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ツイートまとめ テーマ:舛添問題から見る「スピン」という情報操作手法について


〇「東京地検特捜部」と並ぶ国際秘密力の対日支配用の主要機関である「電通」の五輪招致に関する疑惑が海外ではバンバン報道されている様だが、日本の大手メディアは当然の如くほとんど報道していない。日本のマスコミが電通支配下にある事を改めて裏付けている。

〇「検察神話」はとっくに崩れているが、次はいよいよ「電通」であるかな。「破国際秘密力」による日本独立の為には国際秘密力の対日支配機関の力を減衰させるのが重要になってくる。今後の展開が楽しみである。

〇電通の嫌われっぷりが凄い。多くの人々がほぼ一般常識としてその正体と役割に気づいているのだ。裏権力の連中はマスゴミさえ押さえておけば何とかなる時代は終わった事に気づいていないのではないか。電通に関する報道を抑制しても大した意味はない。「疑惑」は過熱する一方である。

〇マスゾエ東京都知事は裏権力がピックアップした知事だと思うが表のメディアでも叩かれまくっているのは五輪招致における電通の疑惑から目を逸らす為だろうか。電通か舛添かで言うと裏権力のヒエラルキー上電通の方を優先的に守ろうとするだろう。だが、電通の正体はとっくにバレているので無駄である。

〇舛添問題はどうもスピン臭がする。電通の疑惑のほとぼりが冷めたら一気に収束したりして。だが、電通疑惑はほとぼりを冷まさないので、スピンネタとしての賞味期限が切れるまでマスゾエ氏は叩かれ続けるのだろう。

〇元々金にルーズな者を傀儡にしておけば、いざという場合に切りやすいだろうし、何か隠蔽したい事象がある場合には表沙汰にしてスピンネタにも使える、という事だろうか。「傀儡を選ぶには蛆虫で満載した袋を背負った者を選び、従順でなくなると『背中を見よ』と言え」という国際秘密力の走狗操縦術。

〇舛添氏が東京都知事を辞職。舛添問題はパナマ文書や甘利問題、五輪招致における電通の賄賂疑惑から目を逸らすには格好のスピンネタであった。だが、都知事辞職によってこのネタも終わった。次はどんなスピンネタを仕掛けてくるだろうか?スピンネタに惑わされず常に本質的問題に目を向けるべきである。

大手メディアがこぞって特定の人物を叩き始めた時は「今はこの人物のスキャンダルのみに注目してください。他の問題は気にしないでください。」という意味。スピンコントロール」という情報操作の手法。裏権力にとり都合が悪い情報は隠し、どうでもいい又は都合がよい情報に人々の注目を向ける手口。

〇「「徹底追及」の構え」「激しい野次」から一点、舛添氏の都知事辞任あいさつで「拍手」が起きるとは。政治アクターの皆様による「スピン役ご苦労様でした」というねぎらいだろうか?【舛添辞職あいさつに「拍手」が 東京都議会の対応に「ビックリ」】http://www.j-cast.com/2016/06/15269777.html

「陰謀」とか「裏の構造」というのは外部から直接見るのは困難だが、表に出てきたちょっとした動きで推理できたりするものである。怒号を飛ばして「徹底追及」していたのが「疑惑」が解明された訳でもないのに都知事を辞任した途端に「拍手」とは、「茶番」「グル」という言葉しか連想できないのだが。

〇工作員も常用。引用:スピン(英語:spin)とは、パブリック・リレーションズ(PR)において、特定の人に有利になるような、非常に偏った事件や事態の描写を意味する、通常皮肉のこもった言葉である。【スピン (パブリック・リレーションズ)】https://ja.wikipedia.org/wiki/スピン_(パブリック・リレーションズ)

「スピン」のテクニックの中にある「立証されていない事実を前提とする論法」は工作員がよく使う手口。「立証されていない事実」を「立証されていない仮説」として扱うなら普通の事だが、端的に「事実」として前提とするとカルト教義と同じである。このテクニックは基本的にカルトのやり方である。

「立証されていない事実を前提とする論法」は「自信満々な態度」とセット。以前指摘したカルト教祖の資質三要素「声がでかい・態度がでかい・有無を言わせぬ押しの強さ」によって聞かされている側が「何となく受け入れてしまう」雰囲気を作り出す訳である。だがこんなものは冷静であれば簡単に破れる。

「立証されていない事実を前提とする論法」に対処するには「実証がなされていない事の指摘と実証の要求」が有効と考える。論の真偽と「自信満々な態度」は本当は何の関係も無い。論の真偽は「態度」に関わらず論自体で決定される。実証的な態度と「態度」に気圧されない平静さが「破カルト」の武器。


https://twitter.com/kikuchi_8/statuses/731638674362748928


(了)


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by kokusai_seikei | 2016-08-24 07:17 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:安倍一味以下与野党グル国会が熊本地震をスピンに使って可決した盗聴法


ジャパンハンドラーズのお犬様こと安倍一味以下与野党グル国会は熊本地震をスピンに使って、「通信傍受」という名の盗聴の権限を強化するなど監視社会化を推進している。【熊本地震の背景でひっそりと可決した驚くべき法案とは】
http://matome.naver.jp/odai/2146172853824947201

〇民進党は自民党がヘイトスピーチ法案の「対案」を出す事を「条件」に刑事訴訟法改正案の審議に同意した。ヘイトスピーチ法案といい、盗聴の権限を拡大する刑事関連法案といい、どちらも国民への監視と弾圧を強化する同一方向の法案である。全然「条件」になっていない。改めて与野党はグルだと分かる。

