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時空と人と国家は一体。

どうも最近「保守」という言葉はすっかり手垢がついてしまったが「愛国」という言葉はほとんどの場合マイナスイメージでしか語られないのでかえって個人的には常に新鮮味を感じる好きな表現である。


ところでどうして「愛国」という言葉は悪い意味でばかり語られるのであろうか。それはおそらく「国」ないし「国家」という概念が「政府」ないし「権力」という狭い概念とイコールでとらえられているからだろう。しかしそれはあまりに浅薄な概念規定である。吾人の考える「国家」とは言語や慣習や土地・自然そして歴史の集積そのものである。「人」を成り立たせている具体的な時間と空間の集積のことを「国家」と考える。人とは必ず過去の履歴を背負っており、必ず具体的な空 間に配置されている。具体的な時間と空間と切り離された個人は存在しえない。(神道家・今泉定助先生は古事記の宇宙観において神と存在と時は一体だと述べられている)歴史から切り離されたフリーメイソン的「新人」(フリーメイソンの前衛部隊として新人会という団体があった)は存在しえないのだ。


道元禅師は「有時」を説かれている。すなわち有は時なのである。存在と時は離れてあるものではなく、一体のものであるのだ。一木一草にも時の履歴がある。ましてや言葉を持つ生き物である人間は歴史と一体のものである。人は具体的な時空を背負うものだとするなら人に慈愛や愛情の眼を注ぐとはすなわちその対象である人が背負う具体的な時空の集積すなわち「国家」にも尊重の念を持つことで ある。ましてや自己存在が依拠している時空の集積に愛情や感謝の念を持たないのは自己否定に等しい。かかる愛国は単純に自己の背負う時空=国家を妄目的に礼賛するということではなく、祖国の中で起きる良い事象も悪い事象も受け止めた上で、良い部分は継承発展させ、悪いものは克服するよう努力することである。純正愛国陣営とは祖国日本のエッセンスをしかと継承し、それに依拠して、目をそらすことなく同時代の限りなく醜悪なものと闘った先人たちであった。


かかる意味で「愛国」は真の道義道徳、横文字でいえば真のヒューマニズムを基底にしていると解釈することができる。そして具体的な時間性、空間性を帯びているという、その根本的な性質を持つ点で、あらゆる国家は共通性を持 つ。(平たくいえば国にしても、それぞれそうなるのはそれぞれ事情があるということだ。それぞれ事情があるという一点ではどの国家も同じである)その共通原理を把握したならば、祖国愛を強く持てば持つほど他国への尊重の念も出てくる。これこそが正しく解釈せられた「八紘一宇」であると思う。「世界平和」のために「世界を一つ」にする必要など毛頭ないのだ。ナショナリズムの危険性はよくいわれるが、それ以上にこういう普遍主義は暴力的である。地域的限界をもつナショナリズムと違い、かかる普遍主義には地理的制限がなく無制約に暴力が拡散する危険性がある。かつてのキリスト教の十字軍や植民地侵略と伴う世界布教、あるいは世界革命を目指した国際共産主義がよい例だ。普遍主義や国際主 義、グローバリズムというのは、それぞれの地域の文化を破壊し均一化するという暴力的発想である。


大事なことは相互理解と寛容さであって、世界を一つにすることではない。世界が一つになればそれを主導した一つの偏見が世界を支配するであろう。そんなことよりも、それぞれの国家の個別具体性そのものの根底に「時空と存在の一体性」という共通の基盤原理を見れば、それがそのまま相互理解の基盤たりうる。「我も人なら彼も人」である。我も彼も人でありそれぞれ具体的な時空と「即」である。逆接的にいえば違う時空を背負うから「共」たりうる。また、時空を背負うのが「人」だとするならば、「人」から具体的な時空を削ぎ落とした孤立人である「個人」をのみ対象とする「博愛主義 」は存在しない対象に対して、すなわち虚空に対して空虚な「愛」を注ぐ虚妄の偽善的ヒューマニズムである。


右翼左翼論で言うなら、左翼は平和や人権を力説するが、一向に血の通った暖かい情愛を感じないのはその空虚て虚妄な人間観のためであろう。愛情を注ぐ具体的な対象が見えないのである。人間不在のマルクス主義により精神の危機に陥り、仏教を学ぶことで救われ、「釈迦マルクス主義」に至った変わり種の左翼もいた。逆に右派、それもネオコン的な愛国主義にもそれは感じられない。それはネオコンの国家概念が著しく「政府」や「権力」に限定されているからだろう。彼らは自己の思想の実現のために権力や武力をフルにつかう。そして目指すところは具体的な人間観の欠けた空虚な 「自由」である。彼らはもともとトロツキストだったのだから左翼と同じような冷たさを感じさせるのも無理はない。次の機会には左翼思想について考えてみたい。


最後に世界を一つにして支配しようなどと考えている者達に告ぐ。人間を履歴から切り離された、顔の無いただの数字の単位として見ることしかできない想像力の貧困なあなた方では世界全体を範囲とする「世界国家」の統治など無理であろう。否、そんなことができる人間はどこにもいないであろう。人間の想像力の範囲は限られている。だからこそ己の知の限界をわきまえた謙虚さと寛容さが必要なのである。完全な理性と知性を持った自分達が世界を統治できる唯一の存在であると思うなどとんでもない思い上がりである。そんな誇大 妄想な途方もない野望のために犠牲になる人々がいてはならない。つまらん野心など捨てて収まるところに収まってせこい金儲けでもしているがよろしい。


それぞれの国の統治はそこの地域についてよく知る、その国の履歴と分かちがたく結び付いた人々が担うべきである。大和言葉では事実上の支配にすぎない実力統治を「うしはく」と表現し、正当に道義的に統治することを「しらす」と言った。「しらす」とはまさに統治する対象を深く知り一体化し治める意である。対象をよりよく知ればそれだけ愛情も深くなる。だが統治する地理的範囲が広大になりすぎると、当然このような「しらす」事は不可能になる。見たこともない、文化や気候風土もよく知らない土地に細やかな愛着を持って治める事は不可能である。土地土地に住む人々が治めるのが理に適っている。だから世界を一つにして支配するNWOは非現実的で不合理なのである。


