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破「唯物論」を試みる

以前自分の宿題にしておいた「唯物論」についての考えを述べようと思う。


唯物論とは一体何なのか。人間にとってたち現れる「物質」とは常に視覚なり触覚なりの感覚である。そしてその都度の感覚を「物質」という言葉を通して観念的に抽象化すると「物質」という認識が生まれる。常に感覚という形で物質を覚知する人間にとって感覚から隔絶した純粋質料としての「物質」は永遠に彼岸の彼方だ。未だ感覚されない物質と言えども常に「感覚されうる」可能態としてそこにある。極微の世界と言えども電子顕微鏡などの感覚器官の延長を介せば認識されうるわけであるから同断である。未だ具体的な感覚となっていない「物質」と言えども感覚器官でとらえれば認識対象として確定するわけであり、人間にとっては認識作用や感覚から完全に離れた無関係なものとしてそこにあるわけではないのである。


認識主体と認識対象は便宜的に分けられるものの別に主観と客観で別次元にあるわけではなく主客は相互依存しており本質的には一体でありそれは総世界的な連関体である。蛇口を捻れば水が出るのは単に蛇口が水を出すのではなく水道のシステム全体が機能しているから水が出るのである。認識もこの水道システムと同じことが言えるのではないか。もともと認識主体と認識対象が全体で一体の仕組みだから個々の認識がその都度成立する(蛇口から水が出る)のではないか。まさに絶対的に孤立した存在の不在を意味する「空=縁起」である。空=総世界的連関機構において認識が成立する。かかる主観と客観が一体をなして成り立っている総世界的連関体のある一部である認識における対象面、つまり「認識対象」のみを無理矢理取り出してそれを独存するものとして扱いしかも唯一の実在だとする、そういう操作的過程を経ないと唯物論のような実在論というのは出てこない。


つまり人間にとって原基的な場面というのは主観と客観が一体である認識そのもの(唯識用語で言うと見分と相分が自体分において一つである「識=認識作用」そのもの)であり、認識主体=見分であるとか認識対象=相分であるとかはのちに反省的に措定され観念の上で分岐してくる。全く認識主体から隔絶した外界の実在ありとする唯物論に代表される実在論的世界観というのは全然「客観的」ではなく既にして加工の産物である。だから認識や感覚の彼方にある純粋質料としての「物質」を唯一の実在とする唯物論というのは基本的に形而上学だと思うのである。


人間にとり感覚を超えた彼岸の彼方にある「物質」が唯一の実在だとする唯物論というのは、変化しない実在から変化する現象世界が創造されたり流出したりするとする、それ自体大矛盾を抱えた一神教や神秘主義と同類の形而上学ではなかろうか。唯物論者の振る舞いは一神教徒などとよく似ている。根源の物質から精神が産出される、という物言いは「種子から芽が出る」という物言いに似ている。種子から芽がでるのは種子に種子としての自性がないからである。もし自性があるなら種子はいつまでも種子のままである。「物質」にしろ何にしろ「実在」という考え方と変化という現象は矛盾する。種子が因縁生無自性であるから芽が出るのである。同じように「物質」に物質としての自性が無いから「精神」が生じ、「精神」に精神の自性がないから物質を認識できるのである。物質に物質の自性があるなら永遠に物質のままであって、精神を生じることも精神に認識されることもあり得ない。


東洋思想で説かれる物心一如とはそういうことだ思う次第である。近代合理主義からは古代的迷信のように見えるかもしれないが実は近代主義の立脚する形而上学的な物心二元論こそが迷信であって、物心一如論の方が合理的である。西洋思想は基本的に非合理で不可能なものが多い。


唯物論が何故ダメなのか。それは人間にとっての具体的な世界は感覚や質感や感動(良くも悪くも)に満ちたものであるのにそう言ったものを捨象して単なる抽象的で無機質で荒涼とした「物質」の世界と妄想することになるからである。かかる世界には情も感動も道義も芸術もへったくれもないであろう。本居宣長先生のおっしゃる「漢心」とはかかる感動や情動つまりもののあわれに満ちた「事」の集積である現実世界を抽象的に理念化してとらえる暴力性のことを突かれたのであろう。具体的で質感に満ちた「事」の世界を抽象的な「理」で征する朱子学が主に想定されていた。


