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破「新プラトン主義」を試みる

国際秘密力研究においては、国際秘密力が推進するワンワールドと対峙することが思想的前提となる。そしてワンワールドと対峙するにはワンワールドという世界観のよって来るところの思想哲学を批判しないといけない。


このような世界の平準化・単一化・統一化を目指すワンワールド思想を鼓吹する、神智学をはじめとするありとあらゆる西洋神秘主義の思想哲学的根源は新プラトン主義哲学であると思う。このようにワンワールド思想を批判するためには、西洋神秘主義を批判しなければならず、その西洋神秘主義の根源を叩くには新プラトン主義を破するに如くはなしと思う次第である。よって己が力量も省みず、それをなんとか試みてみようと思う。


吾人思うに、新プラトン主義は我が国古来より「八宗の祖」として尊敬されてきた龍樹尊者の「一異門破」の破邪の論法で破砕しうるのではないかと思う。新プラトン主義は存在する事物の原理を説くものでもあるから、まず存在する事物に関する考えうる存在形式を分類することから始める。なんらかの事物の存在形式に関して考えうる形態は二種類ある。一つはなにものの助け・因縁・関係性も必要とせず、それ自体で存在する実体的に存在する在り方。二つ目はそれ自体では存在し得ず関係性によって存在するという在り方。以上二つの在り方以外の在り方は考えられない。


上記のそれぞれの場合に新プラトン主義は成り立つか考えてみる。新プラトン主義では超越的な実在である「一者」から第二の実在である「ヌース」が流出し、さらにそこから流出がなされるとするが、とりあえず「一者」と「ヌース」の関係で考えてみる。ここが成り立たなければそれ以後の流出の過程も成り立たないからだ。

 以下考えうる四つのケースについて考えてみる。

 まず第一の場合。「一者」も「ヌース」もそれ自体で存在する「実体」である場合である。

 この場合それらは同じであるか異なるかどちらかである。同じであるなら「一者」と「ヌース」は同じとなり、「ヌース」が「一者」から流出したとするのはおかしい。最初から同じであるから。原因と結果が同じというのは矛盾である。


また「一者」と「ヌース」が異なるのであれば両者には接点がないので「流出した」とは言えない。原因と結果が全く異なるのであれば因果関係は成り立たない。異なるのに因果関係が成り立つのであれば、味噌汁からヨーグルトができるし、カブトムシからウサギが生まれるし、マグマからかき氷ができるであろう。よって第一の場合には「一者」から「ヌース」の流出は成り立たないことが示されたと思う。


続いて第二に「一者」も「ヌース」も両者ともに「関係性により存在する場合」を検討する。この場合、「一者」も「ヌース」もそれ自体で存在せず、関係性により存在するので、それぞれ実体ではあり得ない。実体ではないのなら「一者」はそれ自体で存在するとはいえずかならず原因や条件、あるいは構成要素から成ることになり、とうてい万物の第一原因とは言えなくなる。そもそも万物の始源にさらに原因や条件があるというのは矛盾である。よって第二の場合には万物の根源としての「一者」そのものが成り立っていないので、それからの「ヌース」の流出はありえないことが証明された。


次に第三の場合。「一者」が実体で「ヌース」がそうではない場合。この場合はスピノザの哲学(実はカバラ思想の影響があるそうで、カバラも淵源は新プラトン主義)などが典型であり、これはなかなかに手ごわい。だが、やはりこの場合にもさまざまな理論的困難さが伴う。まず「一者」が実体であり、「ヌース」はそうではないので、両者は全く存在の形式が異なることになる。常住で変化がなく、単一である実体としての「一者」が、変化に富み、決して単一ではない、関係的存在=現象をどう「流出」するのか、相異なる性質の両者はどう接しているのか、その際(きわ)はどうなっているのか、が説明できない。


実体と現象の接点があるとしてそこは果たして「実体」なのか「現象」なのか。「実体」はどこから「現象」になるのか。実体が現象になる、というのはそもそも言語矛盾である。実体は現象ではないから「実体」と言うのである。


そもそも現象の背後に実体を置くと矛盾が生じる。龍樹尊者が証明されたように「往くものは往く」という文を構成する単語にそれぞれ実体を想定すると、主語である「往くもの」と述語である「往く」それぞれに「往く」という実体があることになり二重に「往く」ことになるのである。「私は往く」という文で考えた場合でも、「私」と「往く」がそれぞれ別の実体ならば、「私」という主体なくして「往く」ことがあるという不合理が生ずる。


また「現象」とはそもそも因縁により関係性に成立するのであって、それはどこまでも無自性で空である。無自性で空なるものに「ヌース」と名付けたところでそれは真実には実在するものとは言えないので「一者からヌースが」云々ということ自体が言えない。この場合「ヌース」は縁起的存在であり空なのであるから。このように実体はどこまでいっても実体だし、現象はどこまでいっても現象である。よって両者に接点はない。第三の場合も流出説は成り立ちがたいと言える。


最後は第四の場合である。「一者」も「ヌース」も実体ではなく関係的存在である場合であるが、前述したように、それ自体で存在しないものは他に原因条件があることになり万物の根源たる「一者」の定義に反する。よってこの場合は「ヌース」との関係を検討するまでもなく成り立たない。万物の根源を求めてなんらかの原因を見つけたと思ってもそれにはさらに原因条件があり、その原因条件にもさらに原因条件があり、極まることがない。存在の根源を求めても無限に拡散していく。それが「空」である。(神道では天地の無窮の産霊の働き。産霊は大いなる生成発展の変化でもあるから裏から見れば「空」である。空であれば変化があり、不空であれば変化はないのであるから。表から見れば産霊、裏から見れば空。産霊はどこかに実体として存在しているのではなく、どこにでも働いている無窮の生成力である。縄文に基層がある古神道の真髄であると思う。)


この道理を指して真言密教では「阿字本不生」というそうである。龍樹尊者は「不生不滅」と、盤珪禅師は「一切事は不生でととのう」とおっしゃった。なにかの実体を立てれば「生まれる」ということは言えなくなるという意味と解する。実体は常住なるものであり「有」を本質とする最初から「有る」ものなのでそもそも「生まれる」必要がない。また「無」が「有」になるとすると(無ではなく有であるという)「有」の性質に反し矛盾である。このように「実体」を立てれば「生まれる」ということは言えない。


また「生まれる」といえば「何か」が生まれるわけであるが、「何か」が究極的に空ならば、厳密には「何かが生まれた」とは言えない。よって究極的には実体の無い空なるものも生まれない。よって不生=空。ある現象が生成されたときに、その生成された現象にあとから名前をつけて「○○が生まれた」と言語習慣上便宜的にそう表現するのみである。


以上のような、「原因はさらなる原因条件に無限に拡散していく」という、この「空」を知らずしてどこかに根本原因を想定して止まない無明から新プラトン主義のようなものが生まれる。つまり無明の哲学化。哲学化してあっても無明は無明である。いかに堅牢に見えても所詮は根本の無明に雑多な要素を積み上げていったのが西洋神秘主義の歴史(神智学などが典型)だと言えるのではなかろうか。


以上四つの全てのケースにおいて「一者」から「ヌース」の流出説は成り立ちがたいこと、ひいては新プラトン主義自体が成り立ちがたいことがが確かめられたのではないかと思う。引き続き検討する。


(了)

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by kokusai_seikei | 2013-06-08 01:08 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)