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キリスト教の対日「分進合撃」

キリスト教による日本への侵攻戦術を分析するにあたり、まずは「天皇破壊史」太田龍著に引用されていた戦前の国際秘密力研究家・山中豊吉氏がキリスト教の日本侵略における両建戦術を分析した文章を以下引用する。



 日本に対するユダヤとキリスト教の謀略を検討いたしますと、だいたい次のような四点に分けてこれを観察することができるように思います。すなわち

①日本プロテスタントを利用加勢してカトリックに対抗せしめること。(すなわちフリーメーソン的キリスト教の前進)

②これによりカトリックを刺激して、さらにカトリックの教勢を張らしめること。(ローマ的キリスト教の前進)

③かくして双方の競争的努力によって急速に、かつ手広く日本を変質せしめ、これをユダヤ化すること。(分進合撃の戦法)

④その結果、エホバ秩序、ないしキリスト教秩序の下に統一せられたるユダヤ世界の完成を期すること。(イザヤ預言の新天新地の実現)


引用終わり



〇このように、カトリックVSプロテスタントという「分進合撃戦術」がある訳だが、具体的にはどのような層がそれぞれを担ったのか。おおよそだが、カトリックは上流階級を取り込み、プロテスタントは少壮インテリを取り込む、という形になっている。

〇カトリックは何故か宮中関係者及び周辺に多い。入江相政侍従長、浜尾実東宮侍従などだ。浜尾実東宮侍従の弟 濱尾文郎はバチカンの枢機卿であった。バチカンの最高幹部の兄弟が宮中の枢要な位置を占めていたことになる。宮中周辺のキリスト教徒の人口密度は日本の一般社会におけるキリスト教徒の割合(1%未満)からいって異様に高いのではないか。これは「自然に」「偶然に」そうなるとは思えない。明治以後宮中への執拗なキリスト教浸透工作が継続していると思われる。

〇一方、明治のインテリ青年にはプロテスタントの洗礼を受けた人物が多い(徳富蘇峰のようにのちに棄教した人物も含める)。「米英の私設外交官」とされる巌本善治などが典型であろう。そもそも明治プロテスタントは、札幌バンド、横浜バンド、熊本バンドという外国人宣教師によって洗礼を受けた在野インテリ青年の集団が源流になっている。プロテスタントがインテリに浸透、というよりむしろ、歴史的に日本のプロテスタントは在野の少壮インテリを中心に始まったと言えるかもしれない。今でも左翼インテリにプロテスタントが多い。この流れを受けていると思われる。

〇また政治勢力別で言うと、カトリックは右派に浸透し、プロテスタントは左派に浸透している。カトリックの保守言論人や保守政治家は多い(例:渡部昇一、曽野綾子、麻生太郎、稲田朋美等。カトリック信徒で親イスラエル、というパターンもある)。一方プロテスタント側は松井やより、キリスト教婦人矯風会等。「カトリックVSプロテスタント」が「右翼VS左翼」の両建構造にちょうど対応している訳である。

〇この山中豊吉氏が指摘したローマ的キリスト教であるカトリックとフリーメイソン的キリスト教であるプロテスタントの競争的努力による「日本のエホバ化」謀略。これは必ずしもキリスト教徒ではないカルトや左翼にも敷衍して当てはまる。カルト系の右派(西洋一神教的な神道系カルト、仏教系カルト等)とフランス大東社の系譜を引く左派(共産党や新左翼過激派等)がそれぞれ勢力を伸張させることで日本を変質させる「分進合撃」戦術、となるわけだ。「カルト系右派VS大東社系左派」(俗に言う「ウヨサヨ」)という日本の政治・思想界全般を規定する両建構造である。

〇この「カトリックVSプロテスタントの分進合撃」という分析をさらに「西洋思想」全般のレベルにまで敷衍すると、「キリスト教VS神秘主義から理性崇拝・無神論・唯物論・マルクス主義に至る西洋的反キリスト教思想の分進合撃」という大枠があるように思う。その具象的表れが「英国系メーソンVS仏蘭西系メーソン」の両建構造である。冷戦構造はその一形態である。

キリスト教と神秘主義が結びつく、ルネサンス期に現れた「クリスチャンカバラ」のようなものや、啓蒙時代に現れたキリスト教と理性崇拝の妥協の産物である「理神論」というのもある。この場合は、キリスト教神秘主義VS無神論・唯物論、あるいは、理神論VS無神論、という両建になる。

