである。

まるで同じプロットを使いまわしているかのようだ。

支配層が、権力を強化したり、戦争を実行する場合、

それを正当化し、大衆を納得させる「口実」が必要となる。

「テロ」はまさにその「口実」としてうってつけなのである。
(人心を誘導するために人為的に何らかの社会状況を作ることは「
社会工学
と呼ばれたりする。一部でテロやクーデターなどの隠語として使われている)

フランス大統領のテロ後の一連の対応を見て、今回の同時多発テロ事件は、


例によって「偽旗作戦」の可能性が極めて高いと判断する。

※偽旗作戦とは、以下引用。

偽旗作戦(にせはたさくせん、False flag)は、あたかも他の存在によって実施されているように見せかける、政府、法人、あるいはその他の団体が行う秘密作戦である。 平たく言えば、敵になりすまして行動し、結果を敵になすりつける行為である。 名称は自国以外の国旗、つまり偽の国旗を掲げて敵方を欺くという軍の構想に由来する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/偽旗作戦


※ちなみに、ISと米国が繋がっていることは普通に報道されている。

例えば、以下。

Startling revelations: IS operative confesses to getting funds via US

イスラム国リーダー「米国から財政支援を受けた」

衝撃の暴露 「イスラム国」はアメリカを経由して資金調達(トリビューン紙)


このようにISが米国から資金調達をしていることが報道されている。

報道したパキスタンのトリビューン紙はパキスタンではどちらかというと

リベラルで、欧米寄りのスタンスのようだから、敢えて書いているということ

は事実そのままだからだろう。そう判断する。


次のような動画がある。隊列を組んで移動中のISの自動車部隊を
米軍の戦闘ヘリが攻撃もせずに周辺を飛んでいるのである。



↑米軍とISは「敵対」しているはずなのに、米軍の戦闘ヘリはISの隊列を全く攻撃していない。
米軍とISは実は「仲間」だということの傍証である。





また、アメリカのタカ派の上院議員、ジョン・マケインと、ISのボスのアブバクル・バグダディと

思われる人物がにこやかに一緒に写真に収まっている。

c0253564_04155389.jpg

シリアのアサド政権転覆工作を担う反政府勢力を訪問した時のものらしい。






↑どういう意図かは分からないが、ISの背後関係に言及する元総理秘書官。


ネオコン勢力にとって「テロリスト」とは、

①「敵役」として戦争を引き起こし、正当化する「口実」として

②敵対する国家を転覆させる「コマ」として

二重に必要不可欠である。

例えば、あのオサマ・ビンラディンは、

1980年代のソ連のアフガン侵攻時に、アメリカCIAの支援を受け対ソ連戦を

アメリカのコマとして戦い、

911以後のアメリカの「対テロ戦争」においては、「敵役」として戦争を

正当化する口実となった。

そのビンラディンだが、2001年911事件の前にドバイのアメリカン病院に入院中、

CIAの支局長が見舞いに訪れた、とフランスのフィガロ紙が報道している。

引用【ビンラディン氏、昨年ドバイのアメリカン病院に入院?〔朝日新聞〕】「31日付仏フィガロ紙は、オサマ・ビンラディン氏が今年7月、アラブ首長国連邦のドバイにあるアメリカン病院に入院していたと報じた。同氏はその場で米中央情報局(CIA)のスタッフと接触していた可能性もあるという。AFP電によると、病院側は報道を否定した。
同紙や仏ラジオが病院関係筋の話として伝えたところでは、同氏は7月4日、主治医や看護士、側近のエジプト人アイマン・ザワヒリ氏に似た男性らとともに、パキスタンからドバイに到着。腎臓結石を専門とする医師の診察を受け、14日まで入院した。
病室をサウジアラビアからの訪問者ら多数が見舞った。アラブ首長国連邦駐在のCIA代表者もいたという。
同氏が腎臓病を患っているとの情報は以前からあり、同紙によると、96~98年に治療のため何度もドバイを訪れた。同氏については米国を敵視する以前の80年代、CIAとの密接な関係が取りざたされていた。

http://www.asyura.com/sora/war4/msg/148.html

まあ、そういう関係である。

そして、ビンラディンは2011年「暗殺」されて「水葬」されたことになっている。

「世界のテロの元凶」とされる最重要容疑者を司法解剖もせずに「水葬」とは。

これでは、米国支配中枢の「自己申告」であり、

本当に「暗殺作戦」があり、ビン・ラディンが死亡したのか、誰にも分からないではないか。

こんな「ゴッコ」みたいな話で国際政治が営まれている。



今回のフランス同時多発テロ事件は、偽旗だとすると、杜撰さが目立つ。

例えば、ISが「犯行声明」において、言及したテロ実行犯の人数とテロの現場と

実際の人数と場所とでズレがあったことである。

以下引用。

パリ同時多発テロを巡り、過激派組織「イスラム国」(IS)が出した犯行声明は、パリの10区、11区とともに「18区」で襲撃を実行したと主張した。だが実際の現場は、10、11両区と近郊のサンドニだった。サンドニと18区は隣接している。また、声明は襲撃犯の人数を当初報道されていたのと同じ「8人」としたが、犯行声明が出た後に会見した仏捜査当局は14日、7人だったと発表した。」(毎日新聞 11月15日(日)19時49分配信より)
<パリ同時多発テロ>IS犯行声明に微妙な間違い?



何たる杜撰。欧米側の雇主と十分にすり合わせができていなかったのだろうか?