(了)

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by kokusai_seikei | 2012-11-18 02:25 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

明治以降の保守右翼勢力とカルトの関係の素描

日本の保守右翼について新興宗教との関わりから分析してみたい。


日本の保守右翼勢力は新興宗教との関わりで分類すると、戦後的親米保守は戦後右翼の巨頭笹川良一、児玉誉士夫らが引き入れた統一協会の影響が強く、戦前的反米右翼は玄洋社との繋がり以来大本教の影響が強いと見える。雑誌でいうと「正論」派と「月刊日本」派というところか。


戦後右翼と統一協会・勝共連合の関係はもはやかなり暴露されているが、戦前右翼が大本との絡みで語られることはそれほど多くない。しかし玄洋社黒龍会が大本と友好関係にあったのは事実であるし(「国士内田良平」という戦前的民族派の人々が書いた書籍の中の一章で内田らと大本の出口との関わりが肯定的に取り上げられていことでもわか る。)、それより新しい世代いわゆる革新右翼の北、大川、満川の猶存社「三尊」が雁首揃えて出口を綾部に訪問したり、北の著書の出版費用について北と出口が話し合ったという逸話もある(渡部悌治先生の「ユダヤは日本に何をしたか」参照)。また戦前右翼の一方の大立者にしてフリーメイソン運動家であり大本系世界救世教顧問などもしていた堀川辰吉郎の娘を名乗る女性がアセンションの呼号者であるのも興味深い事実であるがそれは今は置いておく。(しかし戦前右翼の大物がフリーメイソンに協賛していたことは重要である)


戦前的右翼としては大本と並んで国柱会的日蓮主義の影響も強いようである。国柱会の教祖である田中智学の息子の里見岸雄の「国体論」はいまだに一部で読まれているようだ。国柱会信者の日蓮主義者の石原完爾の信奉者は今も多い。愛宕先生が書かれていた「狂信日蓮宗の徒」はこのあたりを指すのではな いかと見ている。また戦後の反米の新右翼は大本系の生長の家の青年政治運動から出てきたことも興味深い。さらにその新右翼誕生に影響を与えた三島由起夫は大本幹部をやめて一派を成した友清天行の著書を読んでいたという。生長の家から出た新右翼の指導者鈴木邦男氏(といっても今は左翼と仲がよく老壮会的カオス状態のようであるが)は著書を読む限り里見岸雄の影響もあるようだ。


以上のように国の伝統のエッセンスすなわち国粋を自認する人たちに伝統とは違う極めて西洋的な一神教性と終末観が強い(つまり西洋の援兵でしかない)「統一協会」だの「大本教」だの「生長の家」だの「国柱会」だのの「新興」宗教の 影が見え隠れする現象は大きな謎である。救国を志した揚げ句新興宗教に救いを見出だす軍人も多かった。大本の浅野和三郎の実兄は高級軍人であった。それどころが国際政経学会理事の赤池濃氏までが大本派生団体の矢野祐太郎の神聖龍神会会員であったことは仰天な事実である。戦前愛国勢力の闇も深い。


その全てを直に見聞体験されてきた渡部悌治先生が記されていた「純正愛国陣営と右翼は違う」というお言葉は重い。結局、右翼と左翼はジロンド派とジャコバン派よろしく対の存在でしかないのだろう。いみじくもそのことは他ならぬ右翼の巨頭児玉誉士夫がGHQに提出した供述書で述べている。いわく「右翼とは本質的に左翼に対抗してできたもの」。「だから反米になる事は無いのだ」という米当局へのこび へつらいの言辞である。媚であるとはいえ、右翼は左翼と対であるとわかってやっているなら児玉はCIAエージェントとして確信犯であった。


(了)

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by kokusai_seikei | 2012-11-18 02:17 | 陰謀解析 | Trackback | Comments(0)

東洋思想と西洋神秘主義の違いについて一考 補足

 「一即多 多即一」と言う言葉はまかり間違うとヘーゲル弁証法的なニュアンスで受け取られる危険性があるので、補足説明したいと思う。

 まず「一即多」というのは伝統的な禅や華厳で使われていたままの意味ではヘーゲル的なニュアンスはまったく無い。

 東洋の伝統思想における「一即多」の思想とヘーゲル弁証法や明治以後の擬似神道例えば大本神学等における「一神即万神」のそれは、たとえば、あらかじめ「正」や「反」や「合」、あるいは、「一神」や「万神」といういわばそれぞれ独立した二元(三元は二元の範疇である)を前提として立てることで、その二元間、三元間の運動や融合を意味する面が強いと思うが、仏教における「一即多 多即一」というのは、一元も多元も無く、端的に「二ではない」「不二」なる現象界の説明の一つの便宜的方法にすぎず、一が多になったり多が一になったり、という時間の経過を含む継時的な運動の意味はない。「不二の法門」で有名な維摩居士の一黙は弁証法的迂回などせず、端的に雷光のごとくこの世の実相を衝くのである。

 弁証法・大本神学では、正と反と合、あるいは、一神と万神、それぞれ別々であるものが、運動ないし融合することで、一つになるというニュアンスがあるが、仏教的には一と多は同時存在的で一が無くなると多も無くなり、多が無くなると一も無くなるという、相補性を意味する。仏教的な意味における「一」や「多」というのは、言い換えれば現象界を見る視点を、全体におくか、個物におくか、要するに認識する側の視点をどこにおくかという意味しかない。仏教における基本は、無実体=超越の否定 ということであるから、正確に言えば、「一」も「多」も実在性はなく、言語表現上の便宜でしかないということである。

 いわば「一」や「多」というのは説明のための記号に過ぎない。記号が実在すると解釈すると神秘主義になる。卑近な例で恐縮だが、「そば」で説明すると、一本の「そばの麺」と「そば」という一つの料理の全体が同時存在的であるようなものである。「そばの麺」を離れて「そば」はないし、「そば」を離れて麺は「そばの麺」とは言えない。概念的に相互依存しているのである。