〇「ヘイトスピーチ法案は民進党が刑事訴訟法改正案を盾に取ってまで自民党に押しつけたのだ」と産経。「保守層」の安倍離れが加速しないように「ヘイトスピーチ法案は民進党だけの仕業」と印象付る工作だろう。自民も民進も無い。この連中は仲間である。与野党グル構造で国民監視体制を強化している。

〇自民党は刑事司法改革関連法案で、捜査の可視化と見せつつ(取り調べの録音録画の適用は取り調べ全体の過程の3%程だそうだ)実際には大幅に官憲の権力強化を図る。一方で民進党はヘイトスピーチ法案を推進した。売国与党と売国野党の両建による「分進合撃的な競争的努力」により監視国家化を推進。

〇捜査の可視化を実現する刑事司法改革(実際には取り調べの全過程の3%程しか録音録画されないそうだ))に見せて、司法取引導入や盗聴権限の強化などを抱き合わせ官憲の権力の強化を図る。実に狡猾なやり方である。マスコミも「捜査の可視化」という部分しか報道しない。全員「共犯」である。

〇「刑事司法改革関連法」では、通信傍受の範囲が「薬物、銃器、集団密航、組織的殺人」から「放火、殺人、傷害、逮捕監禁、誘拐、強盗、窃盗、詐欺、恐喝」にまで拡大。警察以外の第三者の立ち合いも不要となる由。詐欺や窃盗などは科学者なども「捜査対象」にできた罪である。盗聴し放題ではないか。

〇例えば、小保方氏は不可解な「窃盗」事件で事情聴取を受けた。窃盗事件でも立会人無しで盗聴が可能になるという事は、「為にする」としか思えない政治臭のする事件の「捜査」の場合でも盗聴が可能になるという事だろうか。某地震学者のケースがあるが、詐欺は研究者をも引っ掛ける事ができる罪である。

〇小保方氏のケースをモデルに考えてみる。①誰かが「窃盗事件」等で告発状を提出する。②警察は窃盗事件として受理し、捜査開始③証拠収集の為に通信傍受④容疑者不詳のまま捜査終了。〇もしこのような流れが可能なら、「捜査→盗聴する為」に敢えて「事件」を作り出す場合も考えられないだろうか。

〇盗聴可能範囲を広げる意味を思考実験する。必ずも逮捕・投獄して社会的に抹殺するという事で無くても、特定の人物の情報を取得する為に、その人物にまつわる「事件」を作り、捜査し、その過程で盗聴する。必要な情報を取得すれば、「嫌疑不十分」で事件終了。などという事も想定できないだろうか。

〇ヘイトスピーチ法案は移民政策とワンセットだと見る。つまり、移民政策を推進し、外国人が大量に入ってきた場合、当然文化の違いから摩擦が起きるのが目に見えている。それに対して当然日本人は抗議するが、事前に外国批判を萎縮させて、無国境化=ワンワールド化を推進する狙いではないか。

〇刑事司法改革関連法案は官憲の権力強化が狙いであり、ヘイトスピーチ法案は外国批判の抑制による移民政策の受け入れ=ワンワールド推進が狙いだと見る。これらを自民と民進の与野党グルで推進。一見正反対にも見える官憲の強化と外国批判の抑制は本当は連動している。官憲の背後者が外国勢力だからだ。

「官憲の背後が外国勢力」は今に始まった事ではない。戦前からである。警視庁は親英米派の私兵的機関だったそうだが、戦前の国際秘密力研究家の手記によると政府機関や日銀などの上層部に国際秘密力のスパイ網が張り巡らされていたそうだ。例えば上海のサッスーンに逆らえる官憲は存在しなかったろう。

〇右はヘイトスピーチ法案のみを批判し、左は刑事改革関連法案のみを批判する。しかし、これらは「外国勢力による日本人弾圧法案」という同一線上のものであり、両方批判すべきものである。ものの見事に左右両建構造に嵌められている。国民を左右に分断して批判の威力を削ぎ支配する裏権力の狡猾な手口。

〇警察が通信傍受=盗聴をする際、今後はNTT職員など第三者の立ち合いを必要としなくなった。その代わりに「事件の捜査と関係のない警察官」を立ち合わせると。「なめとんのか?」の一言である。外部の人間が立ち会わないと意味がないではないか。

〇創価学会信者の元警視庁警察官がNTT職員と組んで通信記録を盗んだ事件があった。NTT職員さえこんなのがいる。警察官を立ちあわせたところでなおさら無意味である。本当に安倍一味はとんでもない法律改悪をやらかした。http://www.forum21.jp/contents/03-5-15.html


https://twitter.com/kikuchi_8/statuses/731151523783184385


(了)


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by kokusai_seikei | 2016-08-24 07:15 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:東西の倫理道徳思想の違いについての考察


〇西洋思想と東洋思想の違いは色々あるが(「常住不変の実体を認めるか否か」は指摘した)、規範とか倫理、道義道徳に関する考え方の違いが大きい。西洋では唯一とされる人格神への信仰が根強い。規範や倫理あるいは「自然法」は神が定めたものとされる。その為、道義道徳より人格神への信仰が優越する。

〇一方、東洋では人格神への信仰より、規範や倫理、道義道徳の方を根源的と見る。印度では「ダルマ」という行為規範に外れなければ幅広い形而上学(無神論すら)が認められるそうだ。原始仏教の主題は形而上学的思索ではなく「ダルマ」(普遍的な行為規範)の実践である。

〇支那では「」という規範の考察と実践が伝統的学問の主題である。「道」を人為的に定めたものとするか、天然自然のものとするかで、儒家と道家の違いが出てくるが、何らかの行為規範を巡る問題意識が中心となっている。儒家でも道を天=自然に由来するものとする考えが主流である(特に宋明理学)。