「いや、欧州と中東では離れているので、本拠地と現場で意思疎通に齟齬がでたのだ」

という反論もありうるが、その程度の指揮系統しか持たない組織にあのような

同時多発的で組織的なプロの犯行が可能なのだろうか。

ろくに指揮系統もできていないテロ組織が、「シャルリーエブド事件」後、

警備が強化されているパリの街であのような大規模なテロを起こせるとは思えない。

やはり、「偽旗」の可能性が高いと判断する。



(了)





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by kokusai_seikei | 2015-11-19 00:08 | 陰謀解析 | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:フランス同時多発テロと鹿児島の地震関連「誤報」について

〇フランスで同時多発テロが勃発した。オランド大統領は警察の捜査も完了しておらず、犠牲者の総数もはっきりと分からない段階で早々に「ISの犯行」と明言。これは、911同時多発テロの時に、FBIすらアルカイダの犯行と断定していない時にいち早くアルカイダの犯行と断定したブッシュを思い出す。

〇米国がISを支援していることは既に公然の秘密。「ISの犯行」というなら仏蘭西大統領は米国にも抗議すべきだが、中東で米国と一緒に自演戦争を行なっている一味だからするわけがない。と言っても一般のアメリカ人やフランス人は蚊帳の外であり、犠牲者である。常に犯罪者は一部の権力支配層である。

〇911に鑑みるに、フランス大統領がテロ事件の全体状況が明らかになっていない時点で早々と「ISの犯行」と断定したことは、テロを口実に戦争を正当化する狙いである可能性が高い。最近ロシアによるIS討伐とISの正体暴露により劣勢に立たされていた欧米側による偽旗反撃作戦の可能性がある。

〇米軍戦闘ヘリは目の前にいるISの隊列を攻撃しなかったことが暴露されている。しかも、「間違って」物資を投下。米国がISの捜査とは泥棒が泥棒の捜査をするのと同じ。中東での戦争を正当化する茶番。【オバマ米大統領、仏当局の捜査への支援を表明】http://www.yomiuri.co.jp/world/20151114-OYT1T50135.html?from=ycont_navr_os

〇オバマはフランス同時多発テロを受けた声明で「人類全体に対する攻撃」と言っている。911テロの後に「文明VS野蛮」の戦い、という枠組みを設定して、「対テロ戦争」を強行していったあの口吻にそっくりである。惑わされないようにするべきである。ISを使って対シリア攻撃やってきたのは米国!

〇仏大統領は「今回のテロはジハード主義を掲げる過激派組織ISによる戦争行為だ」と述べた。「戦争行為」と強調する事で中東でのフランスの戦争行為を正当化する狙いがあると分析する。ISを本気で潰そうとしているロシアの妨害しかしない仏大統領が言うと「自演戦争やります」宣言にしか見えない。

〇何が「Pray for Japan」だ。日本人を、人間を舐めるのも大概にしろと言いたい。「人工地震未遂とフライング誤報」に一票だ。911同時多発テロの時に「第七ビルが崩壊しました!」とリポーターが叫んでいるのに背後の第七ビルは崩壊していなかった、というのは有名な話。「社会工学」。

〇「PrayForJapan」と言われて「日本を気にかけてくれているんだな。ありがとう!」というお花畑脳でやり過ごせる時代ではなくなった。物事を深く考える事をせず、表層的に受け取ってフワフワ喜んでみたりするお花畑脳のままでは時に戦争マッチポンプの捏造という犯罪に加担する事にもなる。

〇お花畑的に「世界に平和を」と叫ぶより、犯罪者が戦争を惹起する具体的手口を暴いてきっちり犯罪者共を糾弾する方が真に平和につながる道ではないだろうか。戦争製造業者が身動き取れない衆人環視状況を作っていくのである。それでも犯罪者共は動いているが、もう911の時のようには世界を騙せない。

〇ISの隊列を攻撃せず周辺を飛んでいる米軍戦闘ヘリ→【United States Apache attack helicopter following behind ISIS convoy into Syria from Iraq.】http://www.liveleak.com/view?i=fd7_1447058458

〇「PrayForJapan」というタグが欧米圏で出回って、有名なミュージシャンなどを中心に「日本へのメッセージ」が発信せられたと。これは「日本での災害で18000人の犠牲者が出た」という「デマ報道」が原因とされているが、未遂に終わり段取りを間違えた「フライング」の可能性。

〇フライングだとしたら、災害テロを諦めていない可能性あり。厳重の上にも厳重警戒すべきである。悲劇を繰り返してはならない。こういう警鐘が「陰謀論者の妄言」に終わる事が一番幸せなことである。そうならなければならない。公然と指摘すれば、それだけ謀略はやりにくくなる。だから書いておく。

〇前にも書いたが占い師の「予言」と陰謀追及者の「先読み」の違いは、前者が「予言」を当てることが目的であるのに対し、後者は事前暴露して阻止する=読みを外すことを目指す点である。「予言」を全部外す=阻止する為に事前に裏権力の狙いを先読みして公然と指摘するのが陰謀追及者の先読みである。

〇仮説:「巨大地震が日本の西南地方の沿岸を襲った」という新聞記事も事前に用意していて、地震発生後、有名アーティストらに「PrayForJapan」タグで一斉にメッセージを発信させる手はずでいたが地震テロが未遂に終わり、段取り違いで「メッセージ」だけが流されてしまった、という可能性。

〇また段取りミスか?→引用:
パリ同時多発テロを巡り、過激派組織「イスラム国」(IS)が出した犯行声明は、パリの10区、11区とともに「18区」で襲撃を実行したと主張した。だが実際の現場は、10、11両区と近郊のサンドニだった。サンドニと18区は隣接している。また、声明は襲撃犯の人数を当初報道されていたのと同じ「8人」としたが、犯行声明が出た後に会見した仏捜査当局は14日、7人だったと発表した。<パリ同時多発テロ>IS犯行声明に微妙な間違い?

〇最近の「社会工学」は杜撰だ。ISが出した「犯行声明」での犯人の人数及びテロが起きた場所が実際のものとズレがあったらしい。どんどんボロが出る。欧米の雇主ときっちりすり合わせしていなかったのだろうか?間抜けで最低下劣の連中だが笑う訳にはいかない。人間の命はこの連中のおもちゃではない!

〇「テロリストあるある」タグを「お気楽な日本人」みたいに言う人がいるが、このようなタグが自然発生的に出てくることは日本人の叡智を表していると思う。つまり、戦争が作られるプロセスを江戸川柳のような批判精神で暴き出し、無意味な戦争勃発を阻止せんとする軽やかだが強固な義憤の発露である。
#テロリストあるある

以下おまけ。

現場がどのような状況でも必ず身分証やパスポートが見つかる。

テロリストの親玉の遺体が何故か「水葬」される。

〇米国のタカ派の議員や諜報機関の高官が訪ねて来たり、見舞いに来たり、にこやかに写真に収まったりする。

(了)

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by kokusai_seikei | 2015-11-17 07:27 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

「日支闘争計画」について

中国が南シナ海に人工島を造成し、米軍が「航行の自由作戦」
と称してイージス艦を派遣するなど最近、南シナ海がキナ臭い。
EUも中国の海洋進出に「懸念」を表明し、米国の「航行の自由作戦」に「支持」を表明。
資源を海外からの輸入に頼る我が国にとっては確かにシーレーンの安全確保は
他人事ではない問題ではある。