〇陰謀論においても、キリスト教系の陰謀論はバチカン擁護派とバチカン反対派の両建構造があるようだ。ローマ的キリスト教であるカトリックが上流階級を、フリーメイソン的キリスト教であるプロテスタントが少壮インテリを、其々標的にするという分進合撃戦術だが、キリスト教に絡めとられて陰謀論をやるのはこの戦術に手を貸すだけである。キリスト教系陰謀論では「カトリックVSプロテスタント」の分進合撃を超克することはできず、従って分進合撃の根源にある国際秘密力のコアは撃てない。日本人としては両方まとめて批判する視点が重要である。


(了)



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by kokusai_seikei | 2015-10-26 07:32 | 陰謀解析 | Trackback | Comments(0)

江戸時代の知識人の合理思考

〇新井白石はシドッチ訊問に関し「大君大父」としての造物主を認めると君父への忠孝が蔑ろになると批判している。これは江戸時代の封建道徳の視点からの批判に見えるが実は一神教への本質的批判に通じる。つまり、超越者を優先する為に君父に限らず人や自然など現実の存在を蔑ろにする弊害の指摘である。

〇新井白石はシドッチを訊問して、この西洋人の形而下的学芸に関する知見には感嘆すると同時に、一端キリスト教の話になると急に愚昧になる賢愚の落差に驚いている。これは技術文明は大変発達しているが、それを御する人間精神は迷信で規定されている西洋世界そのものの評価に通じる。江戸期学者の慧眼。

〇キリスト教の教義を「嬰児の語」(子供のタワゴト)と切り捨てる新井白石→「其天戒を破りしもの、罪大にして自贖うべからず、デウスこれをあはれむがために、自ら誓ひて、三千年の後に、エイズスと生れ、それに代りて、其罪を岡へ贖えりという説のごとき、いかむぞ、嬰児の語に似たる。」(西洋紀聞)

〇西洋の権威に盲従する明治以後の知識人には不可能な、非常に率直な新井白石のキリスト教評。西洋の実用的な学芸については高く評価しているので、西洋への特別の偏見無く、見たまま、感じたままを率直に述べていると思われる。江戸時代の知識人にはキリスト教は云々する程もない幼児の戯言であった。

〇明治以後のキリスト教化された知識人より、江戸時代の儒者や仏者の方が合理的世界観を持っていたと思う。明治以後、技術文明は発達したが、精神文化の方はむしろ江戸時代より退化したのではないか。西洋化=合理化とは限らない。新井白石が嬰児の戯言と評したキリスト教が影響拡大したのは退化では。

〇江戸時代の儒者は「気」と「理」という概念で以て世界を説明する。気=現象、理=法則である。実にシンプル。これは当時の知識層の基礎教養だった宋学の概念だが、元々は華厳哲学の「事」「理」という概念に由来しているそうだ。理に優越性を認めるのが朱子学(形而上学的傾向)で、理を気の条理とするのが陽明学や古学(一種の現象主義)。

(了)

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by kokusai_seikei | 2015-10-26 00:34 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

近現代史上の「日中対立」とは「英国フリーメイソンVS仏蘭西フリーメイソン」の両建対立

現在の日中対立に至る歴史的沿革を「大亜細亜主義」の分析をヒントに考えたみたい。一口に大亜細亜主義と言っても二種類あると思う。一つは孫文型。もう一つは章炳麟型。前者は、孫文はキリスト教を信仰・フリーメイソン的西欧型民主思想(孫文はブナイブリスの会員という説があるが、もし事実なら中国系猶太人ということになる)の三民主義。ちなみに孫文の後継者蒋介石もキリスト教の洗礼を受けた。

孫文型は思想を見てもわかるように西洋に妥協的であり基本的に世界連邦東亜支部としてのアジア主義である。南方熊楠の「願わくはわれわれ東洋人は一度西洋人を挙げてことごとく国境外へ放逐したきことなり」という言葉に畏れをなした孫文であった。後者の章炳麟型は考証学・老荘思想・唯識・華厳仏教という伝統思想に基づく伝統的攘夷思想。西洋に対する攘夷において扇の例えを用いて日中印の共闘を説くが伝統的民族主義だから東亜を一つに統合などという発想と無縁(満洲は漢民族の領土ではないと認識し、満洲民族は満洲に帰るべきと主張)。反西洋が主眼となる。