 このように「一即多 多即一」というのは概念的な全体と個別の相互依存性を示す便宜、という意味しかない。 「麺」という単一の「もの」が変化して「そば」という「もの」になったり、「麺」という「もの」と「そば」という「もの」がまず別々にあって、あとで融合する、というのは不合理だと思う。「そばの麺」と「そば」は概念的に相互に依存しており同時存在的である。要は、言葉の網をどこにかけるかの違いだけだと思う。個物に目をやれば個物が見え、全体に目をやれば全体が見える。しかし、視点をどこにおこうと、全体は「不二」である。

 全体の中の一部を切り取って、そこに言葉と概念を付与したら、観念上「個物」が心内に表象として認識の形式として現れるというだけであって、逆もまたしかりである。個物と相即する「全体」に概念を付与したら、同じように「全体」が心内に表象として認識の形式として現れる。最初から実体としての「個物」「全体」ありき、というのが西洋神秘主義だと思う。そして西洋神秘主義はそれらの合一を説く。

 東洋思想はそういうものがそれ自体として、実体として存在することを認めない。だから「不二」である。「合一」もなにも最初から「不二」だと見るのである。仏教における「一即多 多即一」は、不二・空である現象界を説明する一つの便宜的表現法にすぎなくて、一が多になったり、多が一になったりという、多様なものを一つに融合したり、一つのものが多様なものに分化したりする弁証法的運動を表すニュアンスは無い。

 以上をまとめると、「一即多 多即一」というのは、「不二」「二ではない」現実の世界を記述する一つの方便、ということであって、「一」というものや「多」という「モノ」が現実にあり、そういう二つの「モノ」の間の運動を記述していると解釈するともはや弁証法や大本神学と同類に堕してしまう。彼らは「一」や「多」、「一神」や「万神」がそれぞれ独立してあるという前提から、それらの融合、合一による「一」を説くが、東洋思想では、そういう余計な概念操作はせず、端的に「不二」な現象界を説明するひとつの言語表現上の便宜として「一」と「多」という概念を用いるだけであって、その「一」や「多」がそれぞれが本当に形而上学的実体として実在しており、それらが相互に変化したり、合一したりと考えない。最初から「不二」である原理を合理的に見極めたらそこになんら神秘は必要ないが、本来相容れない異なる二元を立てて、それを一元にしようと思ったら飛躍が必要になり、神秘に頼らざるをえない。

 この場合、それぞれの態様を形容するならば、「頭にのぼせ上がる」のが神秘主義で、「頭を冷やす」「腑に落ちる」のが東洋思想だとも言えるかも知れない。神秘主義において真理とは平常の経験を超えた異常な体験であるが、東洋思想においては真理とは行住坐臥、平凡な日常そのものである。端的に「二ではない」という東洋思想と対比して、「二が一になる」という神秘主義、とまとめることができる。【終わり】
 

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by kokusai_seikei | 2012-11-18 02:08 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

東洋思想と西洋神秘主義の違いについて一考

東洋思想と西洋一神教が違うのはもはや明白であるが、西洋神秘主義は東洋思想に似ているといわれることがあるので、以下、少し考察してみたい。

結構前に定方晟氏という仏教学者の方の「空と無我」という本を読んだ。非常に鋭い論理で空思想が分かりやすく解説されてある好著であるが、その本に空思想と神秘主義の違いについて非常に興味深いことが書いてあった。

 空思想は端的に「二ではない」であるが、神秘主義は「二が一になる」思想である、という趣旨の指摘である。なるほどと思った。

 自分なりに解釈すると、現象界の構造を客観的に観察する(止観の観である)と、そこにある「縁起・無自性・空」という不二の真理が見えてくるというのが空思想であり、個我と実在の二元をあらかじめ立てて、それを後から融合させようとするのが神秘主義である、と思う。

 空思想はありのままの現象界にそのまま「不二」を見るが、神秘主義は「二を一にする」という作為を経なければ一なる真理にたどり着けないとする。たとえば禅は日常の行住坐臥に真理を現すが、神秘主義では非日常の神秘体験に真理を見ようとする。

 このあたりの論理構造の違いに東洋思想と西洋神秘主義の決定的な違いがあるように思う。空思想だけではなく神道にしてもシナの陰陽思想にしてもそうであると思う。

 神道には禊祓の思想と行があるが、これは自我と実在を融合させる行ではなくして、本来神ながらに神の子として生まれた人の心に後天的に付着した穢れを払うことで本来の神ながらな清い心を回復させるための行であって自己とは別の実在との融合を目指す行ではない。

 それは、たとえていえば泥に汚れた宝石を洗うようなものである。泥に汚れても宝石は宝石、清めればまた輝くのである。この禊祓は本来的な神人一体の確信に基づいた行であって、操作的に自我たる人とそれとは異質な神たる実在を合一させる行ではないのである。

 シナの陰陽思想は二元論だと言われがちだが、吾人はそうは思わない。陰と陽は同じ太極の二つの側面を言うにすぎない。これも最初から「不二」であって陰陽という「二」を太極という「一」に帰一する思想ではないと思う。「一陰一陽これを道という」のである。この場合、道と太極は同義である。

 また、天の理と心の理を区別せず本来同じとする陽明学の心即理説は神道の思想に近いと思う。陽明学を学ばれた先哲・熊沢蕃山先生は神道家でもあられた。

 ありのままの現象界そのものに「不二」を見る東洋思想は「一即多、多即一」であって、そのありのままに多様性を持つ世界にそのまま真理を認める。(これは猷太似非神道的な、世界征服的ワンワールド的な解釈ではなく、「各々所を得しめる」という正しく解釈された八紘一宇の原理にも通じる。)

 一方、西洋神秘主義は「二」から「一」を求めるのため多様な世界を一つに導こうとする傾向がある。つまり多を一に収斂させようとするワンワールド思想である。西洋神秘主義の結社であるフリーメイソンが「一つの世界」を目指すのはその思想の論理の帰結である。

 国際秘密力の世界征服主義者が一神教とともにカバラ哲学など神秘主義を信奉するのもむべなるかな。世界征服思想は西洋神秘主義の政治思想的顕現であると思う。端的に「不二」である東洋思想と「二が一」である西洋神秘主義にはこのように決定的な差違があるのである。

