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東洋思想と神秘主義の違いについて再考

人間と神が断絶していると考えるのが猶太・基督教=一神教であり、人間が神に「なる」「合一する」と考えるのが西洋神秘主義=フリーメイソン思想である。人間も万物も世界も最初から「かんながら」「悉有仏性」と考えるのが神道であり仏教である。つまり断絶を設けて、それが絶対に交わらないのが一神教であり、断絶を設けたうえで その二つが融合する・合一するとするのが神秘主義であり、最初から断絶を設けないのが神道・仏教である。


万物を気の変化と考える道教や気から構成される万物を理が貫くと考える宋明理学も同型である。だから神道は仏教だけでなく、道教や儒学とも習合することができたのであろう。基本的枠組みに共通性があるからだ。しかしインドのバラモン教、そしてそれより以西となってくると全く発想の根底が異なってくる。インドの仏教までは東洋文明、バラモン教=アーリア宗教以西は西洋文明と考えている。


神道・仏教は一神教と習合できないのはもちろん、西洋神秘主義とも習合できない。なぜなら神秘主義は「一者」のようなある特異点を設け、そこへの帰一を求めるが、神道や仏教は万物万象万有そのものに最初から神宿り、空性・仏性ありとするから、「帰一」も「合一」も必要ないのである。日本では山も川も海も草木から石ころに至るまで御神体であり仏身である。明恵上人の「島殿への手紙」のとおりである。明恵上人は国土を離れて毘盧遮那仏はない、国土そのものが毘盧遮那仏の身体だとされている。明恵上人の高度な華厳の哲学によって見事に縄文的神道アニミズムが理論化されている。


 また神道・仏教における人としての実践としては心を磨き妄想邪念を去り自己を整え、神ながら仏ながらの本来性を回復させるところに主眼がある。決して神秘的で異常な体験を求めたり超越的実在との「合一」を目指すものではありえない。神道や禅はいわゆる神秘主義とは違うと思うのである。この点禅を神秘主義だと規定した鈴木大拙氏の意見は大いに疑問がある。この人はスウェーデンボルグの紹介者であるから、微妙に西洋の匂いがするのである。鈴木氏の禅関係の本を結構読ませていただいたが、個人的にはあまりすんなり入ってくるものが無かった。西洋風のものをどうしても感じてしまう。


このように、「最初から断絶していない」と「断絶しているが合一する」はとてつもなく大きな違いだ。日本思想東洋思想と西洋神秘主義のこの大きな違いは閑却されやすく、スピリチュアル的メーソン的な加工を施された「神道」や「東洋思想」が世に横行している。前者はもとから一つなのであれば、多様なものをそのまま認めて敢えて一つにしようとはせず、ありのままに認めようとするが、後者は断絶しているものを一つにしなければならない、という衝動を伴う。前者は既存の国家・共同体や伝統文化を大事にするが、後者は国家を廃絶して世界政府を志向する。前者は山は山、川は川であり、後者は山を掘り崩して川を埋める、である。前者が曼荼羅的発想だとすれば、後者はワンワールド的発想である。前者は「各々所を得しめる」発想であり、後者は「世界を一つにする」発想である。この違いに気付くべきである。


 

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by kokusai_seikei | 2014-03-19 00:42 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

主客の一致の問題と我が伝統思想

主観と客観がいかに一致するのか?という問題は西洋近代哲学の難問であるが実はこの難問については我ら日本人の先哲が大きなヒントを残してくれていると思う。すなわち弘法大師の六大縁起思想である。六大縁起とは物質である地・水・火・風・空と精神である識が相即円融していて一体を成して宇宙を構成しているという思想である。認識とはそれぞれ異なる次元にある主観と客観が一致することではない。環境・感覚器官・意識という最初から連続する一系のシステムが機能することである。(このあたりは廣松渉の「四肢的構造連関」という認識論で現代的に精緻化されている。廣松氏は政治的には左翼だが、哲学者としては明らかに仏教の影響が色濃い)


六大縁起とはある意味「環境・感覚器官・意識」が一系のシステムであることを表したのではと解釈している。認識対象である「胎蔵界」=地・水・火・風・空と、認識主体である「金剛界」=識が一体である(金胎不二)とはつまり、認識対象と認識主体が一系のシステムであることを意味するのではなかろうか。認識対象と認識主体は一体のシステムなのである。(六大無礙にして常に瑜伽なり)(廣松哲学の「所与が所識として能識としての能知に対してある」という四肢的構造連関=事的世界観はまさにこの発想の現代的精緻化と言えるのではないか)