だが、これは単なる防衛問題として単純に捉えるだけでよいかと
いうと疑問がある。
それというのも、共産中国がここまで軍事大国化してこれたのは、
欧米やイスラエルによる、武器供与などの「支援」があったからである。

EUは表向きは中国への武器輸出を禁じているようだが、フランスやイギリスは
部品輸出やライセンス生産という形で事実上中国に軍備移転してきたようだ。

引用「1989年以降、中国への武器禁輸措置をとる欧州連合(EU)が部品輸出やライセンス生産などの形で軍備移転を続け、EUから中国への軍事関連物資の調達額が2010年までの10年間で約35億ユーロ(約4900億円)によることが27日、ストックホルム国際平和研究所のデータなどで分かった。http://www.kamiura.com/whatsnew/continues_2690.html

中東においても対シリア工作でフランスやイギリスはアメリカと行動を共にしてきた。
シリアでもウクライナでも軍事的な動きにおいてこの三国は常に歩調を合わせている。
その三国がある場面では武器を中国に供給し、別のある場面では「対立」を演じている
訳である。


特に驚くのがイスラエルが長年中国に武器を供給してきたという事実である。
「米国の最大の同盟国であるイスラエルが、米国の最大級の仮想敵国である
中国に武器を供給するわけがない」と思われるかもしれないが、
この事は、外務省の公表された資料にも明記されている事実である。

以下外務省の公表資料より引用。

(ニ) シャロン首相よりは、我が国との頻繁な接触への期待が表明された。町村大臣よりシャロン首相の訪日招請を行い、イスラエル側より小泉総理のイスラエル訪問要請があり、今後、外交ルートで調整していくこととなった。その他、二国間関係に係る幅広い議論を行い、二国間の関係強化で合意。大臣よりイスラエルの東アジア地域への武器輸出をやめるよう申し入れ国連改革では先方より日本は安保理常任理事国メンバーの資格ありと発言。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/g_machimura/rip_05/i_p_gh.html
(まだこの時期は小泉従米売国政権でさえ、外相がたとえ形式上でも
イスラエルにモノ申したのは、「日本・イスラエル共同宣言」なる
準軍事同盟をイスラエルと結んだ安倍より、対イスラエル外交について
は幾分かはマシであったのかと複雑な気持ちになる)

ここで言う「東アジア地域」とはもちろん中国のことである。


イスラエルと中国の武器取引については、日本の新聞でもわずかだが報道されている。
中国、イスラエルから先端兵器技術入手 米が警戒強める


また他の資料を引用する。ネオコンと対立する米国のリアリスト学派の
国際政治学者、スティーヴン・ウォルトとジョン・J・ミアシャイマーが
イスラエルロビーに関して書いた研究書に記されている情報である。
イスラエルは米国の軍事技術を中国に移転していたというのである。

以下引用
イスラエルの戦略的価値を疑う最後の理由は、イスラエルが忠実な同盟国としては行動していないことにある。イスラエルの当局者は米国の要求を頻繁に無視し約束を破る(住宅建設を止めるとかパレスチナ人の指導者の暗殺を差し控えるという約束を含む)。イスラエルは細心の注意を払うべき軍事技術を中国のような米国の潜在的な対抗者に供与してきた。国務省の査察官はそれを「体系的で増大傾向にある、公的に承認されない供与」と呼ぶ。また、会計検査院によれば、イスラエルは「米国の全ての同盟国の中で米国に対し最も活発なスパイ活動を行って」いる。1980年代初めに多量の機密物質をイスラエルに与えたジョナサン=ポラードの例(それは伝えられる所ではソ連のユダヤ人の出国ビザの増加の引き替えにソ連に譲渡された)に加え、2004年には米国国防省の重要な担当者であるラリー=フランクリンが機密情報をイスラエルの外交官に渡したことが明らかになって新たな物議をかもした。イスラエルは米国に対して諜報活動を行う唯一の国であり、自国の重要な後援者に対し諜報活動を行う意欲はその戦略的価値により深い疑いを投げかける。

http://www.asyura2.com/0601/war79/msg/701.html

米国の敵に武器を売るだけではない。イスラエルは米国の技術を
第三国に密かに移転してきた。それには中国のような米国の潜在的敵対者
も含まれている。これは米国の法律を侵害し、米国の利益を脅かす行為
である。

(「イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策[1]」より引用)
http://www.amazon.co.jp/イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策-1-ジョン・J・ミアシャイマー/dp/4062140098

また、ケネディ暗殺事件の真相追及をし、「ケネディ暗殺はイスラエル諜報機関の犯行」と結論付け、
ケネディとユダヤの秘密戦争」(原題「final judgment」)という本を書いた
米人ジャーナリストのマイケル・コリンズ・パイパーは、同書の中でイスラエル
と中国による核兵器の共同開発について指摘している。
http://www.amazon.co.jp/ケネディとユダヤの秘密戦争-発掘-アメリカの嘘-マイケル・コリンズ・パイパー/dp/4880861979
パイパーの説によれば、ケネディ暗殺の要因は、イスラエルの核開発をめぐるケネディと
当時のイスラエル首相ダビッド・ベングリオンの確執にあったそうだ。
あくまでも核兵器保有にこだわるベングリオンとそれを阻止してイスラエルに圧力を加える
ケネディとの暗闘が暗殺事件の要因になったとパイパーは書いている。
そして、ケネディによって核保有を抑止されたイスラエルは中国と組んで核兵器開発に乗り出したと。
説得力のある説だと思う。
この説が正しければ、共産中国の核武装にもイスラエルが関与していることになる。
ケネディとユダヤの秘密戦争」第8章「イスラエルと共産中国の秘密の核兵器同盟」より)
パイパーは最近亡くなったそうだ。暗殺されたのではと言われている。
http://www.veteranstoday.com/2015/06/03/did-israel-assassinate-michael-collins-piper/



さて、このようなイスラエルの米国側における最大の理解者、というより一心同体
と言っていい仲間がネオコン勢力である。よく知られているように、
そのネオコンが米国の強硬な外交政策を推進している。
そして、表向きは反中タカ派であり親台湾派でもある。先年の香港雨傘デモでは、
デモ隊のスポンサーである香港のメディア王・実業家のジミー・ライという人物が
ネオコンの大物、ポール・ウィルフォウィッツと密会していたことが報じられている。
https://zh-tw.facebook.com/permalink.php?story_fbid=681885738526629&id=189673034414571
https://twitter.com/kikuchi_8/status/658280647383846912
(リンク先は先日までは見る事が出来たが今は何故か見られなくなっている)


