<   2014年 07月 ( 2 )   > この月の画像一覧

二系統の大亜細亜主義と日支闘争の根源的構造

 現在の日中対立に至る歴史的遠隔を「大亜細亜主義」の分析をヒントに考えたみたい。大亜細亜主義に二種類あり。一つは孫文型。一つは章炳麟型。前者は孫文はキリスト教を信仰・フリーメイソン的西欧型民主思想(孫文はブナイブリスの会員という説があるが、もし事実なら中国系猶太人ということになる)の三民主義。ちなみに孫文の後継者蒋介石もキリスト教の洗礼を受けた。孫文型は思想を見てもわかるように西洋に妥協的であり基本的に世界連邦東亜支部としてのアジア主義である。熊楠先生の「願わくはわれわれ東洋人は一度西洋人を挙げてことごとく国境外へ放逐したきことなり」という言葉に畏れをなした孫文であった。


後者の章炳麟型は考証学・老荘思想・唯識・華厳仏教という伝統思想に基づく伝統的攘夷思想。西洋に対する攘夷において扇の例えを用いて日中印の共闘を説くが伝統的民族主義だから東亜を一つに統合などという発想と無縁(満洲は漢民族の領土ではないと認識し、満洲民族は満洲に帰るべきと主張)。反西洋が主眼となる。


お互いに革命の三尊と言われながら生涯に亘る論敵同士だった孫文と章炳麟。政治的には孫文の路線が勝利することなり、それは連ソ容共を経て、主に周恩来(大東社)や鄧小平(客家)などフランス帰りの留学生を中心に結成された中国共産党(大東社的な無神論・唯物論・集産主義・反君主制思想の流れ)の大陸奪取へと続く流れを形成することになる。かくして中国大陸は大東社系の集産主義・無神論・唯物論に占拠される。その影響力は北朝鮮に侵入し独裁国家を樹立、我が国の左翼勢力にも甚大な影響を与える。


一方日本は明治以来権力の中枢を握ってきたのは親英米派=英国メーソン系である。大久保利通→牧野伸顕の系列である。大久保は岩倉使節団で外遊中に数か月間英国に滞在。帰国後それまで竹馬の友だった大西郷と対立。この間何があったのか。英国支配中枢が当時対ロシア戦略の橋頭堡として利用せんと目論んでいた大日本帝国のトップが数か月間も英国に滞在していてロスチャイルドが近づかないわけはない。


 親英米派は英国的な自由主義思想を唱えながら、一方で伝統を換骨奪胎し、西洋的なものに変えようとする策動。明治以後の御皇室周辺へのカトリックとクェーカー人脈の包囲を見てもその「憑依型」戦術が分かる。戦後もそれは続き東宮参与としてクリスチャンの小泉信三が蟠踞奉り、カトリックの濱尾文郎枢機卿の実兄でカトリック信徒の濱尾実が東宮侍従に。純正愛国陣営の先覚が既に大正時代から深く憂えておられたように、御皇室周辺のキリスト教勢力の多さはまことに異常である。日本の人口にキリスト教徒が占める割合は1%未満である。それなのに御皇室周辺におけるキリスト教関係者の数の多さは日本全体における耶蘇人口比と全く釣り合わない密度である。意図的なものを感じるのも当然というものだろう。戦後、フリーメイソンのマッカーサーは御皇室をキリスト教化し奉ろうとしたそうだが、幕末維新以来の執拗な策動の継続を見ても、国際秘密力の対日侵略の最終目標が御皇室の完全なキリスト教化(憑依型戦術の究極目標)に据えられているのは間違いないのではないか。深く憂え申し上げる次第である。


