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唯識哲学について

個人的に興味を持って勉強している「唯識」哲学について少しまとめて置こうと思う。

唯識の要点は三つに分けられる様だ。それは、

①唯識(ただ識=認識のみ)

②阿頼耶識説(深層心理の発見)

③三性説(遍計所執性・依他起性・円成実性)


まず①

「唯識」とは文字通り「ただ識=認識のみ」という意味である。
これは世界は実体的な事物の集積で成り立っているのではなく、
全て心=認識作用が現し出したある種表象に過ぎないという主張である。

これは元々は華厳経にある「三界唯心」思想に根拠がある。
(「三界虚妄、但是心作。十二縁分、是皆依心
」華厳経十地品より
そこを根拠に大乗仏教の瑜伽行者が瞑想の中で感得した体験を元に(瑜伽行唯識派)、
説一切有部などが体系づけていた「アビダルマ=法、教説、存在の分析」(論蔵)
の学問を応用して「性」(法則、理法)と「相」(現象の姿)を秩序付ける
「性相学」または「法相学」と呼ばれる大乗仏教独自の「アビダルマ」を形成した。
この全体を唯識学と呼ぶようだ。

※部派仏教の説一切有部では「存在」の要素=法を分析して、五位七十五法に分類した。
「自我」などは存在せず、もろもろの事物を構成するこの「法」のみが存在するとしたから、
説一切「有」部と言われる。
唯識では五位百法を立てた。唯識は中観を経た大乗なので説一切有部とは違い、
最終的にはこの五位百法は全て「空」とする。

唯識で言う「心」は心王(しんのう)心所(しんじょ)に分けられる。
これはもともとは部派仏教のアビダルマでなされていた考えを受け継いだものである。
心王とは心の本体のことである(もちろん本体と言ってもアートマンのような実体ではなく、
刹那滅のもの=空・無我である)。
心王は眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の八つがある。これを「八識心王」という。

心所とは心王に付随する心作用のことである。これは遍行・別境・善・煩悩・随煩悩・不定
の六つのカテゴリに分類され、全部で51ある。感情や意志、判断、記憶等、心の状態や機能
をまとめたものと言える。例えば遍行の心所の「受」は感受作用を表し、「想」は感性の多様を
まとめる知性、あるいは表象作用を表す。また同じく遍行の心所の「思」は意思を表し、
この思の如何によって心が善になったり悪になったりするとされる。
具体的には善の心所を伴えば心全体の状態が善となり、煩悩・随煩悩の心所が起これば悪となる。
ただし、阿頼耶識と末那識は常に無記であり、これらそのものが善悪に色づけされる事は無い。
もっと細かく言えば、阿頼耶識は「無覆無記」(むぶくむき)で、
末那識は「有覆無記」(うぶくむき)である。
(無覆無記とは無記でありかつ悟りを妨げる心所も伴わないこと。
有覆無記とは無記であるが、悟りを妨げる「我癡・我見・我慢・我愛」という四つの心所を伴うこと。
我癡とは無我の道理に無知であること。我見とは常住の自我を想定すること。
我慢とは想定された自我を誇り驕る事。我愛とは自我に執着すること。
これら四つは心全体を善悪に規定する程強力ではないが、悟りを妨げる作用を
及ぼすとされる。)

前五識(五感)と意識は性質として善・悪・無記に渡る。例えば、意識は善の心所を伴えば善となり、
煩悩の心所を伴えば悪となり、善の心所も煩悩の心所も伴わなければ無記となる。
唯識ではこの心王・心所の複雑に縁起する関係性の全体を「心」と捉えている。
(だから「依他起性」と言う。後述)

以上述べた心王心所の考えは心全体を心そのものと心の機能や状態に分けて分析した捉え方だと言えるであろう。
上手く整理されている。茫漠とした「心」全体のイメージが整理整頓される。



さて唯識というと、どうしても観念論とイメージされやすいが、西洋の観念論との決定的な
違いがある。西洋の観念論では「精神」を実体視するが、唯識では「識」は刹那滅の流れの
ような相続体(常に転ずること暴流の如し「唯識三十頌 」)であり、無自性で空なるものであると考える。

したがって、「ただ識のみ」と言っても「ただ精神という実体だけがある」という意味ではない。
唯識は「空」の哲学を説いた中観派を踏まえたところに出てきた哲学であるので、
当然「空」の思想が大前提となっている。
「識」とは実体ではない、縁起による流れのようなもの
とされる(だから「依他起性」と呼ばれる)。

この唯識の考え方は、「心内の影像を心外の実境と捉えるな」と戒められるように、
知覚にしろ表象にしろ思考にしろ、認識作用と認識対象は一体であるから、認識対象は
決して心から隔絶された「外界」にあるものではないから、認識対象を外部化(たとえば「物自体」
のように)させて、それに執着してはならない、という実践的な教えが中心となるが、
認識論として捉えても面白いと思う。
http://www.pon.black/page.cgi?kouitsu+ext12