お互いに革命の三尊(孫文・章炳麟・黄興)と言われながら生涯に亘る論敵同士だった孫文と章炳麟。政治的には孫文の路線が勝利することなり、それは「連ソ容共」を経て、主に周恩来(大東社)や鄧小平(客家)などフランス帰りの留学生を中心に結成された中国共産党(大東社的な無神論・唯物論・集産主義・反君主制思想の流れ)の大陸奪取へと続く流れを形成することになる。かくして中国大陸は大東社系の集産主義・無神論・唯物論に占拠される。その影響力は北朝鮮に侵入し独裁国家を樹立、我が国の左翼勢力にも甚大な影響を与える。

一方日本は明治以来権力の中枢を握ってきたのは親英米派=英国メーソン系である。大久保利通→牧野伸顕の系列である。大久保は岩倉使節団で外遊中に数か月間英国に滞在。帰国後それまで竹馬の友だった西郷隆盛と対立。この間何があったのか。英国支配中枢が当時対ロシア戦略の橋頭堡として利用せんと目論んでいた大日本帝国のトップが数か月間も英国に滞在していてロスチャイルドが近づかないわけはない。親英米派は英国的な自由主義思想を唱えながら、一方で伝統を換骨奪胎し、西洋的なものに変えようとする策動。新渡戸稲造や内村鑑三の「武士道に接ぎ木されたキリスト教」というのが思想面における具体的表れである。武士道にキリスト教を接ぎ木しなければならない理由がさっぱりわからない。武士道は武士道である(武士の戦場での体験を元に錬成、江戸期に仏教や儒学により理論化)。

明治以後の宮中周辺へのカトリックやクェーカーなどキリスト教人脈の包囲を見てもその「憑依型」戦術が分かる。戦後もそれは続く。英国聖公会信徒の小泉信三が東宮御教育係となり、クェーカー信徒でフリーメイソンである新渡戸稲造の弟子・田島道治が初代宮内庁長官となる。またカトリックの濱尾文郎枢機卿の実兄でカトリック信徒の濱尾実が東宮侍従に。純正愛国陣営の先覚が既に大正時代から深く憂えていたように、宮中周辺のキリスト教勢力の多さはまことに異常である。日本の人口にキリスト教徒が占める割合は1%未満である。それなのに宮中周辺におけるキリスト教関係者の多さはこの日本人全体におけるキリスト教徒人口の割合と全く釣り合わない密度である。この配置に意図的なものを感じるのも当然というものだろう。戦後、フリーメイソンのマッカーサーは御皇室をキリスト教化しようと企んだそうだが、幕末維新以来の執拗な策動の継続を見ても、国際秘密力の対日侵略の最終目標は宮中の完全なキリスト教化(憑依型戦術の究極目標)に据えられているのではないか。深く憂え申し上げる次第である。

さて、親英米派の流れは岸信介などの満洲人脈と絡みながら現在の安倍ニセ政権につながっている。(例:麻生太郎氏は大久保利通・牧野伸顕の血を引く上にカトリック信徒でスコッチメーソン吉田茂の孫。まさにサラブレッド)満洲人脈の中には河豚計画に関与した新興財閥系の鮎川義介や親猶太陰謀論者の陸軍の安江仙弘大佐、海軍の犬塚惟重大佐などがいる。鮎川の義弟の久原房之助が皇道派青年将校の226事件の有力資金提供者である。皇道派には大本教が絡む。皇道派の重鎮秦真次中将は中佐時代に大本教に入信、皇道派と近い山本英輔海軍大将は大佐時代に有名な秋山真之と一緒に大本教を訪問。秋山は熱心に大本教を信仰、大本信者ではないようだが大本系の思想を信奉したらしい山本英輔大将も広い意味で大本人脈と言えるだろう(山本は日猶同祖論者で戦後は剣山でアーク探索したほど)。

戦前においては三井・三菱系の大財閥と日産・日立などの新興財閥系の両建構造があったようであるが、大財閥系の親英米派・統制派と、新興財閥系の皇道派・満洲人脈の両者の流れの複合体が今現在の支配層につながっていると推理する。保守陣営において統一系と大本系が両建構造(根は一緒)をなしているのはその反映ではなかろうか。戦前にしてからが、三井の池田成彬は新興財閥系・日産の久原房之助の影響下にある皇道派の青年将校のイデオローグである北一輝に情報料の見返りに資金を提供する。両建的な奇々怪々な構図である。