〇日本では古事記の神話にある天照大神須佐之男命誓約(うけい)の逸話が象徴的である。心が清いか否かを相互に誓約という古代の儀式によって決しようという話であるが、ここには神々さえ従わなければならない規範が暗黙に想定されている。古来より日本人は道義や道理を「お天道さま」と呼んできた。

〇原始仏典の中で仏陀は神々の教師として振る舞っている。つまり、ここでも神々さえ従わなければならない規範=法=ダルマが前提とされている訳である。キリスト教では規範は神が授けるが、仏教では規範に従った者が仏となる訳である。逆である。この規範に対する捉え方の違いが東西の根本的違いと思う。

〇「神が掟を作り人に命じる」という考えだと色々と問題がある。一つは、神が命じたという事にすれば道義道徳を容易に踏み越えてしまう事である。十字軍異端審問魔女狩りなどキリスト教の歴史がその証拠である。もう一つは神の存在が信じられなくなると規範も同時に無くなるニヒリズムの問題である。

ニヒリズムの問題は本来は西洋一神教世界でしか起こりえないものである。価値や規範の基準を唯一神への信仰に依存しているキリスト教世界では、近代以降に唯一神への信仰が薄れるとそこに基礎づけられた規範も相対化し崩壊してきた。これがニーチェが言う「神の死」である。

〇一方、東洋では人格神への信仰より道や法など規範そのものを根源的と考えるので、本来はニヒリズムは起こり得ないはずである。もしニヒリズム的状況が東洋にもあるとしたら、それは単純に西洋化の結果であろう。東洋ではニヒリズムは内発的なものではなく、常に西洋と相対するという外発的問題である。

〇東洋でニヒリズムが本来ありえないと考える理由は東洋では神の存在不存在は道義道徳の存在とは直接関わってこないからである。逆に道義道徳自体が神も人も規定すると考える。これは日本でも支那でも印度でも同じと思う。この考え方だと神の命令として道理に反する行いが正当化される可能性が低くなる。

〇我が国の例で言うと、山崎闇斎学派の浅見絅斎は幕末の尊皇攘夷思想に多大な影響を与えた、厳格な倫理道徳規範を説いた儒学者である。しかし、絅斎は師の山崎闇斎が神道に傾斜するとこれを批判し破門になった。一方で、闇斎も神は「理」としている。信仰が道義を基礎づける西洋との違いが明らかである。

〇山崎闇斎と浅見絅斎は神道に関する姿勢に違いがあるものの「道義に従い、心と行為を正す」という結論はあまり変わらないと考える。神崇敬を受け入れた闇斎も、拒否した絅斎もともに併存が許されていたのが我が国江戸時代である。「神を信じない」事が同時に無道とされるキリスト教社会との違いである。

〇神道では善神と悪神がいる。というより、どんな神も人間に恵みをもたらす面と災いをもたらす面があると考える。これは自然の両面であるとともに、善悪に揺れ動く人間に近い存在として考えられていた事を示すと思う。そもそも善悪はなんらかの基準に照らして言われる。基準が前提とされている訳である。

〇結論:日本でも支那でも印度でも東洋では基本的に道理が根本と考えられている。人格的存在は人間でも例え神であろうと道理に従わなければならないとされ、又は道理自体が非人格的神(天など)と捉えられたりする。この考え方は道理が信仰に優越するので宗教的悪行をも抑止できる優れた特徴を持つ。

〇神道・儒学・仏教・老荘という日本と東洋の主な思想で共通して言える実践規範は「己の心を清め、正すこと」だと思う。神道では清浄を重んじる。儒家は「人欲を去り天理を存する」(宋明理学=朱子学・陽明学の標語)と言う。仏教は煩悩を制する事を教える。老荘は無為自然に遊ぶ為に少欲知足を説く。

〇神道や孟子の性善説、荀子の性悪説、仏教や陽明学の善悪無記説、立場の違いはあれどとにかく「心から汚いものを払い除いて清め、正す」という実践規範である。東洋思想のエッセンスはこれだと考える。「己の心を清め正す」は外部の真実在と心を合致させようという神秘主義=「合一」系の思想とは違う。

〇神秘主義では心を外部の実在(神や一者、ブラフマン等)と合一させる事を目指すが、東洋思想では現にある心のあり方を問題とする。心の捉え方として、祖先から頂いたもの(神道)、刹那滅の心相続(仏教)、天が生んだもの(儒学)、其々違いはあるが、現にある心の修練が主題の自己鍛錬の道である。

〇宮本武蔵の「まよひのくものはれたる所こそ、実の空と知べき也」は実践的な意味での「空」の完全な定義だと個人的には思っている。迷いや煩悩を離れた自由な境涯で為すべき事を為す。現実主義を貫いた武蔵が自己鍛錬の果てに見出した境地は「空」だった。空は因縁に依って成る現実世界の論理そのもの。

〇西洋の因果律では「必然性」という考えが支配的。因と果の関係は単線的かつ必然的であり、原因が定まると結果も定まると考える。そして自由意思と因果律は相反するものとされる。因縁の考え方は因のみで果があるのではなく必ず縁=条件を必要とすると考える。ここには「偶然性」を容れる余地がある。

〇「因に縁も加わって果がある」という考え方は明るさと希望がある。縁を変える努力をすれば果も自ずと違ったものになるからである。西洋の因果律が暗いのは、絶対的な第一原因というものを立てる事によると思われる。定まった絶対唯一の原因を最初に置くと後は必然的な因果の系列しかないからである。

〇自由意思と因果律は相反する、という考えはおかしい。自由意思も因や縁となりうる。説一切有部など初期仏教の「惑→業→苦」論では主に意志的な行いとその結果の関係で因果律を捉えている。また現代の法律でも行為と結果の因果関係の確定を重視する。https://ja.wikipedia.org /wiki/因果関係_(法学)

https://twitter.com/kikuchi_8/status/734775172280942594


(了)