華厳仏教の四法界の説(思想分類モデルとしても有効)でも理念・抽象的な真理のみの「理法界」は下から二番目の評価しか与えられていない。イデア説などはまさに下から二番目の典型である。一神教にしても神秘主義にしても西洋の宗教や思想は下から二番目が多い。下から二番目教である(合掌)。理念・理法・真理・法則性というのは決して彼岸的に抽象的には存在せず具体的事物を通してしか存在し得ない、というか具体的な事物の「あり方」そのものをそういった名称で呼ぶのみである。まず真理がありそこから現象が出てくる、というプラトニズムなどの発想は現実のプロセスを顛倒している。実際にはまず現象が認識されその現象の動きの規則性が発見されて、そこに「真理」という言葉を貼りつける、というプロセスである。現象の観察からしか「真理」なるものは導き出せない。なぜなら「真理」とは現象の規則性のことだからである。人生哲学も人生を実際に生きてみないと見いだせない。


華厳哲学の用語を借りて言う。「真理」とか「法則」というのは言葉で仮に立てられたまでであり現実にあるのは事=現象のみ。しかしそれは既述のように無原則なカオスではなく理=真理=法則性=理法界というあり方をする。従って現象と理法が一体となった理事無礙法界。だが究極的には理=法則性は事=現象に完全に溶け込み意識されない。事即理(色即是空、現象即実在)ならばもはや敢えて理を殊更に言う必要はなくなるのである。よって理を敢えて言挙げせずとも個々の現象が独自性を保ったまま相互に相即円融する事事無礙法界となる。「和」が実現した状態である


人間にとって永遠の彼岸である「物質」を唯一の実在とする唯物論は、同じく「天上の造物主」(宇宙に上も下もない)という彼岸を説きこの豊かな現象世界をそれに隷属させ貶め縛り付けようとする一神教と何ら変わることがない形而上学である。一神教も唯物論もこの現象世界を不当に貶め痛め付ける点で全く同じなのである。一神教・神秘主義の英国メーソンも唯物論・無神論に立つ仏蘭西メーソンも同根なのだ。彼らが分進合撃的な競争的努力の先に目指す世界は荒涼とした死の世界である。思想の面からもそう言えるのではないか。


(了)

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by kokusai_seikei | 2014-08-11 00:08 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

唯物論について考える

唯物論とは一体何なのか。人間にとってたち現れる「物質」とは常に視覚なり触覚なりの感覚である。そしてその都度の感覚を「物質」という言葉を通して観念的に抽象化すると「物質」という認識が生まれる。常に感覚という形で「物質」を覚知する人間にとって感覚から隔絶した純粋質料としての「物質」は永遠に彼岸の彼方だ。今だ感覚されない「物質」と言えども常に「感覚されうる」可能態としてそこにある。極微の世界と言えども電子顕微鏡などの感覚器官の延長を介せば認識されうるわけであるから同断である。未だ具体的な感覚となっていない「物質」と言えども感覚器官でとらえれば認識対象として確定するわけであり、人間にとっては認識作用や感覚から完全に離れた無関係なものとしてそこにあるわけではないのである。


認識主体と認識対象は便宜的に分けられるものの別に主観と客観で別次元にあるわけではなく主客は相互依存しており本質的には一体でありそれは総世界的な連関体である。蛇口を捻れば水が出るのは単に蛇口が水を出すのではなく水道のシステム全体が機能しているから水が出るのである。認識も同じことが言えるのではないか。もともと認識主体と認識対象が全体で一体の仕組みだから個々の認識がその都度成立する(蛇口から水が出る)のではないか。まさに絶対的に孤立した存在の不在を意味する「空=縁起」である。「空」=総世界的連関機構において認識が成立する。かかる主観と客観が一体をなして成り立っている総世界的連関体のある一部つまり「認識対象」のみを無理矢理取り出してそれを独存するものとして扱いしかも唯一の実在だとする、そういう操作的過程を経ないと唯物論のような実在論というのは出てこない。つまり人間にとって原基的な場面というのは主観と客観が一体である認識そのもの(唯識用語で言うと見分と相分が自体分において一つ)であり、認識主体=見分であるとか認識対象=相分であるとかはのちに反省的に措定され観念の上で分岐してくる。全く認識主体から隔絶した外界の実在ありとする唯物論に代表される実在論的世界観というのは全然「客観的」ではなく既にして加工の産物である。