思想的には保守政治家・保守系知識人を見てもわかるように、我が伝統思想を換骨奪胎したカルト及びカトリック系多し、一神教的・西洋神秘主義的な思想が幅を利かせる。イエズス会系の某保守系学者は同時に統一協会とも長年の昵懇の仲であると聞く。米にはイエズス会系のジョージタウン大学の付属機関として設立されたCSISというネオコン系シンクタンクがある。ここがジャパンハンドラーズの牙城の一つとなっている。イエズス会とネオコン(猶太系が中心。言わずもがな)の繋がりが見える。ネオコンCSISの下僕で統一べったりの我が国の保守政治家・保守知識人にカトリックが多くみられるのはきっと偶然ではあるまい。


以上をまとめると、日本の支配層=西洋的有神論・西洋神秘主義・英国系メーソン 中国共産党=無神論・唯物論・仏蘭西系メーソン の両建構造が見えるように思う。


日中対立というのは日本の親英米派=英国メーソンと中国共産党(特に上海派)=仏蘭西メーソンの両建対立構造として解釈できる。日本国内における親米派・ネット右翼と左翼の対立も同じ構造で理解することができるであろう。日本人や中国人の伝統とは無関係のところで日中対立が演出され血を流すとしたらこんな不幸なことはない。日本人も中国人も国際秘密力に汚される以前のお互いの真の伝統を探求し理解し復興させることが、実はもっとも根底的な日中友好の道ではないかと思う。おそらく章炳麟が唱えた攘夷とはまさにそういう反西洋としての攘夷であったのであろう。最初は伝統思想の立場から共産主義と日支闘争に反対していたが、のちに時代の流れに妥協し中国共産党の反日策動を肯定してしまったそうなので章炳麟をそこまで高く評価する気にはなれないが、孫文に比べるとはるかにまともな東洋型思想家だと思う次第である。

真の「攘夷」とは日本が中国(中国共産党ではない。)を攻撃し、中国が日本を攻撃することではなく、両方に浸食する西洋の奥の院の魔の手を打ち払うことではなかろうか。そしてどこまでも日本は日本、中国は中国であって、石原完爾の東亜連盟論(世界連邦東亜支部)のように一つになる必要はない。これは章炳麟も学んだ華厳哲学で言う「事事無礙法界」というものである。個別の事象が混ざり合わずしてそのままに調和するという理想である(個別の事象はどこまでも個別だとするところがワンワールド思想との大きな違い!)。罵倒しあったり、どちらかが卑屈になったりせず、それぞれが真に自国の伝統に誇りを持てれば真の友好になると思うのである。理想論だとはわかっているのだがそうなってほしいと願わずにはいられない。


(了)

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by kokusai_seikei | 2015-10-25 11:49 | 陰謀史 | Trackback | Comments(0)

戦前からある陰謀論界の宿痾・課題

〇犬塚惟重を会長に戦後発足した日猶懇話会のメンバーが凄い。副会長に日本神智学の祖と言われる三浦関造。鞍馬寺貫主に影響を与えた人物だ。理事に戦前の神代史派の拠点「神日本」の主催者・中里義美。顧問に景教渡来説の佐伯好郎や大本教人脈で皇道派に近く戦後は剣山のアーク探索をやった山本英輔。
http://aoisekai487.blog7.fc2.com/blog-entry-643.html?sp

〇太田龍氏の「天皇破壊史」に引用されていた短文では山本英輔海軍大将は明治維新の功臣の背後に秘密力がいたと指摘。だがこの人は同時に大本教や天津教シンパで神代史派であり、戦後は剣山探索した程の日猶同祖論者なのだ。オカルトと陰謀論のセット現象は実は戦前からある陰謀論界の宿痾・課題である。

〇山本英輔は明治維新の功臣の背後に国際秘密力がいたと昭和初期の段階で指摘している。明治以後の西洋侵襲の危機的状況の中で国防の前線に立つ軍人程危機感が強く日本を守らんと模索した挙句に辿り着いたのが大本教であり日蓮主義だった。薩長閥でなくば在野カルト。この両建構造に陥穽があった。