 一見、西洋思想の主流である一神教とは違って、より東洋思想に類似するように見えた西洋神秘主義思想であったが、東洋思想とはこのように決定的な違いがあったのである。「不二」と「二が一」、表現の違いはわずかだが、まさに毫釐も差あれば、天地懸隔す、である。

 ちなみに禅学者の鈴木大拙氏は禅を神秘主義の一種だとしている。この人は「霊性」という言葉を好んで使うが、フリーメイソン思想家スウェーデンボルグの思想の影響を受け過ぎだと思う。

 ボルグ思想は現象界と霊性界の二世界観を前提とする典型的なグノーシス的二元論であって不二の法門を目指す禅とは相容れないはずである。鈴木氏は神道に批判的な一方で、一神教的な真宗思想に好意的であるが、ここにもこの思想家の組織宗教的な硬直的・固定的な教義を好む西洋的宗教観を感じる。

 鈴木氏の神道批判を読んだとき基督教宣教師の神道批判の物言いとそっくりだと感じたものだ。禅を神秘主義だとする鈴木大拙氏は、はっきり言って、同じようにスウェーデンボルグに影響を受けていた、西洋的一神教的な終末思想に神道的粉飾を施した出口王仁三郎や浅野和三郎と同類だと思う。

 日本と東洋古来の思想を換骨奪胎して西洋化する、あるいは西洋的思想に日本的東洋的粉飾を施す思想家宗教家には注意が必要である。西洋の看板と実質で正面から来る場合より、日本文化東洋文化への侵食度が見えない分、被害が大きい。これもまた偽装を旨とするタルムード戦術であろう。【終わり】

 

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by kokusai_seikei | 2012-11-18 01:31 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

大本教系やスピリチュアル系陰謀論解析

 世に世界の真の構造を探求し、真の権力構造を暴こうとするいわゆる陰謀論者は多い。だが、せっかくそのような志を持っても、そういう知的営為をなさんとする基礎になる思想的な基盤をスピリチュアルや日猶同祖論などを含む旧約の猶太神話など奇妙なものに置いている人が大変に多いように思う。(例:真の猶太人である日本人が偽の猷太人カザールを討つ云々)

これは陰謀論がオカルトと同列に扱われる温床になっていると思う。(「陰謀」と「隠れた謀」である。これは一般大衆からは隠れてはいるが決して超常現象ではない。人間の世界の出来事である。これを直接・間接の証拠や推論によって明らかにしようという知的営為のことを「陰謀論」と呼ぶ。陰謀追求とは極めて科学的な営みであるのだ。)中でも「日月神示」など、大本教系統の思想にかぶれている人たちがかなり目立つ。


 吾人の見るところ、大本教は神道的装いはしているが、本質的には猶太一神教類似のものであろうと思う。
世界の終末やそこからの救済と救世主の観念、信者の選民意識、超越的な神観などがそれを物語る。
かかる思想は結局、陰謀論者が追求する対象である世界権力と同じ地盤の発想であって、結局、彼らと同じ土俵にのることになりいずれにしても最終的にはあるいは無害化されあるいは走狗とならざるを得ないであろう。そのためにこそこういう類の思想が流布されているように推測する。


 親猶太主義者の松本寅彦が大本から金を引き出し、親猶運動を進めたように日猶同祖論の資金源の一つが大本教であったことや、教団内の実力者であった浅野和三郎が横浜のメーソンロッジに出入りしたり、心霊術を学んでいたことにもそのことが窺える。(渡部悌治先生著「ユダヤは日本に何をしたか」参照)


 日猶同祖論やオウムの麻原にいたるまで影響を与えたある種の陰謀論は、この類の陰謀論であろう。
麻原は酒井勝軍がとなえた「ヒイイロカネ」の探索に傾倒したという。ニューエイジ系や基督教原理主義系の陰謀論などにもそれは当てはまる。

 結局このような類の奇怪な思想に拠っては世界権力への根本的な批判は難しいのである。世界権力を根本的に批判するためには世界権力の思想・発想を根底から批判する思想基盤に立脚しなければならない。
愛宕北山先生は国際秘密力研究は正しい日本の理想と思想に基づかなければならないとおっしゃっている。さまざまな要素が絡み合っているが、国際秘密力との闘争とは結局思想戦に集約されるのである。

 ある程度意識が高く、ある程度覚醒して意識的に世界権力を追求せんとする追及者にガス抜き的に与えられる陰謀理論がそこかしこに思想的なギミックとして張り巡らされているように思う。たとえば我が国の猶太陰謀論者の多くがひっかかる日猶同祖論などがその最たるものである。(戦前の代表的同祖論者酒井勝軍などはこれにまんまとひっかかった。その酒井系の陰謀論の影響を受けていたのが麻原だ。)

 その仕掛けは何重も渡るものである。かかるギミックを見抜き、真実にいたるためには、相当な批判精神を必要とする。それにはまず己の立脚する思想基盤を確立する必要がある。愛宕北山先生がおっしゃったように、陰謀研究は「正しい日本の理想と思想」に基づいてなされなければならない。

 世界権力の基本的思想、そして最終目標は世界のそれぞれの地域の個別性を捨象して世界を画一化させるというものである。そこでまず、このような世界を均一化しようとする思想に対抗するためには己が生まれ育った祖国の地盤に立脚するといういわばローカリズムが第一歩となる。

 そして常に地に足をつけて日本の理想と思想とは何かを問い続ける必要があるだろう。一見日本思想に見えて、本質はワンワールド思想である場合も多いのである。思想の探求は着実に慎重でなければならない。「日本の理想と思想」はスピリチュアルのようにコンビニエントに整えられた出来合いのものとしてすぐに手に入る類のものではないのである。孫子の兵法に「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」というが、外的には世界権力の思想態様を鋭く分析し、内的には根気強く自らの思想を掘り下げて探求していく必要がある。

 大本教の解析は、それに続く戦前戦後のあらゆるカルトの思想形式や組織形態の根本的な祖形を解析することにもつながると思われるので、重要であると思う。媚米保守勢力に影響が強い戦後の代表的なカルトである統一協会は教祖の文鮮明が大本神諭が「予言」した「救世主」であるとして大本教義を流用したりしているという。
 