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by kokusai_seikei | 2016-08-24 07:08 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:印度の思想哲学についての考察


〇ヒンドゥー教哲学者のシャンカラ不二一元論は「実在はブラフマン即アートマンだけ、他は全て幻影」という思想である。「実在は愛だけ、他は全て幻影」というデイビッド・アイクの思想とそっくりである。アイクは神智学系の陰謀論者と言えるのでバラモン教系の思想の影響を受けていても不思議はない。

「実在はブラフマンのみ・世界は幻=マーヤー・世界は実在たるブラフマンの顕現」という思想がヒンドゥー教の主流の形而上学説だそうである。一見、真言密教の大日如来説と似るが、大日如来(=宇宙)は実体ではなく六大という構成要素から成る(=縁起=空)とする点が根本的に違う。縁起説の枠内。

〇ヒンドゥー教では様々な神々を信仰するが、その根本は「ブラフマン」という宇宙原理であって「唯一者」などともされる。この「唯一者」が様々な神の姿を取るとする印度人学者も。この解釈だと汎神論的でありながら、かなり一神教的である。大本教系の万神即一神論のネタ元はこの辺にあるのではと思う。

〇素朴な疑問だが、ブラフマンが変化しない実体ならば、何故様々な存在として顕現できるのか?特定の姿を取るという事は変化するという事であり「不変」と矛盾する。こういう単純な疑問を解決せずに最終的に「信じるしかない」とされるのが形而上学である。なので形而上学的断定を避ける「無記」がよい。

モーハン・セーンという印度の学者によると印度文化はアーリア的要素と非アーリア的要素で構成されているそうだ。アーリア的要素は「天上の神々への信仰」「祭式万能主義」「供儀」「厳格な階級制」非アーリア的要素は「不殺生=アヒンサー」「禁欲」「出家遊行」「ヨーガ(瑜伽行)」「先祖崇拝」等。

「出家遊行」「禁欲」「不殺生=アヒンサー」「瑜伽行=ヨーガ=印度独特の精神鍛錬法」はインダス文明に由来する非ヴェーダ的な要素だそうだ。ヴェーダはアーリア人の聖典。アーリア文化は結社的価値観と酷似。仏教は非ヴェーダ的文化。この辺に彼らが仏教を嫌い、破壊しようとする淵源がありそうだ。

〇バラモン教(特にウパニシャッドの教え)と仏教では「解脱」を目指す点は共通している。前者は個人原理と宇宙原理の一致=梵我一如を悟る事が「解脱」だとされる。これは信仰や神秘を前提とする。一方、仏教は執着・煩悩を離れる事がそのまま「解脱」だとされる。こちらは信仰や神秘を前提としない。

〇バラモン教と違い仏教が普遍性を持ちえたのは、前者が「ブラフマン」「アートマン」という形而上学的原理を信仰的に受け入れる必要があったのに比べ、後者は「執着を離れると苦しみが消える」という信仰的前提が無くても誰もが確認できる現実の人間の心理的法則に立脚したからではないだろうか。

「個人我たるアートマンと宇宙我たるブラフマンを合一させると苦しみが消え解脱が起きる」というのがバラモン教の梵我一如の思想である。一方、仏教では現実の心の中から貪欲や憎悪、傲慢、無知といった「煩悩」をいかに自制して取り除くか、という事が主眼となっており、「合一」は目指されていない。

〇バラモン教ではヴェーダは天上の神が与えた聖典と考える天啓史観である。祭式万能主義であり、厳格な階級制への固執がある。生き物を生贄として殺し、供物として神々に捧げる。この「アーリア的要素」は見れば見る程、西洋の秘密結社員の思想と酷似している。彼らの思想的淵源ではないだろうか。

〇仏教が印度の非アーリア文化の代表であるが、ヒンドゥー教の祖先崇拝の要素もアーリア文化ではなく非アーリア文化に由来するそうだ。アーリア系では祖先崇拝より「天上の神」など形而上学的存在への信仰が優越するという事だろうか。この辺りの傾向性も後の一神教文明や結社員の思想との類縁を感じる。

〇本来の神道では「天上の神」への信仰ではなく祖先崇拝と自然崇拝が基本だった。元々自然環境の中でその都度祭りが行われていた為か儀式も簡素であり、血を不浄として嫌い生贄の供儀はしない。日本では身分秩序は多元的であまり厳格ではなかった。印度の非アーリア的な要素と親和性神仏習合も頷ける。

〇「印度文化のアーリア的要素と非アーリア的要素」という切り口で考えると、色々見えてくるものがあった。以上その考察をまとめてみた次第である。

https://twitter.com/kikuchi_8/status/733787014735269888

(了)



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by kokusai_seikei | 2016-08-20 07:43 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(3)

ツイートまとめ テーマ:実体論についての考察


実体論は二元論(多元論も二元論の延長)とセットである。実体を複数立てる思想は言うまでもないが実体を一つしか立てない思想でも二元論になる。例えばプラトン哲学ではイデアという実体を立てて現象界と区別するが、イデア界と現象界が絶対的に隔絶したものとする以上必然的に二元論になるのである。

「実体」を立てる限り究極的には「一元論」はありえないのでは。「一」を立てると必然的に「二」以上の数字も想定されるからである。「一」を立てると、「一以外の何か」を同時に生み出すのである。何かを「一」として取り上げる事は同時に「一とそれ以外」の二つに世界を分ける(分別)事を意味する。

〇数字の概念は自性=実体が無く相互に依存しているので、1は1以外の数字に依存しており1以外の数字は1に依存している。1が絶対的に1なら、1が二つ集まっても1と1であって2にはなれない。一元論と言った途端に「一」と「それ以外」が生じ二元論となる。「一」を立てると必ず「二」が生まれる。