 だから認識や感覚の彼方にある純粋質料としての「物質」を唯一の実在とする唯物論というのは基本的に形而上学だと思うのである。変化しない実在から変化する現象世界が創造されたり流出したりするとする、それ自体大矛盾を抱えた一神教や神秘主義と同類の形而上学ではなかろうか。根源の物質から精神が産出される、という物言いは「種子から芽が出る」という物言いに似ている。種子から芽がでるのは種子に種子としての自性がないからである。もし自性があるなら種子はいつまでも種子のままである。種子が因縁生無自性であるから芽が出るのである。同じように「物質」に物質としての自性が無いから「精神」が生じ、「精神」に精神の自性がないから物質を認識できるのである。物質に物質の自性があるなら永遠に物質のままであって、精神を生じることも精神に認識されることもあり得ない。東洋思想で説かれる物心一如とはそういうことである。近代合理主義からは古代的迷信のように見えるかもしれないが実は近代主義の立脚する物心二元論こそが迷信であって、物心一如論の方が合理的である。西洋思想は基本的に非合理で不可能なものが多い。


 唯物論が何故ダメなのか。それは人間にとっての具体的な世界は感覚や質感や感動(良くも悪くも)に満ちたものであるのにそう言ったものを捨象して単なる抽象的で無機質で荒涼とした「物質」の世界と妄想することになるからである。このような世界には情も感動も道義もののあわれも芸術もへったくれもないであろう。本居宣長先生のおっしゃる「漢心」とはかかる感動や情動つまりもののあわれに満ちた「事」の集積である現実世界を抽象的に理念化してとらえる暴力性のことを突かれたのであろう。華厳仏教の四法界の説(思想分類モデル)でも理念・抽象的な真理のみの「理法界」は下から二番目の評価しか与えられていない。イデア説などはまさに下から二番目の典型である。一神教にしても神秘主義にしても西洋の宗教や思想は下から二番目が多い。下から二番目教である(合掌)。理念・理法・真理・法則性というのは決して彼岸的に抽象的には存在せず具体的事物を通してしか存在し得ない、というか具体的な事物の「あり方」そのものをそういった名称で呼ぶのみである。まず真理があり、そこから現象が出てくる、というプラトニズムなどに見られる発想は現実のプロセスを顛倒している。実際にはまず現象が認識されその現象の動きの規則性が発見されて、そこに「真理」という言葉を貼りつける、というプロセスである。


 「真理」とか「法則」というのは言葉で仮に立てられたまでであり現実にあるのは事=現象のみ。しかしそれは既述のように無原則なカオスではなく理=真理=法則性=理法界というあり方をする。従って現象と理法が一体となった理事無礙法界。だが究極的には理は事に完全に溶け込み意識されない。事即理(色即是空、現象即実在)ならばもはや敢えて理を殊更に言う必要はなくなるのである。よって理を敢えて言挙げせずとも個々の現象が独自性を保ったまま相互に相即円融する事事無礙法界となる。人間にとって永遠の彼岸である「物質」を唯一の実在とする唯物論は、同じく「天上の造物主」(宇宙に上も下もない)という彼岸を説きこの豊かな現象世界をそれに隷属させ貶め縛り付けようとする一神教と何ら変わることがない形而上学である。一神教も唯物論もこの現象世界を不当に貶め痛め付ける点で全く同じなのである。一神教・神秘主義の英国メーソンも唯物論・無神論に立つ仏蘭西メーソンも同根なのだ。彼らが分進合撃的な競争的努力の先に目指す世界は荒涼とした死の世界である。思想の面からもそう言えるのではないか。

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by kokusai_seikei | 2014-08-06 11:18 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