そのような表向き熱心な「反中派」であるはずのネオコンと一心同体の関係
にあるイスラエルが長年に渡り、中国に軍事機密を流したり、武器を売ったり
してきたのである。これはネオコンと一体の右派リクード党政権時代も当然含んで
いる。現に2005年当時の町村外相はリクードのシャロン首相に武器輸出を
止めるよう要請している事は前述の外務省の資料にある通りである。
「中国共産党にシンパシーを持つ左派政権だけが支援してきた」ということはない。
右派シオニスト政権含めた、イスラエルの一貫した政策である。
(もっとも近代シオニズムの理論を最初に創始した人物こそが社会主義者である
モーゼス・ヘスだったのであるが。近代シオニズムはマルクスと肩を並べて
第一インターナショナルに参加した社会主義者が考えた理論なのである。思想的に
言ってもシオニストが中国共産党を支援しても特に違和感は無い)
https://ja.wikipedia.org/wiki/モーゼス・ヘス

ネオコンが本気で「反中」なら、この時点でシオニストやイスラエルとは縁を切る
はずだが、そうはなっていない。一方、ネオコンはCSISなどシンクタンクを拠点に、
ジャパンハンドラーズを通じて日本の親米勢力をコントロールしている。

奇妙なことに、同じ「仲間」の内、米国のネオコン勢力は、日本の親米勢力を操作し、
イスラエルは中国に軍事協力を継続してきたのである。しかも昨年にはイスラエルは
日本に「日本・イスラエル共同宣言」という準軍事同盟を結ばせた。
(非常な重大事であるにも関わらずほとんど報道がなされなかった)
一方では中国に軍事協力し、一方では日本と準軍事同盟を結ぶ。
中国に武器を売りながら、
日本とイスラエルでの兵器の共同開発の話も出ている。
これを「両建戦術」と言わずして何というか!と思う次第である。

両建戦術と言えば興味深い話がある。
国際政治アナリストの伊藤貫氏がイラン・イラク戦争時に「アメリカはイラクを支援し、
イスラエルはイランを支援していることを知って驚き、そのことについてイスラエルロビーに近い
猶太人に「それでは戦争がいつまでも終わらないではないか」と質したそうである。
そうしたらその人物は「それが我々の目的だ」と言ったとの事。
イラクとイランが争い続けた方がイスラエルにとっての利益になると。
「両建戦術」というのは単なる陰謀話ではない。現実に国際政治における謀略戦で実際に
使われている戦術なのである。以下の動画を参考にしていただきたい(イラン・イラク戦争の
くだりは10:50あたりから)。



イラン・イラク戦争においてアメリカはイラクを支援し、イスラエルはイランを支援した。
現今の日中紛争・日中対立もこれと同じ構造があるのではないか?と思えてならない
のである。安倍一味以下、日本の親米保守・統一協会系右翼の背後にはネオコンがおり、
中国共産党の背後にはイスラエルがいるからだ。



ここでどうしても思い浮かぶのが戦前からの陰謀追及者・渡部悌治先生が伝えられた
「日支闘争計画」である。これは渡部悌治先生の御著書「ユダヤは日本に何をしたか」
(私家版タイトル「攘夷の流れ」)に以下のように伝えられている。

西紀一九一八(大正七)年九月一七日、モスクワにおいてイルミナティ(ユダヤとボリシェビーキとの合同)会議が開かれた。そして「イルミナティの荘厳な会議において、一五名の会員、国民ソヴィエトの五委員、全連盟共産党中央委員会の秘書一名が署名して交付するもの」という「日支闘争計画案」を含む文書が交付された。この文書には、「一九一八年八月中旬、イルミナティ大会は、ユダヤ世界最高会議より発せられた教書を受領した。この教書は今後におけるヨーロッパ及びアジアの同時闘争の決定計画を指示するものである」と冒頭に注意書きしてあったという。

この案の日支関係についてを要約すると、「直ちに日本と支那との内部破壊を図るとともに、支那に反日運動を起こさせ、それを日支の武力闘争にまで発展させ、それに対してソ連と特にアメリカを干渉させる戦争にまで発展させて日本を倒し、それとともにヨーロッパに社会革命を起こさせる第二次の世界大戦を計画する」というものであった。


このいわゆる「日支闘争計画案」なるものは、その後永く日本の親英米・親ソ容共派の行動を内面から指導し続けた原理であった。 その原理を実施するための機関をと目されるものも、既に甘粕事件発生のころから日本に設置されている。太平洋問題調査会(IPR)であり、本格的には大正一五(一九二六)年から常設となった。ロックフェラーとソ連の司令下にあった秘密工作機関である。もちろん表面は公設機関と見せて、民間機関と称していた


引用終わり。

(※太平洋問題調査会には日本側としては新渡戸稲造や前田多門などクェーカー教徒が参加している。新渡戸の弟子で無教会主義キリスト教徒の田島道治が戦後の初代宮内庁長官に就任するなど、この人脈は宮中周辺にも浸透している)

五四運動が始まったのはちょうどこの翌年1919年である。普通、五四運動は
パリ講和会議において二十一か条の要求が承認されたことに対する抗議
として始まったとされている。ただ、二十一か条の要求は1915年である。四年のブランクがある。
いくらパリ講和会議・ヴェルサイユ条約のことがあったにしても四年も経ってからにわかに
大規模な抗議運動が勃興するというのも不自然な気がするのだ(所謂「人工芝運動」の可能性)。
ロシア革命と第一次大戦後の世界的な社会主義的な左翼革命運動の勃興と軌を一にする運動、
とした方がまだしも納得できる(この時期敗戦国独逸でも社会主義者・共産主義者
による革命運動が勃興。この後、ナチス政権成立までナチスと共産党による
両建抗争が続く。共産党が躍進し、安倍一味以下ネオコン勢力と両建抗争を演じている
今の我が国の状況はこのワイマール共和国末期に似ていて不気味だ)。
第一次大戦終結直前に国際秘密力製の人造国家であり、世界中の革命勢力の中心だった
ソ連において、その後の中国大陸における基本戦略を策定したとしてもおかしくはない。
現にそれ以後、反日気運が勃興し、