「一」と言った瞬間に「世界」は「『一』と『それ以外』」に分かれ「一」ではなくなる。だからこそ「維摩経」の中で維摩は「不二=空=縁起」を示すのに「不二」と言葉では言わずに沈黙したのである。「不二」をいくら言葉を尽くして説明しても、言葉に出した瞬間にそれは「二」になるからである。

〇しかし、一方で「空」を示すのにも言葉を使わないと伝わらないのも事実である。この場合、龍樹の様にあくまで言葉を方便であり、「実体」ではなく「空」と見なした上でなら自由に言葉を駆使できるのである。言葉が空と自覚した上でなら言葉で表現する事による概念への実体視が起きないからである。

空っぽの器に色々な料理を盛る事ができる様に言葉は自性が無い=空だから機能する。AがBに言葉を伝える場合で考える。①Aが言葉を発する②空気の振動が伝わる③Bが言葉を感受し理解する〇この一連の過程は生滅変化する無常な過程である。言葉が不空=常住であれば一連の変化の過程は不可能である。

「一」と言うと「一」と「それ以外」を同時に生み出し対立構造を生じる。ワンワールド主義者の様な「一」を強調する者ほど争いを起こすのはその為である。「ワンワールド」を言う限り争いと抑圧が続くのである。「元から不二」と気づけば多様な文化のあり方をそのまま認める。」はこの状態である。

〇「不二」は「一」とは違う。不二とは「万物万象は相互依存関係=縁起で成り立っており、一とか二とかは究極的には言えない」という事である。空思想は一元論ではないのである。「空」を特別な原理として立てた途端に「空」ではなくなるのである。現象のあり方を「空」と表現しただけなのである。

〇空は一元論ではない。強いて言えば「無元論」である。特別の実体を立てず、空自体に対しても実体視を避け、どこまでも空じていく(空亦復空)。こうして特別な原理としての空も否定される。そうなると何が残るか。生滅変化する現象だけが残るのである。だから「空即是色」「理事無礙」なのである。

「空」を徹底すると、最終的に現象だけが残るのである。言葉と概念で構築する形而上学が否定された現実主義とも言える。だから華厳思想では「事事無礙法界」を究極とするのだと解釈している。現象とは生滅変化する世界。具体的に言うと、眼耳鼻舌身意・色声香味触法という認識と認識対象の世界である。

空を徹底すると虚無になるのではなく現象が残る。「存在」とは具体的に言えば個々の現象の事であるので、存在自体を否定する虚無論とむしろ逆の結果である。しかし、現象は常住ではなく常に変化する。だから「実体としての有=実有」も同時に否定される。こうして有と無の否定=中道が空だと分かる。

空を徹底すると現象だけが残る。そして、その現象を成り立たせている原理(もちろん形而上学的なものではない)が「縁起」(縁って起こる)なのである。「空」を時間的に表現すると「無常」となる。だから、縁起=空=無常なのである。これらは全て生滅変化する現象のあり方を表現した言葉である。

「空を徹底すると現象だけが残る」というのは多様な現象世界を特別な形而上原理で一元化ないし二元化させようという志向とはまさに真逆である。空思想を度々参考にしているのは、根源的なレベルで「破ワンワールド思想」「破NWO思想」をなしうる発想の可能性をそこに見るからである。

「多様な現象世界」と書いたが多様かどうかはあくまで認識主体たる人の視点次第である。万有が相互依存しているという面に注目すると「不二」であるし、相互依存的に条件づけられながらも個物が成立している面に注目すると「多」と見る事もできる。要は「世界をどう見るか」という視点によるのである。

「個物が成立している」と書いたが、個物の成立には言語が介在する。現象は条件づけられて生起するので究極的な意味では真の「個物」は無いが、条件づけられて成立する現象を適当な範囲で区切って名称を与えるとそれが「個物」になる。例えば、人間の皮膚を境界として名称を与えると「個人」となる。

〇栄養を摂取したり、空気を吸ったりしないと人間は存在しえないから人間と自然界は一体の現象である。しかし、皮膚を境界にして人間を個人存在と見る事もできる。この場合、個人存在を生み出す鍵となるのが名称である。人間だけではなく万物がそうである。つまり「万物=名称と形態」である。

〇「ワンワールド」なる事物も「世界を一つと見る」という「視点」と切り離せない。「世界を一つと見る」のは別に勝手にすればいいが、それを現実に「世界」に押し付けるから問題なのだ。世界は視点次第で不二とも多とも見る事ができるのに、固定化した「一」のみを押し付けるのは馬〇のやる事である。

〇山を遠くから眺めたら「不動」に見えるが、実際に山に入ってみれば動植物などが息づく「動」の世界である。宇宙空間から地球を眺めたら「青い星」なのかもしれないが、地表の上で暮らしていたら別に青くはない。「見る視点」をどこに取るかで事物の姿は変わる。NWO思想は視点の固定化の産物である。

〇要するに国際秘密力の連中は世界を「我が物」だと妄想しているから世界が「一つ」に見えるだけである。「世界は一つ」とは「世界を一元的に支配したい」という欲望の表出以外の何ものでもない訳である。NWO思想とはただそれだけの事に過ぎない。あの連中は傲慢すぎて視点を相対化できないのである。

〇欲ボケ国際秘密力は悪知恵だけで、やはり根本的には頭が悪すぎる。魔術や洗脳科学の類をいくら極めても欲にまみれているので簡単な事実すら見えていない。日本人には先人が残してくれた偉大な遺産がある。戦国から江戸期の「破吉利支丹」の様に「破国際秘密力」できると信じる。