 大衆を大規模に動員するというやり方は創価学会や幸福の科学などにもそっくりである。この手の新興宗教の教勢拡大の手法も大本が元祖なのであろう。創価は思想的には国柱会以来の日蓮主義の系譜の中でも検討する必要があろう。大本系神道とならび、近代の日蓮主義も猶太一神教的ギミック思想である。三井から金をうけとっていた北一輝も日蓮信奉者である。愛宕先生は「狂信日蓮宗の徒」として日蓮主義者を批判されている。幸福の科学に関しては一部右翼に大川隆法に期待する向きもあるなど、右翼と出口王仁三郎が共闘関係にあったことをほうふつとさせる。現代のカルト問題を考える上でも大本の考察は欠かせない。


 戦前実証主義的な立場から大本教を痛烈に批判した精神科学の研究家である中村古峡という人物が著した「大本教の解剖」という著書がある。これは隠れた名著であると思う。大本教を単にバッシングしたのではない、極めて実証的・合理的な観点からまさに「解剖」した本である。推薦文には政治的に右から左まで、オカルト肯定者から否定者まで、幅広い知名の士が文を寄せていてそれを読むだけでも、当時の知識人が大本教をいかにとらえていたかの史料にもなり興味深い。



内容をかいつまんでご紹介する。出口なおを祖師とし、その祖師出口なおの「お筆先」を神諭として崇めるのが大本教であるが、直筆のお筆先を入手し鑑定した中村氏の分析では、お筆先には脈略のない文章を延々と書くという常同症の症状が見えるという。なおは大本教を開く前、金光教の熱心な信者であったそうだが、
うしとらの金神とは金光教で崇める神である。このことからも、出口なおの意識下に刷り込まれた「金神」のイメージの表出現象と考えたほうが合理的であろう。突然神がかりしたとは言うが、何も予備的イメージがない「神」が降りてきたわけではないのだ。まったく予備的なイメージも知識もない「神」が降りてきたのなら話は別であるが。そして出口なおに降りた「うしとらの金神」のお告げそのものは、年配の方に多いと言う入眠時の幻覚であるという。これもさもありなんである。

 仕事師・王仁三郎はなおに痴呆の症状が出ていることをいいことに、なおを祭り上げ傀儡と化して、お筆先を改ざんし、整えた上で機関誌に発表したという。なぜ改ざんとわかるかといえば文章に脈略や統一があり、なおの直筆のお筆先と違い常同症の症状が見られないからだという。王仁三郎は決して直筆のお筆先を見せようとはしなかったという。さらには焼き捨てると言った。証拠隠滅である。

 大本の言霊学は王仁三郎が京都の古寺の住職から購入した「水穂伝」の内容を他言無用と堅く住職と約した上で己のものとして発表したものであると指摘。中村は「水穂伝」の著者名を不明としているが、この「水穂伝」は山口志道という江戸後期の国学者の著作であると思われる。

 さらにパラノイア気質が見られるという浅野和三郎が入信して教義を整備したことで、インテリの入信が増え、浅野が教団の実権を握り始めた。まさにその時期にこの書は著されている。中村氏は出口は自分のやっていることの本質をわかった上で敢えて教祖を演じている山師、浅野は本気で大本教義を信じ込んで他が見えなくなっているパラノイアであると指摘している。吾人も中村氏の解析は妥当であると思う。

 この中村氏の解析を敷衍して昨今スピ系の陰謀論者などの間で流行の岡本天明の日月神示を察するに
大本信者であった岡本の脳裏に刷り込まれた大本教義が無意識に自動書記となってあらわれたものなのであろう。
 
 大本にまったく関係がない人間のところにそのようなものが顕れれば「神のお告げ」の可能性は一応は残るかもないが、過去に大本教に入信していたりとか、過去に大本教義に触れていた人間のところにそういう自動書記現象が顕れても、意識下に刷り込まれた無意識の表出と見るほうがまず合理的で妥当であろう。

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by kokusai_seikei | 2012-11-18 01:27 | 陰謀解析 | Trackback | Comments(0)

ニーチェ哲学とニヒリズムについて

自我をさまざまな力のせめぎあいの結果生成されるものと規定したニーチェは確かに西洋哲学の限界を突破していると思う。しかしニーチェの「力への意思」という思想はつまるところある種の原子論に帰結するのではなかろうか。


というのは「意思」という概念がこの場合個人としての人の意思という意味に限られないにしてもなんらかのまとまりのある個体を前提にすると考えられるからだ。つまり自己を拡張し、他を征服せんとするとする個々の複数の要素(このようにあらかじめ力への意志が働く場ないし主体として既に自他の区別がなされている)
のせめぎあいから自我なり真理なりが生成されるとするのが「力への意思」という概念とするならば自我や真理の実体性は否定されても「力 への意思」をもってせめぎあっている当の個々の要素は実体性が否定されているだろうか?


個々の要素の内部にもまた「力への意思」が働きつつあるならばさらに複数の要素に分割される。そうやって無限遡及に陥り結局際限がない。ニーチェの「力への意思」というのは小乗仏教の説一切有部などの無我観・析空観に近いかもしれない。要するに自我は否定するがそれを構成するところの要素は実体として残るのだ。しかしながら西洋人としてあの堅
牢な一神教社会の中でここまでの世界観に至ったのはやはり大したものである。存在の根底に「盲目的な生への意思」を置いたショーペンハウワーがバラモン哲学の影響下にあるなら、ニーチェは説一切有部あたりには迫っていた。しかし要素すら空じる大 乗仏教哲学にまでは迫り得なかったと言える。


またニーチェといえばニヒリズムだが現象即実在という世界観が基本的で、超越項を最初から持たない東洋には本来「神の死」も「ニヒリズム」もないと思う。原理的には本来ニヒリズムはあり得ないはずの日本や東洋においてもニヒリズム的空気が蔓延しているのは、明治維新以来、西洋的な思想の侵略で日本及び東洋古来の哲理が等閑視されて久しいことと関係がある。まず前提として外部に超越者を設定し、その超越者(近代においては主体や物質に姿を変えた)を探求するにつれ近代科学が発展し、その結果必然的に「神の死」を帰結してしまうという西洋文明が必然的にもたらすニヒリズムであるが、日本や東洋においてはニヒリズムと格闘する場合、 古来の伝統と他者として侵入してきた西洋文明との相克という形を取る。日本において近代の超克とはイコール西洋文明との対決をも意味する。そこにおいては伝統精神の探求とニヒリズムとの格闘が並行的に進む。ここが西洋内部から西洋文明を批判したニーチェなどの置かれていた立場とは異なる部分だ。