国際秘密力が国家攻略に使う二つの戦術

 国際秘密力が侵略戦争以外の方法である国家を攻略する場合、二つの方法があると思う。「革命型」と「憑依型」である。


 まず「革命型」であるが、これは標的とした国の内部に反体制分子を育成して、正面から国家を破壊する場合である。仏蘭西革命や社会・共産主義革命がその典型である。おそらく原型は、バチカン・イエズス会が行った、キリスト教宣教師を送り込み改宗者を増やして軍隊を組織し現地政府を転覆させる、というやり方であろう。これは戦国期に我が国も仕掛けられた。アダム・ヴァイスハウプトはイエズス会の出身者で、イルミナティの組織構成はイエズス会の軍隊組織(創設者のイグナチウス・デ・ロヨラは元々軍人)を模したようなのでイルミナティやそれが浸透した大東社の革命戦術路線はイエズス会に原型があるように思う。しかしこの「革命型」は標的になった国家が脆弱であるとか、多様な勢力に分散して相互に争っているとか、為政者の悪政によって民衆の不満が極度に鬱積しているとか、そういう諸条件が無い、もしくは作り出さないと成功しにくいであろう。しかも革命理論の製造及びプロパガンダ、暴力を集約的に行使するための反体制分子の組織化等々、大きな手間がかかる。もともと正面から、ある一つの文化共同体の成員の思想を改変し国体(伝来の国家社会の形態)を破壊することは難しいことなのだ。


 だからもう一つの「憑依型」戦術が出てくる。これは、現地国家に元からある伝統や文化に憑りついて別の物に変貌させる、という形で行われる。これは、革命のようにあからさまには行われず、徐々に進行されるため気付かれにくく、現地人からの警戒や反発を最小限に回避しつつ、いつの間にか占領された状態が現出している、という恐るべきものである。歴史を観察すると日猶同祖論のように「お前達のルーツは我々だよ」と精神的に屈服させるやり方(○猶同祖論は世界各地にある)や伝統的思想を換骨奪胎して別のものに変えてしまうやり方などがあることがわかる。特に後者についてであるが、文化を構成する主な因子は言語だと思うが、その言語で表されるさまざまな文化的概念を改変することで、現地の文化を別のものに変えてしまうわけである。「神」という表記、「カミ」という音声、が示す概念内容をキリスト教的な造物主概念で置き換えるようなことである。文化はそれを構成する重要な要素である言語の概念内容が変われば変貌してしまう。自生的に生成してきた伝来の文化が外国勢力によって変改されることは、外国勢力による人為的な文化支配が完成することを意味する。そして文化のあり方と密接不可分な思考言動の習慣が変えられ、それによって形成される国家社会の構造が変貌し、いつの間にかもとからあった独自の文化・国体は消滅している。


 日本が中国や印度の文物・思想を移入しながら、独自性を失わなかったのは、もともと日中印の文化に汎神論の伝統という共通した大枠がありそれによってスムーズな文化移入が行われたからだと考えている。平田派のキリシタン神学密輸はその大枠そのものから逸脱した。がこれはまた別の話である。


 正面から向ってくる「革命型」の場合は、その国家や文化共同体がある程度安定していれば、防ぐことはたやすい。今やマルクス・レーニン主義者、左翼過激派の言い分をまともに受け取るのは少数派の中の少数派である。だから左翼は偽装転向したり、エコロジーや人権運動、「歴史認識問題」の形を取らざるを得ないのである。(とり憑く対象が伝統ではないとはいえ、一般的に受け入れられているエコや人権擁護を利用するという点で「憑依型」と言える。人間の「良心」を利用するわけである。)

 しかし、ステルス戦術で徐々に内部破壊を遂行する「憑依型」戦術は、伝統を重んじる心や愛国心すら利用するので、きわめて巧妙である。本来は伝統を護持し愛国心を持って国を守ろうと志すはずの保守愛国勢力は親米派と反米派に分かれつつ統一・大本というカルトの影響下に組み込まれている。統一、大本というのは一神教がベースのカルトであり、日本の伝統思想とは絶対に相容れないはずなのに、一神教カルトのお先棒を担ぎつつ日本主義を呼号するという矛盾である。そして戦前から意図的に流布されたおかしな日猶同祖論が罷り通っている。保守層を標的にした一連の思想ギミックである。保守陣営の一部には熱烈な親イスラエル一派がいる。渡部悌治先生の御著書によると日猶同祖論の資金源の一つが大本教だそうである。そのような工作の結果、共産中国に長年武器援助してきたイスラエルを翼賛しつつ反中国の主張をする、という両建マッチポンプが実際に起こっている。