〇これは戦後左翼に嫌気がさして保守意識に目覚めて統一系言説に染まり、それを突破したら大本系カルトに絡めとられる現象と類似している。戦前も同じ。薩長閥・親英米派に従属するか、さもなければ在野カルトに絡めとられた。純正日本人の立場を確立するには何重もの網を超える必要があった。


(了)

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by kokusai_seikei | 2015-10-25 06:10 | 陰謀史 | Trackback | Comments(0)

偽史運動は政治運動である

〇古代史研究は時代が古いだけに様々な想像や憶測が入りやすい分野である。学術的には有意義でも、特定の古代史史観を現在の政治運動に直結させると、テロを誘発する危険性が高い。八切史観の影響を受けた新左翼からは「東アジア反日武装戦線」という連続企業テロを引き起こしたテロ団体が発生している。

※赤軍派の梅内恒夫が八切止夫史観に影響を受けつつ書いた手記。新左翼の古代史・オカルトブームの原点となった。→【共産主義者同盟赤軍派より日帝打倒を志すすべての人々へ】ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1…


偽史運動というのは学術的運動というより政治的運動であると考える。戦前の酒井勝軍や竹内巨麿を中心とした偽史運動は軍人や右翼、政治家を巻き込んだ「神政復古」(という名の一神教化)を目指す一大政治運動だった。逆に戦後の新左翼の偽史運動は「天皇制」打倒を目指す政治運動だ。対極的だが同根。

〇偽史運動の目的は歴史を解明することではない。偽史とはある一定の政治目標を達成する為の道具である。歴史学の様に史料等から史実を確定していくのではなく、偽史運動では、まずある政治的目標が設定され、そこから逆算してその政治目標達成の為に好都合な「史実」が構成される。偽史運動即政治運動。

〇例えば「日本を騙るワンワールド」という政治目標を設定した場合、「太古、天皇は世界統治をなされていて世界天皇であらせられた」という「史実」が帰結される。「天皇制」打倒という目標が設定されると「大和朝廷は征服王朝」という「史実」が帰結される。政治目的から逆算して「史実」が導かれる訳だ。

〇特定の古代史史観を現状変革の根拠に直結させる者は、信用していない。右であっても、左であっても、何らかの「革命」を目指す勢力にとって偽史というのは途方もなく強力な武器たりえるのだ。こういうのに巻き込まれないためには、論者が学術的関心と政治的関心どちらに軸があるのか見極める事である。

〇例えば反日左翼の自虐史観は「反日亡国論」の影響下に成立したと思われる。左翼は日本の歴史を否定する文脈では「大和朝廷は外来の渡来系征服王朝だ」とする一方、朝鮮勢力を擁護する文脈では「侵略的な日本民族」とやる。つまり、この手の史観は日本を貶める事を目標とするご都合主義的な政治的言説なのである。

〇ツイッター含めネットは様々な「偽史」を掲げる勢力の草刈り場となっている。物語としては其々面白いが、「勧誘」の意図がありすぎてうさん臭すぎる。政治目的が前面に出過ぎなのだ。偽史勢力はその論の内容より、その論を広めることで何を遂げようとしているのかを分析するとどの辺の勢力か分かる。

〇「世界天皇論」「宇宙天皇論」という大本教・天津教系カルト偽史勢力は一発でうさん臭いと分かるが、新左翼系の偽史勢力は、一見反宗教なので、そう見えない場合が多いようだ。しかし、特定の歴史観を既成事実として、特定の行動に誘導しようという意図はカルトと同質なのだ。偽史は政治運動の武器。

事実かどうか分からない、もしくは捏造された「偽史」でもそれを信じる人が集団をなせば社会的力となる。カルト宗教と同じである。オウムはカルト教義の一部として偽史を含んでいた。信奉者が増えればその史観が事実を反映しているかどうかに関わらず、社会的力を持つ。野心家達は偽史を道具とする。


(了)




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by kokusai_seikei | 2015-10-23 07:26 | 陰謀解析 | Trackback | Comments(0)

仏教の教えの要旨と簡潔な魔術批判

〇仏教(特に原始仏教)の教えを平たく言うと「欲をかき過ぎたり人を恨んだりすると苦しみが生じろくなことにならならない。そういう負の感情、執着が苦の原因だから逆にそれを自制すると苦が減り、穏やかに生きられますよ(四諦)」という事だと考える。無常や縁起の観察もこの実践的な目的に帰結する。