〇プラトン思想が「現象」を「無」とし、イデアという「実在」を「有」(実有=他に依らないで存在する実体としての有)とする思想とすれば、空思想は「実在」(実体的存在)としての有も無も共に否定して「現象」を「仮有」として認める。仮有とは因縁に条件づけられて存在するあり方という意味である。

〇中論に「縁起が空であり仮であり中道である」とあるが、この中の「仮」が「仮有」の事である。縁起の道理によって条件づけられて存在する現象に「仮に」名称を与える事で「個物」として成立する(所与を所識として認知)。「仮に名称を設定する」という事で「施設有」(せせつう)などとも呼ばれる。

〇ちなみに「龍樹」中村元著(講談社学術文庫)によると「非有非空の中道」という天台系の解釈は誤りだそうだ。有無の中道が正しい。縁起=空=仮=中道であって、「有と空の中道」ではないのである。「有無の中道」が縁起であり空であり仮であり中道であるのだ。論理としてもそちらの方がすっきりする。

〇「非有非空の中道」は空を無に引きつけた解釈という感じがする。空は有と無の中道なので無に引きつけた解釈は筋が通らない所がある。空思想は現象を「仮有」として認める訳なので「無」に固執するニヒリズムとは全く違うのである。相対的な有無を超えた生成変化の「道」を重視する老荘思想とも通じる。

「第一原因」の迷妄。西洋ではゴッドや一者など「第一原因」を立てる。しかし、「原因と結果」とは無常な先行現象が無常な後続現象を引き起こす一連の無常な現象の流れを記述する為のカテゴリに過ぎない。原因は実体ではありえない。原因が不変の実体であれば結果への変化や遷移があり得ないからだ。

〇原因Aと結果Bが其々「実体」なら二つの関係しかない①AとBは同じ②AとBは異なる〇①の場合は原因と結果が同じになってしまい矛盾。②の場合はAとBが異なるならBにとりAと同じく異なるCもDも原因となってしまいAが原因である必然性が失われる。この様に実体論では因果関係が成り立たない。

それ自体が無い=空だから「有」ではなく因縁に依ってあるから「無」ではない。だから「有無の中道」である。現実の現象のあり方は実体的な意味では「有」とも「無」とも言えない「空」なるあり方をしているという観察である。言葉=概念による有無の二元論では捉えきれない生滅変化する現象のあり方。

〇「第一原因」についてだが、物事は単一の原因だけから生起する事は無いので「原因を遡れば第一原因に辿り着く」は間違った推理である。物事は常に主要な原因と副次的な原因の複合によって成り立ち、それらの原因もまた複数の原因条件を持つ。複雑な原因条件関係の網の目に「第一原因」は見つからない。

〇「第一原因」論では「A→B→C・・」という単一の原因から単一の結果が出るという単純な因果観を前提にしている。しかし、先述した様に原因と結果を単一の実体とすると因果関係自体が成り立たない。因果観そのものが誤謬を含んでいるので、それを前提にいくら因果の系列を遡っても結局は誤謬に陥る。

〇「物事は因=原因と縁=条件に依って生起する」という因縁のあり方からすると、原因条件を遡る程、原因条件が無数となり無限に拡散する。何故なら原因条件にもさらなる原因条件があり、原因条件関係の連鎖は尽きる事がないからである。したがって、固定した第一原因を求める事は思考の無駄遣いである。

〇仮に宇宙の始原があるとしたら、第一原因の様な実体的なものではなく日本書紀で言う「混沌」とか支那で言う「元気」の様な無常で変化するエネルギーの塊みたいなものだとすると論理的な筋は通る。だが第一原因は万物の始原とされるものの不変とされているので生成や創造という変化と論理的に矛盾する。

〇と言っても、どの民族も天地開闢の神話(民族の世界解釈の仕方を反映)を持っている訳で、その優劣を比較する事に意味はない。ただ西洋の場合は第一原因を単なる世界観の反映や神話ではなく実際に存在するものとして固執するから問題が起きるのである。だから、それを検証し相対化する事に意義はある。

形而上学については基本的「無記」の姿勢で臨むのが無難である。検証しようのない事柄で特定の断定的見解に固執すると争いが起きがちだからである。ただ「正しいか間違っているか」ではなく「論理的に筋が通っているか否か」は検証する事ができる。後者の検証は無記に反していないと考える。

〇という訳で、形而上学的見解の評価についてはあくまでも無記の姿勢で臨みつつも、西洋における「第一原因」という考え方はキリスト教や神秘主義という形をとって現実世界に影響を及ぼしているので、その限りおいて現実的に検証できる「論理的に筋が通っているか否か」を検証してみた次第なのである。


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(了)

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by kokusai_seikei | 2016-08-20 07:41 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:気象操作は「夢ではない」と語るNASA関係者


NASAの関係者が「天気の制御」は「夢ではない」と語る。引用:将来は,太陽光発電衛星から送り出すマイクロ波ビームによって大気を加熱し,ハリケーンの温度を変更できるだろう。【台風をあやつる 夢ではない天気の制御】http://www.nikkei-science.com/page/magazine/0411/typhoon.html

〇20年以上前に既にハリケーンの人為的操作の研究が。引用:1992年に発生した2つのハリケーン「イニキ」と「アンドリュー」についてシミュレーション実験を行った。この結果,温度や風の初期値をわずかに変えることでハリケーンの進路を誘導したり,暴風の及ぶ範囲を縮小できることがわかった。

〇気象操作は実際に研究されている。2004年の段階で「天気の制御は夢ではない」とNASAの関係者が語る。今はどうなっているのか?既に存在しているのだろうか?仮に存在しているとしても権力犯罪者なら隠しておくだろう。気象改変装置の存在を知られていないから自然災害に見せかけられるからだ。