 このように、自分は愛国者のつもりでいるのに、いつの間にか国家を破壊することに手を貸していた、そんなことが起こるのである。左翼の国家破壊行動を批判するのは大事だが、伝統保守の側にも魔の手が浸食していることを自覚しないと危ない。正面から来る「革命型」戦術は見えやすいので反左翼は多い。しかしステルスに遂行される「憑依型」戦術は見えにくい。だから偽装保守・カルト保守の批判はあまり多くないのが現状である。その結果が安倍極悪犯罪者仁風林ニセ内閣の横暴である。愛国心を利用した誘導の結果である。


 己の意思を強制し人間や自然を操作する技術体系が魔術だと思うが、愛国心をも利用して国家を破壊する戦術というのはまさに魔術以外の何物でもない。かかる発想は西洋の底知れない闇の中枢からしか出てこない発想である。まさに悪知恵も極まれりである。(了)

 

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by kokusai_seikei | 2014-08-06 00:41 | 陰謀解析 | Trackback | Comments(0)

日本人にとっての「宗教」について考える

〇神道や仏教について考察することから「宗教」とは何なのかについて考えてみたい。まずは神道であるが、神道の解説書などを読むと「神道とは自然崇拝と祖先崇拝が合わさったもの」「神道には教義はない」とよく解説される。これはその通り。人は自然から生み出され、自然によって生かされ、そして自然とともに生きていく。人は親から生まれ親もその親から生まれ、祖先に行き着く。この時間と空間に亘る存在の連関構造をしかと把握し、そこから生まれる感動、畏敬、愛着そういったものを作法化したものが「神道」と言われるようになった。言い換えると人間と自然の相互作用・感応から心に生まれる感動=もののあわれを作法化・形式化したものだとも言うことができる。だから形式以前に人間と自然の感応という原基的場面がある。る。ここが根底であり、両部神道、山王一実神道、伊勢神道、吉田神道、吉川神道、垂加神道など、のちの学派神道はこの原初的場面にできるだけ矛盾しない形で仏教や儒学などの用語や概念を借りながら後で作られた。(この場合は日本と中国、印度の精神文化が具体的な形は違えども、もともともっている汎神論的構造が鍵になると思うが。)だから神道に教義が元々ないのは当たり前なのである。


〇そもそも「宗教」とか「教義」とは何なのか。凝り固り絶対化された宗教教義があることがそんなに偉いことなのか?歴史を見てもむしろ弊害の方が多いのではないか?個人的には宗教教義というものは世界解釈のモデルだと考えている。人が世界を了解する上での一つのモデルであり「型」である。人がいかにこの人間存在を含む世界を了解し解釈するか。その解釈モデルが各種宗教なのではないか。だから自然とそこに各民族の傾向性や各個人(宗祖、教祖等)の傾向性が反映している。

〇神話も同じ範疇である。神話は事実かどうかというのは問題ではない。要はその民族の世界解釈つまり世界とはどのように開闢しどのようなものとして存在しているのか、存在の連関における人の立ち位置というものをいかにとらえるのか、人と自然・人と人の関係はいかにあるか、などそういった世界解釈全般についてその民族の考えが盛り込まれているか。そこに神話の価値が存する。だから神話は民族の数だけ存在し、民族の起源・ルーツも同じ数だけありえるのである。このことは渡部悌治先生のご著書に引用されていたある賢者の言葉から学んだ。まことにその通りだと思った。


〇一方仏教はまず苦という現実認識がありその苦を克服するにはどうすればいいかという実践的な問題意識から出発した。そのためにバラモン教のような伝承の学問に依らずに合理的に苦の原因が探求され無明=無知を根源とし対象の快と不快に応じて貪欲と憎悪として二様に現れる執着が原因だと解明した。そして執着を断てば苦が無くなると逆算され、執着を無くし平安に至る道(八正道)が説かれた。仏教は形而上学や教義学として始まったのではなく、いかにこの現実の苦を克服すべきか、という実践的・現実的な課題意識とともに始まった。仏教はのちに哲学として複雑化していくものの、その根底にはこの実践上の課題意識があるのである。苦と執着の依存関係ということが前提なので、縁起・空という一般的な道理が導かれる。したがって、苦の克服という究極の目的が達成できるのは苦もその一つであるこの世の事物が相互依存的に関係的に成り立っている=縁起・空ということが前提である。だからこの縁起・空を否定するような教義はもはや仏教ではなくなるのである。なぜなら縁起・空が否定されれば苦は常住不変の実体ということになり苦の消滅というのはあり得ないことになってしまうからである。様々に展開された仏教学派のそれぞれの教義の正否を分析する場合この「縁起・空」が前提とされているか否か、という視点が一つの指標になるのではなかろうか。