1921年 コミンテルンによる指導の下、陳独秀を指導者として中国共産党結成(同じコミンテルン指導下の日本共産党は翌年結成) 

1924年 国共合作・コミンテルン工作員・ミハイル・ボロディンの進言により黄埔軍官学校設立(孫文の子飼いでクリスチャンでメーソン員の蒋介石が校長、グラントリアンの周恩来が政治部副主任に就任。英仏両系統のメーソン揃踏み)

1927年 
南京事件漢口事件で日本人が暴行・虐殺さる これを受け日本は山東出兵

1928年 
済南事件(居留民保護のため出兵していた日本軍と北伐中の蒋介石率いる国民革命軍との間で衝突)

1936年 
西安事件・第二次国共合作(西安事件は日支闘争を実現させるための前提である国共の抗日共同戦線を実現させるために蒋介石を監禁・脅迫した事件。スターリンは中共に国民党との共闘を指令)
                 
1937年 支那事変勃発(劉少奇部隊による発砲がきっかけとされる)→日本軍と国民党軍の泥沼の戦争→間隙を
ぬった共産勢力の伸張

1939年 
ノモンハン事件(日本軍とソ連軍による大規模な軍事衝突)

1941年 大東亜戦争開戦(日米戦争開戦。この当時、ルーズベルト政権の周り、特に国務省は容共分子であふれかえっていた。主にこの人脈が対日強硬外交を推進。戦前、国際政経学会にて講演した米国人の証言あり。国立国会図書館近代デジタルライブラリーにて確認)

1945年 日ソ中立条約を無視してソ連が対日参戦、広島・長崎への国際法を無視した原爆投下(日本人の大量虐殺)、第二次大戦終結→日本、連合軍に占領さる、大陸では国共内戦勃発(この間、米国国務省は国民党への援助を打ち切り、中国共産党側を側面支援。「共産中国はアメリカがつくった」ジョセフ・マッカーシ
著を参照)                    

1949年 中華人民共和国=共産中国誕生し、中国大陸の赤化完了。


とい
う歴史を辿る。これは先ほど見た「
直ちに日本と支那との内部破壊を図るとともに、
支那に反日運動を起こさせ、それを日支の武力闘争にまで発展させ、それに対してソ連
と特にアメリカを干渉させる戦争にまで発展させて日本を倒し

という「日支闘争計画案」の通りに事態が推移しているように見える。
以前当ブログで少し言及した章炳麟なども、当初は対日戦争と中国共産党に反対していた
ものの、晩年にはこの流れに抗しえなくなっていた。中国革命の「三尊」の一人と言われた
章炳麟でさえ抗する事ができない反日策動の滔々たる激流が形成されていたのである。



最近の日中紛争もこの「日支闘争計画」の続き、いわば「第二次日支闘争計画」
に思えてならないのである。
対中問題は単に「中国共産党に(だけ)対抗すればよい」(親米保守)、
「中国は脅威ではない」(日本共産党)という両極端な単純な視点になりがちだが、
それでは足元をすくわれかねない。
「日支は対立させよ」というのが、おそらくはイエズス会が侵襲してきた戦国時代からの
国際秘密力による対東亜政略の絶対方針になっていると思われる
(イエズス会による対日侵攻の
やり方がその後の西洋による対日侵攻戦略のプロトタイプと考えている)。
現にスペイン国王に宛てて、キリシタン化した日本人を傭兵にして明を攻めさせる
策略を提案する宣教師もいた。

フランシスコ・カブラル「私の考えでは、この政府事業を行うのに、最初は7千乃 至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分 であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパード レ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を 送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍して いるので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1 エスクード半または2エスクードの給料で、暿暿としてこ の征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog154.html

近代における「日支闘争計画」もその流れの中に位置づけられると思う。
そしてこの絶対方針は今も全く変わっていないと思われる。
だから単純に「中国を倒せ」とか「中国は全く脅威ではない」というだけでは両建戦術に
乗せられてしまう。
常に両建の背後を意識しておくべきである。

渡部悌治先生は「
このいわゆる「日支闘争計画案」なるものは、
その後永く日本の親英米・親ソ容共派の行動を内面から指導し
続けた原理であった
」と書いておられるが
、これは今も親米派(右翼)と
親中派(左翼)を「内面から指導し続ける原理」そのものではないだろうか。
所謂「左右両建」「ウヨサヨプロレス」というのはまさに、
この「内面指導原理」に沿って行われている茶番劇、と言えるのでは
ないだろうか。
親英米派の流れの親米保守・統一系右翼は中国しか批判せず、
親ソ容共派の流れである左翼親中派は共産中国の背景にはノータッチ。
この両者による両建的「競争的努力」(カトリックVSプロテスタント
というキリスト教の対日分進合撃戦術について述べた山中豊吉氏の表現)
により「日支闘争」の危険水域はいや増している訳である。
「ウヨサヨプロレス」には大変根深い歴史的因縁があるようだ。
構造は戦前も今も何も変わっていないのである。


この歴史的因縁を加味して現今の南シナ海の問題を考えると、
米中対立に見せつつ、途中で集団的自衛権を理由に自衛隊を放り込み、第二次日支闘争に繋げる
という狙いを十二分以上に警戒しておく必要がある。
支那事変の時には「暴支膺懲」と言われたが、「暴支」(本当は中国人全体ではなくフリーメイソン製の
国民党や中国共産党などの反日策動分子。国民党は米英系メーソンの孫文が創設、中国共産党は
周恩来や鄧小平などのフランス帰りの仏蘭西系メーソン=グラントリアンを中心に結成。
国民党VS中国共産党とは英仏メーソンの両建構造だったと見る事ができる。ちなみに
孫文はクリスチャン。一説では猶太人しか入れないはずのブナイ・ブリス結社員だったとか)
の背後に「暴米・暴英・暴仏・暴ソ」がおり
そのさらなる背後には「暴国際秘密力(金融資本閨閥を中心とした国際的な権力ネットワーク)」
がいたことは我が国ではごく少数の先覚者を除いて意識される事は無かった。
現在の「米中対立」でも、歴史に鑑みて、中国共産党や米国の背後を常に見据えておくべきである。
戦争とは、常に作られるものである」という歴史の教訓を忘れてはならない。
今は戦前とは違い、ネットがあるので、このあたりに気づいている方の数は戦前とは比べ物に
ならない。そこが大きな希望である。