〇NASAの関係者が「将来は,太陽光発電衛星から送り出すマイクロ波ビームによって大気を加熱し,ハリケーンの温度を変更できるだろう。」と書いていたが、スペースガード協会が発見した誰が何のために打ち上げたか不明の謎の巨大人工衛星「X00639」があるそうだ。色々気になるのも当然である。

〇10年以上前にNASA関係者が人工衛星からマイクロ波を照射して大気を加熱しハリケーンの温度を変更できるようになるだろうと言っているが、最近は暑くなったかと思えば急に冷え込んだり気候がおかしい。人為的に自然のサイクルに介入したから気候がおかしくなっているのではないか?と疑っている。


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(了)


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by kokusai_seikei | 2016-08-14 09:00 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:思想派閥の分析ポイントについて


西洋の思想は基本的に実体論的思想である。実体」とは簡単に言えば、「他の存在に依存することなく、それ自体で存在する存在」。具体的にはキリスト教の「ゴッド」や、新プラトン主義で言う「一者」、グノーシス主義で言う「霊魂」、近代哲学で言う「自我」「理性」、唯物論で言う「物質」等である。

思想派閥を分析するには「実体」を基準に分析するとよいと思う。実体を認めるか否か人間の内と外いずれに実体を設定するか実体を複数設定する場合それらの関係はどうか。〇この基準と順番で分析すると、思想派閥が整理しやすいと考える。

〇①は東洋思想と西洋思想を分かつ。東洋思想の中でも仏教の空思想である。神道は元来自然界の「生成変化」を根底とする。変化と実体は矛盾する。支那の気一元論なども非実体的思想である。印度は仏教の発祥地だが、主流はアートマン、ブラフマンという実体を認める「梵我一如」の実体論的思想である。

〇②は印度以西の思想となる。実体を人間の外に認める思想の代表は一神教である。一神教の神は絶対他者と言われる。実体を人間の内に認める思想の代表はグノーシス思想であろう。人が神とされる。人の内と外に実体を認めるのがバラモン教や新プラトン主義以降の西洋神秘主義である(「合一」系の思想)。

〇③の「複数の実体間の関係」の具体例を挙げる。グノーシス思想では霊魂と物質という二つの実体を認め、前者は善で後者は悪とされる。デカルト主義では精神と物質の二元論であり、身心二元論を帰結し後々まで心身問題を惹起した。自我と神を実体とする神秘主義では自我と神が最終的に合一するとされる。

〇逆に実体が無い事を「空」という。この場合、事物はどのように存在しているか。先述の「それ自体で存在している」の逆で「それ自体では存在していない→他の存在に依って存在している」。これが「縁起」である。縁起とは空。縁起によらないで存在するから「実体」なのである。縁起と実体は両立しない。

〇龍樹が説一切有部を批判したポイントもこれである。説一切有部は実体である75個の「ダルマ」(ここでは「存在要素」という意味)の離合集散が縁起だとした。龍樹は「実体を認める事自体が縁起に反する。存在のあり方そのものが縁起であり、実体などどこにも無く、一切は空だ」と批判した訳である。

〇最初期の仏典でも「世界が空なりと観ぜよ」「堅固なもの(自性=実体)を見いださない」と書いてある。つまり、「空」は大乗仏教から説かれ始めたのではなく、最初期から既に説かれていたのだ。龍樹は仏教に実体の観念を持ち込んでいた説一切有部を批判する事で原始仏教に回帰しようとしたのである。

中観と並ぶ唯識の阿頼耶識説も最初期の仏典に萌芽があると考えている。最古の仏典スッタニパータには「いかなる潜在的妄執も存せず、悪の根が根こそぎにされ」「煩悩の潜在的な可能力を断って」等とある。これは唯識で言う「種子」と同趣旨だと思う。初期大乗は原始仏教を理論的に精緻化した趣である。

〇是非メインテーマとして取り上げるべき大変、素晴らしいご質問を頂いたので、不十分だった回答を補強し、一気呵成に連投させて頂いた次第m(_ _)m

〇「実体」に関する思想分析をしたら「自民党を援助している」と言われた。どう考えても舶来品のカルト思想に被れた「似非保守」には都合が悪い言説だと思う のであるが。意味不明過ぎる。これが「自民党上げ」に見えるのだとしたら、「西洋伝来だから高級」という偏見・洗脳がある証拠である。

「実体論」は別に高尚な話でも何でもない。「自我」を実体として立てると我執をもたらすし、「モノ」という実体を立てると我欲を強化するし、「超越者」という実体を立てると、それを信じない他者に対して排他的になりがちである。実体論は、妄執・争い・不和を導きやすい思想なのである。

〇そう考えると、我欲・売国を事とするネオコン政党の思想の根幹に「中心に帰一する」という実体論があっても不思議でも何でもない。「実体論」は「高尚」な思想ではないのである。「高尚」ではない結果を導くのが「実体論」なのである。

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(了)

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by kokusai_seikei | 2016-08-14 08:57 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:人工地震の追及の目的は「命を守る事」


〇心根の卑しい工作員達は、人工地震を追及する陰謀追及者が被災者の心情を無視してあたかも楽しみでやっているかのような印象操作をする。馬鹿を言うなと言いたい。人工地震の可能性がある以上、少しでも被害を食い止める為、人の命を守る為の追及である。遊びの要素など微塵もない真剣な活動である。

〇人工地震に言及すると遊んでいるとかふざけているとか言われるが一番心外である。しかし、渾身の誠を込めれば必ず人に伝わるはずだと信じる。節穴な目の下劣工作員には分からないだろうが、人工地震を疑い始めた人は心から憂えているのだ。ふざけているのはワンツイートナンボで妨害している工作員共。