〇己も空・他も空、諸法=万有は同じ空という道理の上にあるので、己の身に引き比べて生類を傷つけてはならない、という慈悲の心が導かれる。形而上学を用いない道徳律、これは「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」という孔子の道徳律と並ぶ東洋の黄金律であろう。通常黄金律とされる「自分がしてもらいたいことは人にもなせ」というイエスの教説は自分がしてもらいたいことと他人がしてもらいたいことが異なる場合があることが考慮されていないので黄金律とは思わない。薬物中毒者は自分がしてもらいたいことを他人にしてはならない。


神道も仏教も種類は違えど西洋的な意味における「宗教」(コチコチに凝り固まり絶対化した妄想的教義の塊)ではない、と考える。西洋人や自虐的日本人から「日本は無宗教」と言われたらそれは褒め言葉であろう。西洋人というのは何事も自己中心的である場合が多いのでキリスト教を前提にした宗教観で「日本には宗教がない」などと言っても、それは迷信に凝り固まった立場からの幼児の戯言なので気にする必要はない。太田龍氏も太田氏がよく引用された胡蘭成氏も共通して日本には(故蘭成氏の場合は日本と中国)宗教はなかった(もちろん肯定的に)、との論であるが、この点は同感である。一切の横断を許さない絶対的教義も基づく組織宗教というのは西洋的である。結社的宗教ということである。


〇一方、ワンワールドとか万教帰一という考え方は、各種の固有の解釈モデルを破棄し、特定の教義に統一・絶対化する、ということである。一つの解釈モデルしか認めないという発想である。フリーメイソンの前衛部隊である新人会の「新人」とは祖先や自然との連関と切り離した新しい人間に生まれ変わるという意味であり、神との契約で新たな命を授かる、とするキリスト教も同じ類である。要するに時間と空間に亘る存在連関を断ち切り固有性を捨てよと強制するわけである。


〇しかし特定の教義=解釈モデルを絶対化するのは愚かなことである。宗教教義も神話も、解釈モデルというのはどれが絶対ということはない。この点、古来より日本人はこの構えをずっととってきたのではないか。思想や宗教に対する日本人にとってよく根付いた一つの精神態度というものがある。


〇神社に参拝し、お寺にもお参りする。これをもって西洋人は無節操だと批判するが、しかし解釈モデルを絶対化する方が愚かではないのか?後付で考えた解釈モデルを絶対化し、多くの悪行を犯してきたのが西洋の精神史である。西洋精神史上の悪行としては、アレクサンドリア図書館の破壊、改宗を拒む古代ゲルマン人族長の大量虐殺、魔女狩り、異端審問、宣教師を前面に立てた海外侵略、数え上げたら切がない。西洋人はなぜかくも非寛容になったのか?それは世界解釈のモデルを絶対化したからだと考えるのである。


〇日本には各種流派学派神道や仏教宗派があり僧兵の横行などそれなりに小競り合いはあったものの、概ね共存して今に至っている。その秘訣は古来より日本人の中に「宗教教義=言挙げは世界解釈のモデルに過ぎない」という根本的な構えがあったからではないか。そういう仮説を立ててみた次第である。を磨くために神道も学び仏教も学び儒学も学び老荘も学ぶ、という石門心学の石田梅岩先生に典型的に表れる構えである。これは日本人全般が本能的に保持してきた構えではないかと思うのである。以下思いつくままに具体例を羅列する。