「第二次日支闘争計画」絶対阻止!である。


(了)







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by kokusai_seikei | 2015-11-11 00:57 | 陰謀解析 | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:「日支闘争計画」について

〇共産中国が軍拡できたのは欧米やイスラエルが武器を供給してきたからである。共産中国の軍拡を阻止するには、軍事協力を止め武器を一切売らないようにすればよい。それをやらない以上、南シナ海の問題は米中対立に見せて途中で自衛隊を放り込んで第二次日支闘争計画を実行する前段階に見えるのである。

〇「両建」とは何も国内の左右の対立構造に限られない。日本のネオコン勢力と中国共産党もそうなのである。安倍一味の背後にはネオコンがいるし、中国共産党の背後にはイスラエルがいる。そしてネオコンとイスラエルは一体である。反中のはずのネオコンの仲間のシオニストは中国の軍拡に手を貸してきた。

〇イラン・イラク戦争時に、米国はイラクを支援し、イスラエルはイランを支援していたという。米国とイスラエルは最も親密な同盟国であり、むしろ一体と言ってもよい関係。その両国が敵対当事国双方を支援していたことになる。今の日中対立もこの構造ではないかと睨んでいる。抑々支那事変がそうだった。

〇戦前の陰謀追及者の生き残りの方が、キリスト教徒とソ連共産主義者の合同機関・IPR太平洋問題調査会が立案した「日支闘争計画」があったと伝えている。この計画に基づいて支那事変(日中戦争)が仕掛けられたと。この計画は「第二次日支闘争計画」として現代にも継続している気がしてならない。

〇伝えられる「日支闘争計画」の内実とは、日本軍と国民党軍を潰し合わせる事で共産勢力を伸張させ、最終的に大陸を赤化する、というものである。この計画はその後、現実となった。では、今「第二次日支闘争計画」があるとすれば何が狙いなのか?である。共産中国中心の東亜連盟などか?分析の必要あり。

(了)



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by kokusai_seikei | 2015-11-11 00:56 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

NWO思想に対抗する論理を探求する

国際秘密力のNWO征略に根源的に対抗する為には、表層の謀略を暴くのみならず、
彼らの発想の根源から突き崩す必要があるのではないかと考える。
その為には、国際秘密力のワンワールド思想を
理論的に解析し、
それに対抗しうる発想の可能性を考えてみる必要があると思う。
そのあたりについて、自分なりに考えてみたい。


ワンワールド思想というのは要するに「多様なものを一つに収斂していく思想」と言えると思う。
これは「多様なものがそれぞれ独立の実体としてある」というのが前提となる。
そうでなければ論理的にいって「多様なものが一つに」とは言えないからだ。
ここでは「多」と「一」は其々隔絶しており、
「一」に到達する為には必然的に「多」を破壊しなければならない、という発想をとる。
多はどこまでも多であって「一」とは違う、という発想である。
つまり「多」も「一」もそれぞれ実体視されている。
ここでいう「実体」とは他と無関係に存在する自存的存在のことである。
ここから「ワンワールド」に到達する為には既成の多様な文化や国家を破壊するという衝動が導かれる。
相互に断絶された「多」と「一」を媒介するのは「破壊」である。
だからNWO思想は必然的に破壊をもたらす。


この思想に対抗しうる論理はいかなるものがありうるか?
ここでは、華厳仏教で言う「四法界」という説をヒントに考える。
四法界とは「事法界・理法界・理事無礙法界・事事無礙法界」
の四つに分けられるものの見方のカテゴリーである。
思想分類モデルとしても有効であると思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/澄観


まず事法界だが、これはごく普通の日常的なものの見方である。
つまり、事物を言語によって分節化して概念的に把握する見方。
誰しもが生育の過程で言語を習得する事で身に付ける。
山は山であり、川は川であり、草は草であり、木は木であり、石は石であると見る。
しかも、それぞれが実体として独立していて、それ自体で独存していると見る。
これは「分別」という、言語による分節化に起因する二元相対的なものの見方である。
言葉は世界を分節化する。「A」という名称は同時に「非A」を生み出す。
「私は私」「他人は他人」「モノはモノ」とあらゆる事物が独存すると観じる
それらの独存した「モノ」の集積として世界を捉える、ごく日常的なものの見方。


次は理法界。これは個々の現象=事を貫いている、現象が存在しうる為の理法・法則のことである。
ここでは「空」「空性」を意味する。
空とは、「ものには実体=自性が欠けており(無自性)、それ
自体で存在しうるものは何もない。存在はかならず縁起の法則により関係的に成立している」
という意味
である。つまり縁起=空である。
インド哲学の世界的権威である中村元先生によれば「縁起だから無自性。無自性だから空」という
論理的順番との事であった(「自性」とは実体のこと。常住不変で
分割不能=単一で、完全な主体性を持つ自存体。
「常一主宰」と形容される。この自性の否定が空である)。
理法界とは要するに個々の現象を成立させている法則としての
「縁起」や「空」を現象とは別建てで見た捉え方である。

この理法界を思想分類モデルとして見ると、プラトン哲学などが該当する。
つまり、「イデア」という「理」を立てて、現象界とは隔絶した実在界と見る二世界論である。
現象界から隔絶した超越神を立てるキリスト教などの一神教もこの類型に該当する。
西洋の伝統的な思想は大体このモデルを原型としている。
また、幽世=あの世を「本つ世」(=本体界・実在界)とする
プラトン的な二世界論を説いた平田国学(キリシタン神学の影響を受ける)、
法華経という「理」によって全世界を制圧・統一する事を
主張する日蓮主義(法華経版ワンワールド思想。石原完爾などが信奉)
も該当すると思う。
一つの「理」(実体視された原理や形而上学的実在・本体)
によって全世界を一つに染め上げんとするあらゆるNWO思想
はこの「理法界」に分類できると思う。


次は理事無礙法界。これは理=法則と事=現象が一つであり、
法則を離れて現象は無く、現象を離れて法則は無い、という意味である。
これはよく考えると当たり前のことである。
法則とは常になんらかの現象の法則であり、
現象というからにはなんらかの法則によって存在している。
理と事は一体である。分離する事はできない。
「理」と敢えて言葉で表現すると、なにか「事」から離れた
特別な形而上学的な実体のようなものを想定しがちな人間の思惟
の傾向性を戒め、理を事に着地させ、現象の背後にイデア的な
実在があるという見方を排するものの見方である。