そして国際秘密力研究の立場からいえば、ニヒリズムとは単に時代の趨勢などという自然発生的なものではなく、ある意図をもって人為的に広められてきたものだと捉える。西洋一神教文明においては不可避なものであるが、非西洋圏においては、西洋の侵略によって押し付けられたものであり、またその支配を磐石にするために西洋の支配層によって常に再生産されてきたものであるからだ。しかも この西洋の支配層なるものは、要所要所を押さえているが明確な姿を見せない、隠れたネットワークと言う形を取っている。であるから、その支配は人為的なものであるにも関わらずあたかも非人為的な「構造」に見えてしまうのだ。「構造主義」の一つの盲点と言える。たとえば猶太教は過去からの構造だといえるが、そこに規定される猶太人はその構造の中で規定されながら、その構造の指し示すところに従って有意的に行動している。「選民意識」という精神構造の中で規定されつつ、この構造に基づいて「世界支配」を目指して有意的に行動するわけだ。


ニヒリズムとの格闘は西洋におけるか東洋におけるかで取り組む姿勢に差が出てくる。日本において日本人が思索する場合、自らが生きる場である 日本と言う文脈を考慮しない思想的営みはきわめて軽佻浮薄名ものに終わるであろう。本質か実存かという一神教と無神論の深刻な相剋という思想命題が伝統的にありえない我が国で実存主義が流行ったりしたのは単なる西洋かぶれの軽薄な知的ファッションに過ぎない。人間は自由の刑に処されているとし、人間は選択によって己を自由に規定できるとしたサルトルも、マルクス主義の唯物史観と主体性の相剋というその時代の西洋のテーマの産物でしかなかった。


人間に自由はあるが、無制約ではなく、伝統や言語、歴史状況によって規定されており、そこを基盤にはじめて自由がある。国語たるラングは自由にならないが、いついかなる物言いをするかの自由はある。また個々の物言いを離れて抽象的に は国語もなく、ラング(国語の体系)とパロール(具体的に話される言葉)は相互依存の関係にある。構造が全てを規定するとする構造主義は片手落ちがある。個々の要素の配置がまた構造を規定するのだ。


(了)

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by kokusai_seikei | 2012-11-18 01:08 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

独我論を破る

 人間は意識から一歩も出ることはできない、と前に書いたがこれは人間は意識を通してそこを場として生きているという意味であって独我論ではない。

 まず人間は意識を通して生きるとは言っても、意識ないし意識内に生起する現象は「我」と言えるようには思い通りにはならないことは経験からも知られる。熱いものは熱いし、冷たいものは冷たい(心頭滅却すれば火もまた涼しというのは所与の感覚として火は熱いことを前提とする)。理不尽な出来事は意思とは関係なく起こって心内で現象してくるし、それに対する憤りも基本的には意思とは関係なく沸き起こってくる(克己とはこの意思と不随意的な感情の相剋を通してなされる。端的に怒りよ消えよと念じても簡単には消えず怒りを制すには修練を要する)。習慣付いた行動は無意識になされるし、自分が考案したわけではない言語によって思考や会話がなされる。

 このように意識内で起こる事がらは自分の意思とは無関係なものが多い。これは意識内に有りつつもある種の「他者」である。自己の中に「他」が渦巻いているのだ。随意的な要素と不随意的な要素が渾然としてなるのが意識であり自己であるといえる。(まさに自他一如である。「自」が「自」と言えるのは「他」があるゆえであり、「他」は「自」に対するから「他」なのである。自他が相互依存して自己を形成している。)

 よって仮に唯識仏教がいうように全ては自己の深層意識=阿頼耶識の転変として形成されるとしても、それは自己の意思とは関係なく形成される限りそれは「他者」であって、他者は外部にあるとする素朴な実在論であっても、このように識の転変のものだとするとしても、結局他者は存在するのだ。

 であるから当然他者を考えず傍若無人に振る舞うことは世界をどのように捉えるにしても許されない。意識内の非随意的要素が教える他者の存在とその他者に向き合い責任ある態度を取ろうとする随意的要素に倫理の根拠があると思う次第である。独我論に陥る危険を避けるためには自己の意識の内部を慎重に観察し随意的な部分と不随意的な部分をよくよく確かめるとよい。仮にデカルト的な自我意識に閉じ籠ったとしても、心内には次々に不随意な現象が起きるのである。

 さらにもう一つ大事なのは不随意的な作用(感覚なり感情なり表象なり)もそれなりの関係性によって起こ
るものであって実体(関係をまたずそれ自体で存在するもの)のあるものではないことだ。実践的観点から言うならば、感情などを無いことにして無理やり抑え込むより、むしろそれを観察して実体がないと見極めてそれに囚われすぎない事が肝要であろう。完全に感情を無くして禅語に言う「枯木寒厳に倚って、三冬暖気なし」というような枯木の如くなることは禅でも戒められている。

 また心内に生起する不随意的な現象に対して随意的に捉え方を決めることはできる。それは不随意的な要素との相剋を伴うため簡単な事ではないが修練してそれを成し遂げ人格を打成してきたのが日本及び東洋の先哲方である。感情を無くすよりとらわれない境地を目指したいものである。

 禅を絡めて説くと本居宜長先生にしかられるかもしれないが、もののあわれを感じる心とはものや事柄に触れて呼び起こされる情感のことであり、あくまでも「物に往く道」であって、あとあとまで尾を引かないさわやかな「朝日に匂う山桜花」のような心持ちのことだというイメージを持っている。冬の雪をめでたあとに来る春には桜をめでたいものだ。

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by kokusai_seikei | 2012-11-18 00:49 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

唯物論について考える

 「唯物論の凡ゆる形式のものをこの際徹底的に克服しなくてはならない」と愛宕北山先生はおっしゃっているが、愛宕先生を初めとする国際政経学会の先人たちは猶太的なる思想として唯物論との思想闘争を大きなテーマにされていたようである。