〇真言僧でもある西行法師は伊勢神宮に参拝し感激「何ものの おわすものかは知らねども かたじけなさに涙あふるる」と詠む、叡尊・忍性等鎌倉時代の仏僧は神国思想を高揚し蒙古調伏の祈祷。鎌倉仏教の一遍上人は踊念仏を行じながら神祇信仰も重視。道元禅師の永平寺と白山神社は密接な関係。上杉謙信は幼少期から林泉寺で禅を修行し上洛時には大徳寺で参禅、戦陣では儒学でも説く「義」を掲げ、高野山では真言密教を学ぶ。豊臣秀吉の伴天連追放令では日本は神国であることと仏教が行われる地であることが同時に語られる。「日本は神国である。仏法を妨げるな」と伴天連共に通告。徳川家康は浄土宗を信仰して幡随意白道上人に帰依し、天台宗の高僧天海僧正をブレーンとし、儒学者林羅山を起用して朱子学を奨励、死後は東照宮に祭られる。金地院数伝という臨済僧に宗教政策を立案させ、一度己に反抗した元一向宗徒の本多正信を謀臣に起用。沢庵禅師の弟子柳生宗矩を剣術指南役となし柳生新陰流を幕府御家流とす。江戸初期にキリシタン教化に九州に赴いた幡随意上人は途中伊勢神宮に参拝し対キリシタン戦の成功を祈願、仁王禅を唱えた鈴木正三道人は聴者の機根に応じて禅も念仏も勧める、熊沢蕃山は陽明学を学びつつ天地自然の道としての神道を唱えるに至る、数えるときりがないのでここら辺でやめておく。


〇日本人は神・儒・仏なんでも学ぶという、「無節操」とそそっかしい西洋人が言うようなことが可能なのは特定の宗教教義を絶対化せず、どれも一種の解釈モデル=言挙げであり、どれも己を磨く砥石のようなものと受け取っているからだと考えると一つの説明がつく。石田梅岩先生の求道ぶりが典型。


〇共存が壊れるときはきまって教義を絶対化した一派が登場するときである。戦国時代のキリシタンや明治初期の平田派などである。もともと人間と自然の感応・感動=もののあわれを作法化したものである神道をキリシタン神学と無理やり接合し、宗教化してしまったのが平田派である。平田篤胤は鈴屋学派(本居宣長直系)からは極めて評判が悪かったそうである。キリシタン宗的な死後の世界等言挙げによってあれこれ形而上学的な教説を作るという宣長先生がもっとも嫌ったことをしたことに憤ったのであろう。検証不能な形而上学をこさえた平田篤胤はさかしらを用いすぎた。


〇平田派の系譜から大本教が出、各種神道カルトの源流を成している。出口王仁三郎は恐らく平田派の教学の影響も強かったであろう明治期の皇典講究所で学んでいる。また幕末期に平田国学を学んだ本田親徳の鎮魂帰神法の影響を色濃く受けている。平田派と大本系神道カルトはかくして接続している。大本系カルトの根源には平田篤胤による神道のキリスト教的宗教化がある。教義をつけるだけならいいが、自己絶対化と不可分のキリシタン神学を密輸入するのは禁じ手である。儒・仏・道・陰陽思想、等を取り入れるのとキリシタン神学を密輸入するのでは意味が全く違う。


解釈モデルを絶対化するのがよくないというのは宗教に限らず科学思想にも言える。科学は要素還元主義という方法論があってこそはじめて成立したものだが、あくまでも方法論という所を忘れて、近代以降の西洋人は現実に孤立した要素の複合でこの世界が形成されている、と盲信するようになった。しかし現実には諸事物は相互依存し関係的に成立している。孤立的実体的に存在している事物は見つからない。要素還元主義はアトミズムと言い換えてもいいと思うが、これは自然科学だけではなく社会思想にまで拡大されて、社会契約論のような思想が作り上げられた。社会契約論はアトムとして孤立した個人を複合することで社会を構築するという発想である。近代科学の方法論を社会に適用したわけである。理性の規則に従い孤立した要素を複合して万物が形成されるという信念は政治思想に適用されて革命思想になっていく。イルミナティ思想はこの本流と謂えよう。しかしこの革命思想は解釈モデルを現実そのものと取り違えた誤謬から出発しているので結局成就することはない。解釈モデルを絶対化し現実に適用すると、かならず現実と齟齬を来し、無理に一致させようとすると暴力と流血を生む。フランス革命やロシア革命のとおりである。


〇このようにプラトンのイデア説以来、観念的なモデルを優先させ現実世界をそこに屈服させようという傾向が西洋には根強い。西洋の宿痾とも言うべき傾向である。これは唯物論とて例外ではない。唯物論とはキリスト教やプラトニズムと同種同根の観念論だと考える。唯物論について後日述べる。


(了)

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by kokusai_seikei | 2014-08-01 23:47 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)