〇「汝の欲する事をなせ」が魔術の根本理念と思うが、快の対象には貪欲、不快な対象は憎悪。魔術の効能の有無に関わらず、欲をかき過ぎたり恨み過ぎたりすると、唯識で言う「現行熏種子」でそれなりの人格となりろくなことにならない。原始仏教が魔術の類を否定したのは負の感情を増長させるからと思う。

〇所謂「悪魔教」「黒魔術」等への批判は西洋一神教では「アンチキリストだから」「悪魔崇拝だから」というドグマチックなものになるが、東洋思想では「貪欲や憎悪など負の感情を煽り心を汚すから」とシンプルに説ける。例えば魔術の効能の有無に関わらず、丑の刻参りをするような人が幸福なはずはない。

〇「丑の刻」は方角で言うと鬼門=うしとらの方角を表すらしい。「うしとらの金神」を拝む大本教周辺勢力は「鬼」(出口王仁三郎)を名乗る。「鬼」は「悪魔」と違い一日にしてならず。闇の歴史の中で恨みつらみを重ね、何かを呪詛する事で鬼と化す。鬼勢力と提携の国際秘密力も結局「貪瞋癡」である。

(了)


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by kokusai_seikei | 2015-10-23 07:25 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

度々仏教哲学を援用する理由

吾人が仏教哲学をよく援用するのは、それが西洋哲学より優れた論理的思考の用具・枠組みと考えるから。陰謀追及には論理的思考が必要だが、それを鍛えるには哲学が有効と思うものの西洋哲学はキリスト教や形而上学と表裏一体でドグマや信仰がこびりついておりそのままでは思考用具には不向きと考える。

〇一方、仏教哲学は原始仏教と初期大乗である中観・唯識が世界的に見ても大変優れた哲学となっている。唯識が生きた学派(法相宗)として残っているのは恐らく世界で日本だけである。日本人が論理的思考を鍛える場合、キリスト教圏の哲学より仏教圏の哲学を援用した方が本来馴染むのではないか?と思う。

〇仏教圏の哲学がキリスト教圏の哲学より論理的思考の枠組みとして優れていると思う点は二つ①人間の判断できる範囲を超えた形而上学については判断を敢えて保留し言及しない「無記」の姿勢②「無記」と関係するが、逆に断定を下す事柄は基本的に経験的論理的に確かめられた事象に限定する実証的姿勢。

〇前述の①②の理由から仏教哲学を西洋哲学より優れた枠組みと判断し度々援用している。西洋人が論理的に思考する場合に西洋哲学の枠組みを使うのと基本的に同じで、東洋哲学の枠組みを援用する訳である。仏教哲学と言ってもピンキリだが原始仏教と初期大乗(中観・唯識)が優れている。特に中観は凄い。

仏教は「無常」を説くが「世界全体は常住か無常か」という命題には「無記」の態度を取った。では仏教は何について無常を説いたのか?五感と思考で捉える経験世界(眼耳鼻舌身意・色声香味触法=十二処)について無常と説いたのである。断定は飽く迄経験的に確かめうる範囲に限定する徹底した経験主義。

〇日本人は論理的思考が苦手と言われがちだが、自らの風土に合わない西洋哲学を無理に援用しようとするからではないだろうか?西洋の哲学的枠組みはキリスト教文化圏で育まれたものであり、仏教文化圏に生きる日本人には基本的に馴染みにくい。だったら仏教文化圏の哲学を援用したらいいと思うのである。

〇形式論理学の同一律・排中律・矛盾律は西洋の形而上学と存在論が前提になっている。「AはA、Aは非Aでない」と言える前提は「Aは自己同一的な実体である」という事。この存在論的な前提が無い限り西洋の形式論理学は成立しない。

〇これは常に変化する現象世界では必ずしも成り立つ法則ではない。つまり、現象は時間的存在だから昨日のAと今日のAは微妙に相違する。だが、形式論理学では「時間」は捨象されているから、昨日のAと今日のAは区別されない。それは只の約束事だから問題は無いが、変化する現象と乖離する事は事実だ。

〇西洋の形式論理学が前提とする西洋独特の存在論を対象化・相対化する視点を得てこそ、形式論理学も有効に活用できるというもの。東洋伝統の哲学はその視点を提供してくれると考える。日本人が論理的思考を鍛えるには元々伝統的に馴染んできた仏教文化から資源を活用すべきというのが吾人の結論である。