理事無礙法界を思想分類モデルとして見ると、朱子学などが該当するだろう。
朱子学は理=法則と気=現象で世界を説明する「理気二元論」であるが、
理と気が相即不離としつつも、理と気は二元的に分けて考えられているので
「理事無礙」とは言い難いかもしれないが、理気は相離れずともされているので、
一応ここに例として挙げておく。
他の例としては真言密教の大日如来の考え方がある。宇宙を象徴する大日如来は
六大=地・水・火・風・空・識という六つの構成要素によって構成されると考え、
大日如来=宇宙と六大はイコールだとする六大縁起観を立てている。
これは縁起の思想の範疇だが、まかり間違えば「大日如来」を
実体視してしまう危険性もある。大日如来を実体視すれば
実体としての「梵天」を立てるバラモン教と変わらない事になる。
ここは朱子学が「理」を実体視することにより、「理」が「気」から隔絶され
西洋的な形而上学と化する危険性を秘めているのと似ている。注意すべき点である。
理事無礙法界でとどまると常にこの危険は伴うと考える。だから次に「事事無礙法界」に
進む事になる。


最後に事事無礙法界。これは前述の理事無礙法界を通過した上で初めて
成り立つものの見方である。理事無礙法界で現象=事と法則=理は
一体だと示したが、言語表現上は「理事無礙」となっている。
ここが実は究極的には余計な事とされる。
あくまで理論上「理事無礙」と表現するものの、
現象と法則が一体ならば、現象があればすでにそこに法則が含まれているはずで、
敢えて「理」を強調せずとも、「事」を示せば、そこに自ずと「理」が含まれている。
そして、「理」という法則で貫かれている個々の「事」は、
「理」という共通基盤を備えているがゆえに、其々が絶対的に個別のまま、同時に調和している、
という事態が可能となる。
このところのあり様を理論的に表現したものが「事事無礙法界」だと解釈する。
つまり、「理」という法則が完全に「事」に溶け込み、
もはや意識上に上らず、ただひたすら個別の事と事が調和している、
という世界の見方である。華厳哲学ではこれは仏の境涯だとする。
あらゆるイデア的・実体主義的・形而上学的な見方の残滓が消え去った、
さらには「空」という言葉すら消え去った「真空妙有」という
有がそのまま空であるような境地なのであろう。
(このあたりの論理構造は仏教学者の竹村牧男氏の華厳解説に詳しい)。
具体的に言うと、宮本武蔵の五輪書の空の巻に言うような、
「拍子」という自然なリズムに乗り、「兵法の道」という「有る」事
のうちに「空」を体現して、自然の動きが出てくる、そのような境地なのかもしれない。
あるいは荘子の「包丁」の故事(長年の修練により、もはや意識せずとも自然に
最高の技の切れを見せる料理人の話。「包丁」の語源)などで語られる
無心の境地もここに該当するかもしれない。

だが、ここは吾人のような凡夫としては想像するしかない。

事事無礙法界を思想分類モデルとして言うと、
陽明学の「理は気の条理」
とする「気一元論」や我が国の山鹿素行や伊藤仁斎の一元気論は現象主義であり、
この事事無礙法界の立場と近いものがあるかもしれない。
あるいは、

道は物を物として在らしめる根源的な理法であり、
物とは存在の次元を異にする。そして、この意味では、道は
物を超えているのであるが、単なる超越的な何かではなくて、
物とともに在り、物に内在しているのである。物が物として
在ることそれ自身が道なのである。物を離れて道はなく、道
を離れて物はない。「道は在らざるところなし」なのである。


「要するに、道すなわち真実在の世界は、一切万物が無始から
始まり無終に終って自生自化していく変化の流れそのものである。

(「荘子 古代中国の実存主義」福永光司著・中公新書より引用。
先の引用が「理事無礙法界」に、後の引用が
「事事無礙法界」に其々該当するように思う)
とする荘子思想。

事事無礙法界とは言い替えると「事的世界観」である。
「事的世界観」とは「実体」(関係に依らずそれ自体で存在する自存体)
という観念を排除した関係主義的な世界観である。つまり「縁起的世界観」である。
現代の哲学で言うと廣松渉の哲学が「事的世界観」を掲げている。
廣松哲学は実体主義を徹底的に排した、極めて仏教哲学的な関係主義の哲学となっている。
本居宣長派の国学(鈴屋学派)は「理」という発想を
大陸的な「漢心」(からごころ)
として徹底的に排しており、文献実証主義的に確定された「事」(神話的事績を含む)以外を
認めないという文献実証主義的な、ある意味での「事的世界観」と言える。
http://kokuhiken.exblog.jp/24679638/


また、華厳の六相円融義という説で用いられる「家」の例えで別の角度から
「事事無礙法界」を説明する。
「家」は屋根、たるき、鴨居、柱、瓦、等々の構成要素から成り立っている。
ここで、例えば「たるき」と「柱」の関係を取り上げてみる。「たるき」と「柱」は
同一であろうか?別異であろうか?
まず、たるきも柱も同じように一つの家全体を構成しているという点では「同」である。
どちらも同じように、家全体を成り立たせている構成要素であるという点で変わりはない
からである。
しかし、「たるき」はあくまでも「たるき」であり、「柱」はどこまでも「柱」である。
それぞれの役割が混同されず、あくまで別々であるからこそ、全体を構成する要素たりうる。
たるきは柱の役を果たせないし、柱はたるきの役を果たせないのである。
文字通り「たるき」と「柱」が「一つ」になっては、其々の役割が果たせないのである。
こう見ると「たるき」と「柱」は「異」となる。
このようにある視点で見ると、「たるき」と「柱」は「同」であるし、また別の視点で見ると
「異」でもある。ここに「同」と「異」が同時に成立している
訳である。
ここから敷衍して一般化して考えると、ある個別の現象が他の個別の現象とあくまでも別異で
ありながら、同時にある面では同一と見る事もできる
のである。
龍樹の「中論」の冒頭に掲げてある「八不中道」の一つに「不一不異」というのがある。
(八不とは「
不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去」のこと。
これは結局、縁起・空・中道と同義である)
この見方が成立すれば「ワンワールド」と称し、個別性を消去して全てを一つにしようとすること
がいかに理に適わない、愚かな発想であるかということがはっきりと分かる。