認識論として唯識を捉えた場合、西洋で言えば、観念論というより、主客二元論を否定した経験批判論
「意識は常に何ものかについての意識である」(仏教の認識論でいうと見分と相分が不二ということで
こんなことは東洋人にとって古来より至極当たり前のことである)
という「志向性」という概念を唱えた現象学など
20世紀前後に出てきた哲学にわりかし近い感じがしている。
(ただし、現象学の「本質直観」のように西洋思想はやはりどこまでも実体の観念を
伴いがちなので実体=自性を徹底的に排除する仏教哲学とは根本的に相違する)。
特に我が国の哲学者で言うと、西田幾多郎、大森荘蔵、廣松渉などに唯識に近い発想が見られると思う。
西田幾多郎は、W・ジェームズの影響と禅の体験によって「精神と物質が分化する以前の純粋経験
を説いたが、これは唯識で言う「自証分が分化して見分=主観と相分=客観に分かれる」という
考えに似ている(自証分とは主客が分かれる以前の心の本体。本体と言っても実体的なもの
ではない。さらに「証自証分」を立て、全部で心を四つの部分に分ける。「四分説」である。
先述の心王と心所の全てがそれぞれに四分されるとする。)

※ウィキペディアから引用:
四分(しぶん)とは、唯識の中でも法相宗が伝えている学説で説かれたもので、元来、前三分であったものに護法が「証自証分」を付け加えて四分としたものである。心(しん)と心所(しんじょ)に四つの局面があることを説明している。

相分(そうぶん) - 客観的側面
見分(けんぶん) - 主観的側面
自証分(じしょうぶん) - 自らが対象を認識していることを自覚する側面
証自証分(しょうじしょうぶん) - 自証分のはたらきを、さらに自覚する側面

四分と申し候は相分・見分・自証分・証自証分也。眼識にもこの四分あり、五十一の心所にもこの如し。〔唯識大意〕
https://ja.wikipedia.org/wiki/四分




つまり、西洋の近代哲学の様に、認識を「主観と客観の合致」として二元論的には
捉えないのである。逆に、人間にとって原基的に与えられる場としての「意識」「現象」
に定位する立場である。
この原基的な場を「純粋経験」と呼ぶのが西田だが、廣松渉は「現相世界
(廣松は西田と違って、あらゆる概念的色付けを離れた「純粋な所与」「純粋経験」
のようなものは否定するが。「所与を所識として認識する対象の二肢的二重性」)、
大森荘蔵は「対象自体」(対象そのもの)と「表象」(心に現れた像)を区別する二元論を
否定
する(立ち現われ一元論)。
つまり、この三者は、唯識と同じように、認識を「主観」「客観」という実体的な
認識主体と認識対象の一致としては説かず、人間にとって原基的な「意識」という場に定位して
認識がどのように成立するかを考えていく立場
である。
ここが非常に唯識と近い発想だと思うのである。

吾人は廣松哲学については以前以下の様に書いた。

廣松渉の「事的世界観」を自分が理解した範囲で述べる。主観と客観がそれ自体でまず存在し、それから認識関係に入る、というより「所与が所識として能識としての能知に対してある」という関係性(縁起)があり、その関係の「項」として主観や客観が存在し、独存はしていない。この関係を「事」と呼ぶ。実体としての物=モノの集積として世界を捉えるのではなく、モノに関係性が先立ち、関係性を待って「項」たるモノが規定されてくる四肢的構造連関として世界を捉えるわけである。

廣松渉四肢的構造連関「所与が所識として能識としての能知に対してある」について。感性で捉えた所与(視覚や触覚等)に知性で言葉を当てはめることで概念的に認識(所識)。そして知性(場合によっては感性も)はその認識主体(能知)が属する文化共同体のあり方で規定(能識:例 日本語を使う主体)この「所与が所識として能識としての能知に対してある」を具体的に「私はリンゴを見る」という事で言うと。知覚的に現前する赤い、ざらざらした、まるいそれ(所与)を、日本語の名詞「リンゴ」(所識)として、日本語を使用する主体(能識)として自己形成を遂げている、特定の誰某(能知)が認識する。となると思う。

事的世界観とは、「実体に関係が先立つ」という世界観である。言い替えると縁起的世界観である。「実体に関係が先立つ」と言っても時間的に関係が実体に先立つというより、関係の項である「実体」(モノ)は、関係無くしては存立しえない、という不可避の構造を指している。関係=事の基底性の指摘。