(了)



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by kokusai_seikei | 2015-10-23 07:25 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

時間観に見る東西思想の違い

〇ズルワーンに見られる「時=絶対者」という中東思想。これに対置できるのが「時に別体無し」という仏教哲学の考え方であろう。法=現象的存在の推移に名をつけて「時」とし、「時」自体が独存するわけではない、という捉え方である。我が国にも「存在即時間」という道元禅師の「有時」の哲学がある。

〇存在する事物は全て時間的に推移するので、「時」を別体として立てると「時」はいかにも万物を支配する「絶対者」の様なイメージになる。だが、具体的な現象的存在を離れて「時間」というものが独存するわけではないだろう。時を表す絶対者とは単なる抽象概念。事物に抽象概念を先行させた転倒である。

〇そういえば神道には空間を象徴する神(天御中主神)はいるが、時間を象徴する神がいない様な。「時に別体無し」の仏教とある意味同じである。「年神」はいるが、これは具象的な穀物の実りと結びついている農耕神である。抽象的な純然たる時間を象徴する神はいないと思う。ここが中東の信仰との違い。

(了)

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by kokusai_seikei | 2015-10-14 23:45 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

出口王仁三郎の「神」観

〇まるでカトリック。キリシタン神学の影響を感じる→出口王仁三郎「祈りは天帝にのみすべきものである。他の神様には礼拝するのである。私はそのつもりで沢山の神様に礼拝する、そはあたかも人々に挨拶すると同様の意味においてである。誠の神様はただ一柱しかおはしまさぬ、他は皆エンゼルである。」
http://www.onitama.net/modules/ot/index.php?content_id=10

〇出口王仁三郎の考えでは「神」とはただ一柱であり、それ以外は全て「エンゼル」(天使)だと。「天地の創造神」というキリスト教的な神を導入しつつも多神教の枠組みを一応維持していた平田派神学をさらに超えて一神教化させている。完全にキリシタン神学であり、少なくとも神道や仏教以外の何かだ。

(了)

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by kokusai_seikei | 2015-10-14 23:04 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

「無力増上縁」という考え方はNWOに対抗する発想のヒントになる

〇「人に迷惑をかけない」は無責任で縁起に悖る教えとおっしゃる方がいたが違うと思う。一口に縁起と言っても「因縁・所縁縁・等無間縁・増上縁」の四縁がある。このうち増上縁は有力増上縁と無力増上縁に分けられる。有力増上縁とは他が存在するのに積極的に関与する間接的原因・条件=縁である。無力増上縁とは他が存在するのを妨げない原因・条件=縁である。つまり「人に迷惑をかけない」とはそうすることで「他者が存在するのを妨げない」という立派な「無力増上縁」である。人に迷惑をかけない=無力増上縁の現成である。

※「因縁」とは物事の直接の原因としての縁。「所縁縁」とは認識対象としての縁。何かを認識する場合、その認識対象が所縁縁にあたる。「等無間縁」とは常に刹那消滅しつつ相続する心相続において、現瞬間の心の原因となる一瞬前の心。先行する心と現在の心の間に間隙がないから「無間」という。「増上縁」とは間接的な原因・条件の全て。物事の生起・存在を妨げない事も含む(無力増上縁)。

〇仏教の「他を妨げない縁」という無力増上縁という考えはすごい発想である。縁というと何か積極的なものを連想するが、それだけではなく、何かが存在する事を妨げない存在も縁と捉える。そういう意味では、銀河の果てにある塵芥も自分の存在を妨げていないという意味で「縁」があるということになる。何でも積極的に関与して結びつけるのだけが「縁」ではない。これは「博愛」や「正義」で偽装して多様な文化圏に介入して引っ掻き回し、それらを破壊した上で全世界を画一化していこうというワンワールド的発想に対抗できるアイデアだ。

〇超国家的権力が介入するのではなく、それぞれの国・民族・地域がそれぞれ主体的に国家や文化を営んでいく。それは相互の「絶縁」ではなく「無力増上縁」なのである。そういう発想が可能となる。先哲が残した遺産にはNWOに対抗する叡智が秘められている。


(了)

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by kokusai_seikei | 2015-10-13 22:53 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)