以上四法界の説をつらつら述べてきたが、この「事事無礙法界」
というものの見方が「ワンワールド思想に対抗するヒントになりうるのではないか?」
と前々から考えている。
つまり、多様なものを破壊して一つにしようとするのではなく、
多様なものが多様なまま、個別が絶対的に個別のままに調和する、
そのような発想を可能にする発想を秘めているように思うのだ。
「世界を平和にするには世界を一つにすればよい」ではなく
「世界を平和にするには多様なものを多様なままに認めればよい」という発想。


以前書いたが、ここに仏教でいう「無力増上縁」という発想も加わる。
http://kokuhiken.exblog.jp/24803682/
つまり、何かが存在する事を妨げない縁、という事である。
宇宙の果ての塵芥であろうとも、我々人間が生きるのを妨げていないという意味で
「縁」がある、という事。積極的にあれこれ関わるだけが「縁」ではない。
これは無限の関係性を意味する華厳の「重々無尽の縁起」という論理にも通じる。


以上、華厳の四法界説を参考にNWO思想に対抗する論理を考察してきた。
多様なものを一つに収斂していくというNWO思想はキリスト教などの一神教や、
新プラトン主義に発する西洋神秘主義の、「一つの始原」「一つの究極実在」
に全てを収斂していくという発想に根があると思うが、
NWOに対抗するには東洋の伝統思想の遺産がヒントになるように思うのである。
ここでは華厳仏教の四法界説、特に「事事無礙法界」という思想を取り上げてみた。
今後ともNWOに対抗する論理の探求を継続したいと思う。


(了)

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by kokusai_seikei | 2015-11-08 00:50 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:「ハロウィン」について

〇最近やたらとハロウィンが喧伝されている。国際秘密力の連中はドルイド教に凝っている様だから、まあ「タヴィンチ・コード」(イエスの末裔=秘密の血流が存在すると喧伝)「ハリー・ポッター」(魔術的世界観の布教。作者は英王室から爵位)の流行と同じで連中の思想宣伝工作と見るのが順当であろう。

〇日本に縁もゆかりもないドルイド教の「ハロウィン」という風習が、何の必然性もなく急速に広まるわけがないので、これは人為的なものと判断する。関連商品の産業を興す商業目的と、国際秘密力がドルイド密教かぶれ(チャーチルがドルイド教の儀式に参加)でオカルト思想を広める目的もあるのだろう。

〇「ハロウィン」騒ぎは実質は「仮装行列」又は「珍どん屋ゴッコ」に過ぎないが、そこに「ハロウィン」と名称を付けるだけでオカルト思想宣伝という性質を帯びてくる。「名称」あるいはシンボルによる刷り込みというのはかなり強烈なものがある。アニメ等にシンボルが埋め込まれたりするのと同じである。

〇「人工芝運動」「国盗り行為」を「創発民主主義」と名付けたりネオコン極左を「保守」と呼称したりと、「名称」を変えるだけで人は実質もその名称に沿ったものと思い込みがちな傾向がある。これを応用する訳である。仏教で説く「空」は名称で語られた通りに世界が存在している訳ではない事も含意する。

〇単なる「バカ騒ぎ」「ちんどん屋の真似」「コスプレイベント」でも「ハロウィン」という宗教的・オカルト的な名称で呼ぶだけで第一段階の刷込みは完了したと言える。名称に抵抗が無くなれば、名称の示す概念内容に抵抗が無くなるのも時間の問題だろう。漸進的なフェビアン主義的洗脳攻勢である。

〇「リベラル」という呼称の起源に関して面白い説がある。フェビアン社会主義者が米国に社会主義を根付かせるために、社会主義に抵抗が強い米国人に受け入れさせるために、実質的な社会主義を「リベラリズム=自由主義」と名付けたというのである。呼称を変えるだけでフェビアン主義は米国に扶植された。

〇フェビアン主義の米国への扶植とは若干ニュアンスが異なるが、「ハロウィン」に関しても表面上は単なるちんどん屋的仮装行列でも、まずは名称を受け入れさせるところから徐々にオカルト思想を注入していく思想工作の可能性があるのではないか。オウムを見てもオカルトは「エンタメ」として入ってくる。

〇そもそも「秘密結社」にしても、大半のメンバーは単なる見栄や虚栄心で入っている者だろう。その中から「選抜」された者に徐々にオカルト思想を注入し、レベルが上がるほど結社内で位階が上がっていくピラミッド構造だと思われる。なので最末端が単なる「エンタメ」「バカ騒ぎ」でも不思議はないのだ。

〇「名称から刷り込み」という戦術ならば、逆に「名称という入り口から遮断」が有効な防衛策。「ハロウィン」ではなく「ちんどん屋フェス」とかにしたら実質に沿う名称なのでオカルト思想の流入を入り口で塞ぐことができる訳だ。「GOD」の訳語に「神」を当てなければその後の思想史も変わったと思う。

〇「トリック・オア・トリート→(ハロウィンの仮装した子供)いたずらされたくなければおもてなししろ(お菓子を出せ)→(ドルイド僧)死霊に祟られて殺されたくなければ生贄を差し出せ」という説。「信じよ。さもなくば死ね」という一神教論理に近い。キリスト教と習合する訳だ。

〇ハロウィンのバカ騒ぎ集団が商店の商品を壊し、逮捕者も出るなど渋谷の街を荒らしまわったようだ。これは群衆が暴動を起こすだけのポテンシャルを持っている事を遺憾なく示した。プロの煽動者が入れば暴動に発展させられるかもしれない。エコノミスト誌の「113」「115」もある。要警戒である。

〇左翼工作員の「10月以降見とけよ!」的発言だが、結局10月は左翼工作員がふんぞり返るような出来事は特に起きなかった。「10月以降」だから正確には11月も12月も入っているので警戒は怠れない(ハロウィンバカ騒ぎ集団の渋谷暴動モドキを見ても)。馬〇暴徒は社会工学の道具たりえる恐れ。

〇堺利彦が大本教信徒の迷信ぶりを馬鹿にしつつも、その馬力に関しては「使えるタマ」扱いしているが、昔から革命家(「社会工学」のプロと言える)というのは「馬鹿とハサミは使いよう」という発想をするようだ。渋谷で暴れまわったような連中を「使えるタマ」と見なしても不思議はない。要注意である。


(了)

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by kokusai_seikei | 2015-11-03 07:59 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)