 そこで自分なりに唯物論批判を試みたいと思う。まず唯物論は一種の超越論である。人間は意識を通してしか事物を認識できなし、意識そのものが生きる場になっている。しかし唯物論者は自分も人間であるにも関わらず、超越者の位置に立った上で意識の外にあらかじめ物質という恒常的存在を想定する。 その上で意識と物質を並べ、その両者を比べた上で後者がより根源的だとするものである。西洋的な観念論はその逆と言える。これらは二次的で仮構的な臆見に過ぎない。

 人間存在にとってまず第一義なのは意識であり意識という場の内部に生起する諸感覚や表象であって、連続的に継起する感覚や表象を抽象化して「物質」や「精神」と呼ぶのである。

 あらかじめ超越者の立場にたたない限り意識の場こそが人間存在にとっての第一に与えられる基盤であって物質や精神というものはそこから抽象化されて仮構されたものである。従って意識の場を離れて精神と物質の先後関係を論じても虚しいと思うのである。

 超越者ならざる身でありながら超越者の立場に身を置く仮定的思考に過ぎないからだ。では人間にとって外部はないか。これはあるともないとも言えない。まず無いとは言えないわけは人間の意思に関わらず「熱い」とか「寒い」といった知覚は生起する。それは何らかの外部を推知させる。

 だが、その外部なるものが「物自体」だと断定するのは超越論的である。知覚は常に意識内で感覚的現象として経験されるからだ。それを越えて「物自体」を想定するのは自らを意識を越え、意識と外界を俯瞰して見る超越者の位置に置いていない限り不可能だ。

 では「外界」はあるといえるかというと、特定の普遍の本質を持った外界があるとは断定できない。なぜなら人間は意識の外には一歩も出られないし、「外界」は常に意識内で生起する現象として経験されるからだ。意識を離れて外界が経験されることは無い。

 ここで暫定的な結論を取り合えず書いてみる。「外界」と「意識」の関係について一番妥当な図式はそれ自体としては何だとも規定できない「外部」を意識が現象としてとらえ、その意識の場で諸感覚や表象として現象し、またさまざまな規定や意味がそこに附与されると考える。

 水が人間と魚と餓鬼と天人では異なって感受されるという一水四見の例え通り、取り合えず「外界」と想定される何かはそれ自体は無自性空であって、そこで生きる意識=有情に応じた姿を表すのではなかろうか。無規定な事象を場として生きるそれぞれの意識がその事象を意識に応じて構成するのである 。

 人間の見ている世界と犬が見ている世界とカブトムシが見ている世界はその生命のあり方、感覚器官とそれを統合する統覚の違いに応じて異なるはずである。

 人間としての意識から出られない以上犬やカブトムシの感覚を体験して確かめる術はないが、生命はそれぞれの意識や感覚において生きるものであるとするならそう推知することができる。

 以上は思考途上の暫定的結論である。唯物論批判については国際政経学会の先人たちが取り組んだ根本的テーマの一つなのでこれからも考えて参りたい。

 最後に一つ。「エホバ」にしろ「物質」にしろ意識外に超越項を設定し、そこに根源性を見るという点で猶太教と唯物論は発想が似ている。猶太思想たる所以であろう。「イデア」や「一者」を意識外に想定するプラトン主義は猶太宗教と習合し、猶太フリーメイソン思想の一大特質をなす。
 

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by kokusai_seikei | 2012-11-18 00:41 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

左翼の元祖アダム・ヴァイスハウプトの思想 

 唐突であるが、「左翼」と言われる者たちの主張と言うものは、〇秩序ある政体の廃止〇私有財産制の廃止〇相続の廃止〇家族制度の破棄〇愛国心の破棄〇宗教の破棄   
 だいたいこの六つのうちのいくつかに該当するか、すべてに該当するか、いずれかであろう。

 該当項目すべてに当てはまるわけではなかったり、質的に項目のいずれかをより微温的にしたのが穏健リベラルであり、すべてを質的に微温化することなく受け入れているのはマルクス・レーニン主義者のようなごりごりの共産主義者だろう。

 上記の六項目はイルミナティの基本的六綱領として知られているものである。

 さてイルミナティ創設者でありそのイデオローグとして知られるアダム・ヴァイスハウプトの思想について分析する。

 アダム・ヴァイスハウプトの思想の中核は「理性」の絶対化にある。基督教の神から絶対者の地位を奪い、理性をその座に据える。新しい秩序を作るため、理性を崇拝する唯一の宗教を残し、他の宗教はすべて廃絶、伝統的な秩序・文物はすべて破壊し、更地となす。

 そして「理性」は秩序をゼロから設計し、構築できるという大前提から、その更地の上に世界統一政府の構築を目指す。それは知的能力を保証された少数の超エリートによって構築され運営されるとする。


 ヴァイスハウプトの思想は、理性の絶対視、設計主義、伝統的秩序への嫌悪、排他独善性、前衛エリート主義等々、フランス革命以降に現れる「左翼」のもつあらゆる特質を備えていた。まさに左翼の元祖である。(世に言うカイカク派もその亜流である。最近は「保守」を偽装する場合が多いようであるが)

 左翼の元祖はルソーと捉えられる場合が多いと思うが、古代ギリシャ・ローマ古典時代にどことなく憧れをもっており、ある種復古主義者の側面もあったルソーよりも、完璧なまでの謀反人的で破壊的な思想を発明したアダム・ヴァイスハウプトの方が真の左翼の元祖ではないかと思う次第である。

 ヴァイスハウプトのかかげたこれら一連の理念はあまりに独善的かつお粗末な思想であった。人間には理性の働きはなくてはならないものだが、「理性」を対象化し観念化した上で、それを絶対視し、万能視し、実体視すれば大きな災厄を招くであろう。(革命フランスやソ連がいい例である)

 一人の人間の理性には限界がある。そして、共同体の構築は一人もしくは少数の理性によって設計できるようなものではない。それは長い年月をかけて、積み重なることによって徐々に構築されていくものだからである。国体とは人間とそれを取り巻く自然の相互循環作用の過程において、何世代もかけて自然に生成されてくるものであって、一人、もしくは少数の理性で一気に設計し、構築できるようなものではない。