よくよく考えると認識とは主観である精神が、客観である物質に接触するというのではなく、感覚器官が対象に触れることで成立する。物質性を持つ感覚器官が、同じ物質性を持つ対象に接触することで、ある意味同一次元の接触であり、ここに精神と物質という全く異なる次元の接触という問題は起きない。そして感覚器官の感受作用は意識に最初から繋がっている。というか感受作用は意識内容そのものであると言える。感覚器官である「眼耳鼻舌身」が感受した内容である「眼識耳識鼻識舌識身識」はもとより「識」を構成する一部分なのだ。つまり最初から意識と感覚器官は一体であるのである。現に、仏教で用いる存在世界のカテゴリ分けの考え方である「十二処」では「十八界」で分ける眼根と眼識を一体として「眼」と表現している。「耳」以下も同じ。「色」などの認識対象を「境」というが、境・根・識はそれぞれ自性が空であり、相互依存する縁起性のものであり、一体のシステムである。


このように意識と感覚器官は一体であり、感覚器官が対象に接触することで認識が成立する。ここに主観と客観の一致という問題は最初から存在しない。主観」と「客観」というのは認識の一系のシステムのうち、便宜的に、より内部に感じられるものに主観と名付け、より外部に感じられるものに客観と名付けたに過ぎない。言葉に振り回され てはならない。


唯識でいう見分=主観と相分=客観である。見分も相分も同じ「識」が分化したのみでもとから「識」のうちで一体なのである。六大縁起思想では「識」は五大=地・水・火・風・空と円融していて、五大を離れて識は無いように識を離れて他の五大は無いのであるから、識」のうちに他の五大は含まれると考えてもさほど間違いではないであろう。唯識の思想と六大縁起思想には発想的にさほど距離はないと思うのである。事実、弘法大師は唯識の四智(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智)に法界体性智を加え五智としている。西洋思想の特徴は二元論であるが、主客二元論もその一つの現れである。主客二元論を超克するヒントも日本の伝統思想の中にある。ちなみに唯識教学は今も法相宗で研鑽されている。我が国が世界に誇る伝統の一つである。


ただ六大縁起思想には一つだけ欠点がある。それは空間性のみが記述されていて時間性は考慮されていないところだ。ここは道元禅師の有時の哲学と合わせると完全なものになる。有時とは存在=空間的なものと時間が一体不可分であるという意味である。時間は存在と一体であり、時間そのものには自性は無く空であるということである。つまり存在と時間が無礙に溶け合っている(無礙にして常に瑜伽なり)、とも表現できる。六大を仮に有=存在と名付け、有時の思想と合わせると空間と時間、すなわち万有を表す完全な宇宙哲学になる。


上記認識論を考える上で参考として取り上げた空海哲学と道元哲学、この二つはどちらも華厳哲学にベースがあるようだ。弘法大師は即身成仏義に「重々帝網なるを即身と名づく」と華厳的な表現があり、明らかに華厳を重視しているし、仏教学者である鎌田茂雄先生によると道元禅師の修証一等の考えは華厳の性起説から来ているとのことである。禅宗そのものの哲学的基盤が華厳であるそうなので真言密教も禅もともに華厳を母体 にして生まれたと言える。そして神道家でもある平泉澄先生がおっしゃったように華厳はまるっきり神道の哲学的表現とも言えるので、華厳は日本哲学の重要な「萃点」の一つと言える。


ちなみに仏教哲学を科学の方法論として再構成した南方熊楠先生は那智山中において修行とも言える研究生活を送っておられた時持ち込んだ書籍の中に華厳経があったようだ。熊楠先生の宇宙を無限の関係性の網ととらえる科学哲学やたくさんの理=法則性が交錯する「萃点」という考え方はまさに華厳的である。


(了)

 
 

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by kokusai_seikei | 2014-03-18 01:22 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

仏教思想と新プラトン主義的思想の違い

 改めてフリーメイソンの思想について調べてみた。「宇宙の偉大な建築者」(Great Architect of the Universe)と呼ぶ神を信仰する、ある種の一神教的思想を持っているようだ。石工組合にルーツがあるとされるだけに、あたかも建物のように設計と建築によって宇宙が成り立つとする人工的宇宙観だ。人間の理性で社会組織が一から設計・構築できるとする啓蒙思想はフリーメイソンの思想である。また密儀を経ることで段階的に階梯を登っていき、最終的に至高の世界に到達する、という世界観を見るとやはり新プラトン主義の影響も強いと思った。


さて、この新プラトン主義と仏教、とくに真言密教が似ていると言われることがあるので、違いをはっきりさせておきたい。まず新プラトン主義について。この哲学では「一者」のような純粋な実在がまず存在し、現象世界はそこから段階を追って劣化して出現したものだとする。はるか彼方に純粋な形而上学的実在を置き、そこから段階的に下降してできたのが現実世界であり、現実世界を脱し段階を追って上昇した暁に純粋な実在と合一することを究極の理想とする。この下降と上昇の往復運動、それが神秘主義の世界観の要点だと思う。純粋な世界へのあこがれは、同時に肉体や物体への軽蔑を伴う。新プラトン主義の影響を受けた中世のキリスト教徒は肉体を極端に軽蔑していたと聞く。マニ教的な善悪二元論の影響が強いボゴミル派、その影響下にあるカタリ派などもそうである。これらはグノーシス主義の西洋中世における現れだ。