〇「人工地震」と聞くと、知らない人は突拍子もない話に思えて、ふざけて言っていると思うかもしれない。工作員はその「常識」に働きかけて、陰謀追及者を貶める訳である。注入された「常識」は権力犯罪者の防衛システムとして機能すると以前書いた。末端の工作員が利用するのもまさにそれなのである。

人工地震と自然地震の可能性がある場合、どちらの可能性も根拠なく否定すべきでない事は言うまでも無い。人工地震の可能性を疑う人は懸命にそれを解明し、証明しようと努力する。逆に自然地震だと最初から決めつけている者は証明抜きで断定する。どちらが理性的な態度かは言うまでも無く明らかである。

サイコパス工作員と違い、陰謀追及者は大半が世の中を憂えている真剣な方々である。もちろん中には紐付き陰謀論者もいる。見分ける基準は様々あると思うが最重要ポイントは「陰謀を追及するふりをして結局NWOに誘導しているか」だと考える。陰謀論とセット売りされるNWO誘導思想ツールは数多い。

「地震」の先読みの為にはオカルト界隈の動きを注視する事を勧める。熊本地震が発生したのは4月14日だが、それ以前からオカルト界隈で4月に何か大きな地震があると噂されており、4月15日は「未来人」を名乗り色々な「予言」を2ちゃんねるに書き込んでいた人物が戻ってくると予告した日だった。

〇「オカルト界隈の動きを注視」と言ってもオカルト被れになるという意味ではない。裏権力は謀略を実行する場合、その計画を「予言」という形で事前に予告する奇癖がある。オカルト界隈はまさにその様な心理戦の領域。故にオカルト界隈の動きを見ると裏権力の意図を読む事ができる可能性があるのである。

陰謀追及者の「先読み」の意義は、オカルト界隈の「予言」とは意味が全く違う。人工災害などの予告、仄めかしの類を見破り、事前に暴露する事で阻止するのが目的であって、「予言が当たった!」と自慢する為とは違うのである。むしろ当たっては困るのである。何も起きず「妄想」で終わらせる為なのだ。

〇特撮ドラマ「レインボーマン」に、「たとえキチガイ(※当時は放送禁止用語ではなかった)と思われても死ね死ね団の陰謀を皆に伝えるぞ!」という、レインボーマンことヤマトタケシの台詞があるが、、陰謀追及者の心情そのものだ。。まさにそういう気概で頑張ってまいりたい。

https://twitter.com/kikuchi_8/status/730426367062376449


(了)

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by kokusai_seikei | 2016-08-01 07:51 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:在日米軍の本質


在日米軍は日本防衛の為にボランティアで駐屯している訳ではなく、国際支配中枢が米軍を世界展開させる為の拠点として不可欠だから置いているだけである。日本は「守ってもらっている」弱みどころか「貸してやっている強み」がある。日本は米国に対して本当は強く出ようと思えば出られるはずである。

〇マレーシア航空機が消えたと噂されるディエゴ・ガルシア島の米軍部隊も在日米軍の指揮下だそうだ。アフガンや中東などに派兵する際も在日米軍基地から出撃する。こういう兵力の世界展開が出来なくなると困るのが権力犯罪者たる国際支配中枢である。米軍の世界展開は米国民の利益の為ですらない。

https://twitter.com/kikuchi_8/statuses/729707790881546241


(了)

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by kokusai_seikei | 2016-08-01 07:41 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)

ツイートまとめ テーマ:英国の銀行家が北朝鮮の資金調達に関与


〇フォロワー様から教えて頂いた重要記事。英国の銀行家がタックスヘイブンでフロント企業を設立し北朝鮮の核開発の資金調達に関与していた事がパナマ文書で判明。【北朝鮮もタックスヘイブン利用=英国人関与、核開発費調達か-パナマ文書で英紙報道】
http://www.jiji.com/jc/article?k=2016040700583&g=prk

エジンバラ大学(フリーメイソンとの縁が深い)出身で、香港上海銀行(ロスチャイルド系の巨大国際銀行)で勤務していた英国人が、北朝鮮の為に英領バージン諸島でフロント企業を設立し、核兵器開発資金を調達。以前、北朝鮮の背後に英国系勢力がいるのではという指摘をしたが、改めて裏付けられた。

〇北朝鮮の鉱山会社「コーメット」がロンドン証券取引所へ上場できたという事は英国金融当局が許可したという事である。コーメット上場は北朝鮮にとって大きな資金調達手段となったはずだ。北朝鮮の資金調達への協力は単に「跳ねっ返りの英国人が単独でやっている」という性質のものではないと思われる。

〇ロンドン証券取引所に企業が上場する場合、ロンドン証券取引所の取引許可だけではなく、FCA(金融行為規制機構) という機関の上場許可が必要な仕組みのようである。FCAはイングランド銀行が設立したそうだ。という事はコーメットの上場もイングランド銀行の下部機関が許可したという事になる。

〇イングランド銀行の下部機関は北朝鮮系の企業のロンドン証券取引所への上場が北朝鮮の資金調達に繋がると分からなかった訳は無いだろう。この当時、アメリカ側も特に何も抗議などはしていない様である。要するにレーニンやトロツキーへの支援と同じで英米の支配中枢が北朝鮮を支援したという事では。

親北朝鮮の陰謀論者が、「北朝鮮は大日本帝国の末裔」としつつ北朝鮮を持ち上げ、北朝鮮主導の朝鮮半島統一を主張しているのは、欧米支配中枢の意向を反映した宣伝工作だと考える。この工作で暗躍しているのは主に旧満州系の東亜連盟派の残党人脈だと推測する。東亜連邦推進工作の一環だと思われる。


https://twitter.com/kikuchi_8/statuses/729436191494316032


(了)

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by kokusai_seikei | 2016-08-01 07:39 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)