さて、親英米派の流れは岸信介などの満洲人脈と絡みながら現在の安倍ニセ政権につながっている。(例:麻生太郎氏は大久保利通・牧野伸顕の血を引く上にカトリック信徒でスコッチメーソン吉田茂の孫。まさにサラブレッド)満洲人脈の中には河豚計画に関与した新興財閥系の鮎川義介や親猶太陰謀論者の陸軍の安江仙弘大佐、海軍の犬塚惟重大佐などがいる。鮎川の義弟の久原房之助が皇道派青年将校の226事件の有力資金提供者である。皇道派には大本教が絡む。皇道派の重鎮秦真次中将は中佐時代に大本教に入信、皇道派と近い山本英輔海軍大将は大佐時代に有名な秋山真之と一緒に大本教を訪問。秋山は熱心に大本教を信仰、大本信者かどうかはよくわからないが大本系の思想を信奉したらしい山本英輔大将も広い意味で大本人脈と言えるだろう。


戦前においては三井・三菱系の大財閥と日産・日立などの新興財閥系の両建構造があったようであるが、大財閥系の親英米派・統制派と、新興財閥系の皇道派・満洲人脈の両者の流れの複合体が今現在の支配層につながっていると推理する。保守陣営において統一系と大本系が両建構造(根は一緒)をなしているのはその反映ではなかろうか。思想的には保守政治家・保守系知識人を見てもわかるように、我が伝統思想を換骨奪胎したカルト及びカトリック系多し、一神教的・西洋神秘主義的な思想が幅を利かせる。イエズス会系の某保守系学者は同時に統一協会とも長年の昵懇の仲であると聞く。


米にはイエズス会系のジョージタウン大学の付属機関として設立されたCSISというネオコン系シンクタンクがある。ここがジャパンハンドラーズの牙城の一つとなっている。イエズス会とネオコン(猶太系が中心。言わずもがな)の繋がりが見える。ネオコンCSISの下僕で統一べったりの我が国の保守政治家・保守知識人にカトリックが多くみられるのはきっと偶然ではあるまい。


以上をまとめると、日本の支配層=西洋的有神論・西洋神秘主義・英国系メーソン 中国共産党=無神論・唯物論・仏蘭西系メーソン の両建構造が見えるように思う。


日中対立というのは日本の親英米派=英国メーソンと中国共産党(特に上海派)=仏蘭西メーソンの両建対立構造として解釈できる。日本国内における親米派・ネット右翼と左翼の対立も同じ構造で理解することができるであろう。某メーソン大幹部とされる人物は確かにネット右翼的言動をしている。


日本人や中国人の伝統とは無関係のところで日中対立が演出され血を流すとしたらこんな不幸なことはない。日本人も中国人も国際秘密力に汚される以前のお互いの真の伝統を探求し理解し復興させることが、実はもっとも根底的な日中友好の道ではないかと思う今日この頃である。おそらく章炳麟が唱えた攘夷とはまさにそういう反西洋としての攘夷であったのであろう。最初は伝統思想の立場から共産主義と日支闘争に反対していたが、のちに時代の流れに妥協し中国共産党の反日策動を肯定してしまったそうなので章炳麟をそこまで高く評価する気にはなれないが、孫文に比べるとはるかにまともな東洋型思想家だと思う次第である。


真の「攘夷」とは日本が中国(中国共産党ではない。)を攻撃し、中国が日本を攻撃することではなく、両方に浸食する西洋の奥の院の魔の手を打ち払うことではなかろうか。そしてどこまでも日本は日本、中国は中国であって、石原完爾の東亜連盟論(世界連邦東亜支部)のように一つになる必要はない。これは章炳麟も学んだ華厳哲学で言う「事事無礙法界」というものである。個別の事象が混ざり合わずしてそのままに調和するという理想である。罵倒しあったり、どちらかが卑屈になったりせず、それぞれが真に自国の伝統に誇りを持てれば真の友好になると思うのである。理想論だとはわかっているのだがそうなってほしいと願わずにはいられない。

(了)

[PR]
by kokusai_seikei | 2014-07-30 07:25 | 陰謀解析 | Trackback | Comments(0)

二元論について

久しぶりに八宗の祖龍樹に関する書を読んだ。灯と闇の関係性についての考察が印象に残った。そこから触発されて思い浮かんだことを書き記してみる。二元論についてである。以下思いつくままにつらつらと書いてみることにする。