一方、真言密教は相互に溶け合った(つまり、それ自体で存在する実体ではない=自性がない)六大という構成要素によって万物(自身はもとより、宇宙を象徴する大日如来や真理を表す「法身」さえも)が成り立つ、という関係主義的世界観である。ある一店に究極の実在を想定し、そこからすべてが流出し、またそこに「合一」する、というものではない。もしそういう理路ならバラモン教と変わらなくなり仏教ではなくなってしまうであろう。「実体」概念の否定、これが仏教哲学の要である。実体概念を容認したら仏教ではなくなる。大日如来とはブラフマンや一者のようなものではない。六大と仮に想定される構成要素から成り立つ縁起的な存在であり、宇宙そのものを象徴している。 つまりこの宇宙は特定の第一原因から流出したものでも、ましてや創造主から想像されたものではなく、無数の要因によって縁起的に成立している自性空なものである、ということの表現方法なのである。空というとどうしても消極的に虚無的に取る向きもあるから、空の積極的表現として「法身」とか「大日如来」という呼称が生み出されたのである。


大日如来を主宰神だの創造主だのと混同する発想は、仏教とは別のものである。空海は「創造主」つまり「因果の作者」という観念は外教のものだと明確にしている。無限無量無数の関係性による成立、という宇宙の実相の人格的表現を「大日如来」と呼ぶのである。これは宇宙全体に満ちた生成作用=産霊=ムスビを宇宙の根底的法則とする神道で言う天御中主神と同じことである。 中世の両部神道では大日如来と天照大御神が同体とされたが、正確に言うならば、宇宙全体を象徴する天御中主神こそが大日如来に比定されるのではなかろうか。そして真言密教では精神と同じように、六大から構成される肉体を肯定する。心身の根源は六大であるのであれば、精神と肉体は同一というわけである。即身成仏を説くのである。これは霊魂と肉体を二元論的に分け、肉体からできるだけ遠ざかろうとする新プラトン主義とは全く発想が違う。



流出説というのは一つの原因からは一つの結果が出る、という極めて単純な因果論だと思う。つまり一者からヌースが、ヌースからプシュケーが、プシュケーから物質界が、と原因と結果が単線的に結びつく、きわめて単調な世界観である。そして雑然とした複雑な世界の根源には単一で純粋なオリジナルの実在があるという前提がある。これは世界の多様性を一つに収斂させていこうとするワンワールド思想の根底をなす哲学である。新プラトン主義を根源とする神秘主義を奉じるメーソンが「一つの世界」を志向するのは論理的帰結である。


しかし現実世界は「事物の根源に純粋で単一の第一原因があり、そこから段階を追って結果が出てくる」という構造にはない。(このような実体的な因果観については龍樹が一異門破という破邪の論法で厳密にそれが不可であることを「中論」という書物において証明されている。)事物が成り立つためには無量無数の原因条件の結びつきが必要だ。しかもその原因条件にもさらに無量無数の原因条件が必要となり、際限はない。だから「無自性」なのだ。無数の原因条件による関係的に事物が成り立つことと、事物が無自性でるあることは同じである。同じ事を裏表から表現している。

 
西洋の神秘主義およびそこに根を持つ啓蒙思想は「理性」「合理」を重んじるとするもののやはりキリスト教と同じように原始的で幼稚である。吾人見るところ仏教哲学の方がはるかに高度である。仏教哲学と西洋神秘主義を混交する試みは百害あって一利もないと思う次第である。たとえば根源の実在を想定するブラバッキーの神智学は、あきらかに仏教ではなく、新プラトン主義の系統だ。根源の実在などの形而上的実体を否定し、関係的成立を説くのが仏教の根本だからだ。猶太教カバラと真言密教が似ているという意見もあるが、カバラも根本は新プラトン主義の流出説である。流出説に立つカバラ思想と縁起説に立つ真言密教とはまったく異質である。事物の関係的成立、つまり縁起的世界観が仏教の根本である。関係性を必要としない「一者」のようなものを想定する流出説と縁起説は完全に相反する。両立は不可能だ。

 
神道にキリシタン神学を入れて別のものに変えてしまった平田神道のように、日本の伝統仏教に組み付いて、換骨奪胎して別のものに変えてしまおうというしつこい策動の存在を感じる。「一者」のような実体思想を入れたらもはや仏教ではなくなってしまう。神道においてもそうであったように、仏教破壊もステルスに行われる。伝統仏教の仏僧の方々に注意を促す次第である。


(了)

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by kokusai_seikei | 2014-03-18 01:18 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)