 生成された国体には歴史の知恵がつまっており、人間の理性の足らざるものを補ってくれる。
理性による急速な構築よりも、歴史的に積み重なってきた、自然や先人との廻向返照がよりよき国の修理固成をなすのである。

そういう意味で気取り屋の親英輩よろしくエドマンド・バークなどの英国流保守主義(確かに参考にはなるのであるが)を持ち込んで、具体的なそれぞれの国の歴史の実相から離れて抽象的観念的に「保守とは何か」をしたり顔に訓示してもなんの意味もないであろう。

 「保守とは何か」を明らかにした上で、その抽象概念(理性の働きの産物である)を演繹的に具体的な国に当てはめて云々するのは理性万能主義と五十歩百歩と思う次第である。(こういう論じ方をする「保守」人士は最近多い)英国は共産主義の一つの策源地でもあったのであるし、明治以来の英国万歳の親英派は大変胡散臭い。(日本共産党の大物でのちに除名された野坂参三は英国滞在中に共産党活動をはじめたという)


 我が国古来の理想は神代以来の伝統をしっかりと保持し踏まえた無窮の常なる生成発展・修理固成であって、単なる「保守」ではないのである。単なる「保守」でもないし、過去を切り捨て未来しか見ない浮いた進歩主義とも違う。着実なる生成こそが我が国の理想であると思う次第である。

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by kokusai_seikei | 2012-11-18 00:14 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

西洋神秘主義批判

 またまた龍樹尊者の破邪の論法を模して今度は表の一神教と対をなす西洋の裏の思想潮流である神秘主義の思想の破砕を試みてみようと思います。

 ここでは西洋神秘主義の源流たる、新プラトン主義の開祖的な思想家であるプロティノスの「一者」から万物が派生し、人と「一者」の神秘的合一を目指すという「流出説」の破砕を試みてみようと思います。

 まず一者をA、そこから派生した存在をBとする。いわば一者たるAと派生物たるBの因果関係の考察となる。この場合AとBの間には二つの可能性が考えられる。1.AとBは同じである。2.AとBは異なる。まず1の場合は不合理である。Aたる原因とBたる結果が同じということになってしまい原因と結果が同じというのは理に合わない。2の場合。原因と結果が全く異なっているなら因果関係そのものが成り立たない。

 異なっても因果関係が成り立つというのなら人は木の股から生まるであろうし犬から猿が生まれるであろう。以上二つの場合ともAとBの因果関係は成り立たない。よって一者による万物の派生を説く「流出説」は成り立たない。

 存在世界において成り立つ因と果の関係は不一不異である。原因と結果は同じとも異なるとも言えないのである。牛乳から出来るヨーグルトは牛乳と同じでも異なってもいない。

 同じなら牛乳とヨーグルトは区別ができないはずだが現実には区別できるし、異なっても牛乳からヨーグルトができるというなら同じように異なる味噌汁からでもヨーグルトができるだろう。

 原因と言い結果と言うもそれぞれそれ自体で存在する実体ではなく、それぞれ関係性から成り立っている名前のみのものである。ある関係性をもつと牛乳と言われそれとはまた条件が異なる関係性を持つとヨーグルトと呼ばれるのみである。
 
 「因果関係」とは関係性が絡み合う一続きの事物の中から、隣接するある二点を切り出してそこに「因」と「果」という概念を付与しそこに因と果の関係を観念的に仮構したに過ぎないものだ。しかるに因と果をそれぞれ他から切り離された独立の実体だと規定すると因果関係は成り立たなくなるのである。

 「因」も「果」も無窮なる大宇宙の産霊の生成作用のある一点に便宜上つけられた記号に過ぎない。ある一点に「一者」を想定した時点で無窮の生々たる宇宙の実相であるかんながらの大道から外れてしまっている。

 一神教の「唯一神」観念といい、神秘主義の「一者」といい、はたまた「近代的自我」の哲学といい、宇宙の生々の一点を観念化し矮小化し固定化した上でそれを無上の存在とあがめるせこい思想である。(なのに自分達は無上の神を崇めていると傲り高ぶっている)

 せこいが故に余裕がなく偏狭であり排他的でありときに暴力によって他者に押し付ける。カトリック勢力によって固有の精神文化を破壊された中南米を見よ!神社仏閣が破壊され神官僧侶が迫害された我が国戦国時代のキリシタン大名領を見よ!(そこからの自衛としてキリシタン排撃があったのだ。)

 ともかく「流出説」のように実体としての個我と実体としての永遠の実在の神秘的な合一を説く神秘主義は成り立ちがたい。一神教にしろ神秘主義にしろ西洋の思想にはこのような実体観が染み付いている。

 実体論は言い換えれば二元論である。区別する思想であり、区別した上で「一つの世界」を目指し、一つの思想ですべてを征服せんとする思想である。実体論的思想は世界を染め尽くすまで闘争を続けようとする衝動を秘めている。国際秘密力によるワンワールド運動がまさにそれである。

 いかにそれを阻止するか。まず国際秘密力を思想レベルから解剖・解析する必要があると思う。世界の諸民族の思想を彼らの都合がいいように改造することが彼らの根底的な侵攻手段であるから、思想レベルからこれに対抗する必要があるからだ。

 表のヘブライ的一神教と裏のグノーシス的神秘主義から西洋の精神世界は成り立つ。前者はキリスト教会、後者はフリーメイソンに代表される。西洋世界からは常にこの一神教の潮流とその裏の潮流である神秘主義的思想が分進合撃してくる。
 
 「西洋」を一面的にのみ見て、一神教に味方して神秘主義を批判する(基督教原理主義など)、神秘主義的思想に味方して一神教を批判する(ニューエイジなど)、そういう両建に乗せられた半端で、かえって敵を利する対応ではなく、一神教と神秘主義をまるごとまとめて破砕し、その両方の侵襲から日本および東洋固有の精神文化を護持するため、我々日本人・東洋人としての思想の論理を磨かなければならないであろう。日本民族・東亜民族の対国際秘密力の攘夷戦はまず世界観戦争や思想戦として規定される。

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by kokusai_seikei | 2012-11-17 22:14 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)