 
光と闇の永遠の対立という二元論は成り立たない。光があるときは闇は無くなり、闇があるときは光が無いからである。光と闇は同時に存在できないから「光と闇の闘争」はないであろう。光にも闇にも自性はなく、それ自体で成り立ってはいない。光も闇もある一定条件のもとに成り立つ状態である。


同じことは善悪の観念についても言える。貪欲や憎悪に負けた心的状態とそこから来る行動を悪と呼び、貪欲や憎悪が制せられて適切な振る舞いができる状態を善という。「悪」は貪欲や憎悪に依存し、貪欲や憎悪は心に依存し、心は揺れ動き不変ではなく、無基底であり無相でありしたがって空である。空なる心の中に生ずる貪欲も憎悪も同じく空である。だからこそ貪欲や憎悪を制し善が実現できるのである。善悪を常住とする考え方は倫理を破壊する。善も悪もそれ自体で存在するとすると、善は修行や鍛錬、行動によって実現できる性質のものではなくなるからである。


善も悪も超越的に与えられるのであれば、人間の修行も努力も行動も無意味となる。人間の行動が関与せずに即自的に与えられる超越的な善悪ならば人間と無関係である。善悪を超越的にとらえるならばニヒリズムが帰結する。しかし本当は善悪も含めて因縁によって成り立つ事物はすべからく空である。不適切な心的状態や行動に名を与えて悪となし、その反対の適切な心的状態と行動に名を与えて善とする。本来は空なる変化の過程であり、状態であるところに名を与えると、名が示す概念が実体化され外部化されて、それが常住のものとして人間に立ち現われてくる。


この外部化され実体化された概念としての「善悪」に神話的色付けが与えられると「神と悪魔」という二元論的神話となる。そしてまず神と悪魔が存在し、そこから善悪がもたらされるという転倒した世界観が出来上がる。これは発生の順序が完全に逆さまになっている。


しかし宇宙の実相というものはそうではないであろう。万有は生成の過程であり、状態であり、条件づけられて存在している。その原因条件関係・状態変化の中から現れてくる、人間にとって相応しい事柄が善であり、ふさわしくない事柄が悪である。それは認識における形態と名称の認知と不可分である。それは人間の行動の善悪だけではなく、人間に恵みをもたらす自然の作用と、逆に災難をもたらす自然の作用についても当てはまる。道=太極の自然の全体作用の中に陰陽があるとはそういうことであると思う。陰と陽がバラバラに存在するというグロテスクな思想は東洋には無い。


善も悪も万有の生成過程から生まれる。本居宣長先生が「直毘霊」で述べられたように、神道で言う直日(穢れを払う神)と禍津日神(厄災をもたらす神)はすべからく産霊の神の生みなすところ、というのは大宇宙大自然のそういう道理を神話的に表現しているのである。生成とは同時に変化を意味する。変化のないところに生成は無い。変化しない実体は万有を生み出すことはできない。変化しない「実体」と生成変化を実相とする宇宙の大道理は矛盾する。荘子が言う「道」は天地の変化そのもののことである。易経で言う「一陰一陽これを道と謂う」も同じである。


変化しない「実体」から宇宙観を構築していく一神教も神秘主義も唯物論をはじめとする実在論も、変化する現象界の根底に不変の実体を想定するという矛盾を抱えている。変化しない「実体」には事柄が生じ起こり始める「起動」の兆しがないから、いつまでたっても変化する現象に至ることはない。変化する現象の根底に変化しない実体を据えるのは根本的に間違いである。起動や態様や状態という変化を持たない「一者」や「造物主」から現象界が生ずることは論理的にありえない。このような矛盾が根底にある一神教と神秘主義を両輪とする西洋思想はすべて不可能であろう。


19世紀後半くらいから少しく異なる傾向も出てくるものの、仏教の説一切有部によく似ているエルンスト・マッハなども、感覚要素という実体を立ててしまっているから同断であろう。フッサールの現象学「本質直観」というのもプラトニズム臭い気がする。20世紀以後の西洋思想は課題とする

(了)


 

[PR]
by kokusai_seikei | 2014-07-24 06:47 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)