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古事記の冒頭に登場の「天御中主神」の理論的解析

平田派や大本教系カルトなどが何かと歪めて牽強付会なカルト教義に利用してきた古事記の冒頭の天地開闢の部分について、それらの妄説を退けるために、文献の文言に沿って理論的解釈を試みてみようと思う。


古事記の冒頭はまず最初に「天地初めて発けし時、高天の原に成りませる神の名は、天之御中主神」とあり、まず自然に天地が開け、そこに天御中主神が「成りませる=生まれた」とある。であるからこの部分を素直に読めば天御中主神が平田派や大本教が言うように「天地に先立ち天地を創造した主宰神」でないことは明白である。彼らがキリシタン神学の影響でこの部分をねじ曲げたことは明らかであろう。


素直な天御中主神観としては天御中主神は天地開闢と同時か、天地開闢の後にお生まれになったと考えるのが古事記の記述からして正しい。天御中主神が生まれたあと高御産巣日神と神産巣日神が生まれる(=成りませる)。このあと天御中主神は姿を隠し、ムスビの二神はしばしば姿を現す。これはなにを意味するか。まず天御中主神が姿を隠したのは消えたのではなく宇宙全体を象徴するからかえってある限定された姿をとるのがふさわしくないから、と解釈できないだろうか。むしろ宇宙全体を象徴する天御中主神はどこにでもいると言える。(こういう意味で解釈するならば真言密教で言う「六大所成」(六つの構成要素によって形成されたという意)の大日如来の観念に近いと言えば近いかもしれない)要するに超越的で実体的な西洋の神観とは全く異なるという事である。

 
またムスビの二神は宇宙が万物を産み出す生成作用を象徴する。特定の個物に限定できない天地宇宙(=天御中主神で象徴)と、具体的な姿を持つ個物の、その際(きわ)に位置する生成作用を象徴するので、古事記の神話においてしばしば姿を現すのだろう。このことで古代の日本人は個物に具現化せんとする宇宙の生成作用を現したのであろう。


まとめて言うと天御中主神は「体」であり、高御産巣日神と神産巣日神は「用」である。この三神は「造化三神」と言って一体として語られるが体と用が一体だと言うことを意味すると解釈する。つまり古事記、ひいては神道の宇宙観では、天地宇宙(=体)は万物を産み出す作用(=用)と一体であって、ダイナミックに生成化育する天地宇宙の背後に実在界を想定する本体論ではないことを意味する。作用と本体に区別はなく、天地宇宙そのものが生きた作用をなす「御神体」だということである。つまり縄文以来日本人が感覚として持つアニミズム、それを理論的に表現するとそういう事も言えるのではないだろうか。

 
これは六大・四慢・三密の体・相・用を一体とする真言密教や衆生世間・器世間・智正覚世間の三種世間を毘盧遮那仏の身体だとする華厳、さらには理を気の条理とする陽明学などの気一元論や道を万物に内在するものとする壮子哲学などに通じる宇宙観であると思う。中でもとりわけ日本仏教が古神道的感性から生まれ、あるいはその感性のもとに定着したと考える由縁である。聖武天皇が東大寺の大仏様を建立されたのには日本哲学的に非常に大きな意味があられたと拝察申し上げる。聖武天皇は「三宝の奴」とおっしゃられたが、決して縄文以来の神道的宇宙観を破棄されたのではなく、むしろ哲学的に洗練されたのであろうと思う。野道に咲く小さな花に宇宙を見る日本人の感性は華厳の説くところと一致しており、それはまた縄文以来の日本的なアニミズムの感性に由来すると思う。


(了)

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by kokusai_seikei | 2013-11-23 06:09 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)