仏教学者の竹村牧男氏の華厳仏教の解説で「仏教は事的世界観」という言葉が出てきて妙に心に残った。世界を実体的な「物」の集まりではなく、縁起的・関係的に成立する「事」の世界と捉える世界観である。西洋の実体思想に対置される。その後ズバリ「事的世界観」を掲げる廣松哲学を知り興味を持った。廣松哲学の四肢的構造連関は主観と客観が其々二肢に分かれていて、しかも相互に連関し其々の「項」は関係的に成立し、独存していない、という縁起的な世界観である。現相世界(現象世界)は全て四肢的構造連関において成立する総世界的連関体である、というのは華厳の重々無尽の縁起思想に酷似する。

唯識哲学と廣松哲学の対比。①見分と相分からなる識≒其々二肢的な主観と客観の「項」からなる現相世界。②見分も相分も依他起(縁起)なもの≒主観も客観も四肢的構造連関の「項」としてのみ存在し独存しない。③見分及び相分を実体と見るのは遍計所執性≒「項」を「実体」と見るのは「物象化的錯視」④見分(主観)も相分(客観)も「自体分(識の本体という意味だが「実体」ではない」が分かれたもの≒能所(主観と客観)の渾然一体性。➄全ては阿頼耶識に依る≒認識は「世界が世界を認識する」総世界的連関体。類似点と思う部分を思い付くまま挙げてみたが➄は現代人的には廣松の方が説得的だろう。

「世界が世界を認識する」総世界的連関体、を補足。例えば脳が機能するには人体のみならず外部環境から栄養素を取り入れないといけないように、蛇口から水が出るには水道システムが総体として機能していないといけないように、一つの認識が成立する為には、総世界的な連関システムが機能するという意。この廣松哲学の、「世界が世界を認識する」総世界的連関体、という考え方が非常に華厳的だと思った。「無限の縁起的関係性」を説く華厳思想と、認識の「総世界的連関体」を指摘する廣松哲学は、かなり酷似しているのではないか?と感じる。縁起・無自性・空が基本の華厳と実体概念の破棄を唱える廣松哲学。


廣松渉は政治思想的にはマルキストで新左翼のイデオローグなので、吾人の立場とは
まるで正反対、水と油なのであるが、その哲学に関しては、関係主義的・縁起的世界観
共感する部分があった。「依他起」とか仏教哲学用語を普通に使う廣松渉はあきらかに
仏教哲学の影響を受けているのが分かる。廣松渉の哲学はマルクスの物象化論の延長と
されているが、個人的には仏教哲学の現代的精緻化として捉えている。
仏教哲学、特に中観派の空の哲学の影響を抜きにしては、単にマルクスの延長では
あの哲学はひねり出せないのではないだろうか。
そう言う観点で廣松哲学を参考にするのも面白いと思う。
元々は、仏教学者の竹村牧男氏が「仏教とは事的世界観」と書いておられたのを見て、
なんとなく心に響くものがあり、「事的世界観」を説く廣松渉哲学にも興味を持った、
という次第であった。実際少し勉強してみると、「四肢的構造連関」という認識論が
まさに縁起的な世界観であるのを知った。また「現相世界
(超越的自我や物自体のような形而上学的実体ではない、認識主体に現れた経験世界。現象世界)
に定位して、その構造を関係主義的に分析する姿勢が唯識に通じる面があると思う。

われわれにおいては“主観・客観”関係は世界内的な関係であって、もはや近世的「主観‐客観」図式が要求するごとき transzendental な関係ではない――ということが即ちそれである。われわれが問題にするのは、あくまでフェノメナルな世界の世界内的な構造聯関、もっぱらこれのみである。
(「世界の共同主観的存在構造」より引用)
※廣松渉は独得な漢語的表現とドイツ語を交えた特異な文体なので最初面喰う。
「フェノメナルな世界」とは「現象世界」のこと。現象世界から超越した自我や物自体
についてはいわば「無記」の姿勢で臨むということ。ここでは、主観と客観をそれぞれ独立の実体
と見なす二元論を破棄し、主客が相互に連関する現象世界=経験世界内で成立する認識の機構
をもっぱら問題にすると言っていると思われる。

※廣松哲学については以下のサイトに非常に簡潔で優れたまとめが引用してある。
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2007-04-15


廣松哲学についてやや長くなったが、とにかく唯識哲学は認識論としても非常に面白いと思う。
西洋の主客二元論を超える発想を秘めている。


次に②の「阿頼耶識説」について述べる。

阿頼耶識とは、五感=前五識=眼識・耳識・鼻識・舌識・身識 と
第六意識(主に言葉を伴った認識を担う)の根底となる深層心理のことである。

この説も元々は大乗仏教の瑜伽行者の体験が元になっているらしい。
近代で現れたフロイトやユングの深層心理学のはるか以前の古代インドにおいて
既に深層心理が発見されていたのが興味深い。

この阿頼耶識の阿頼耶とはサンスクリット「アーラヤ」(
ālaya)の音写で、
「蔵」という意味である。
何を納める蔵かと言えば、人間が、考え、話し、行動(身・口・意)した時に生ずる影響力の
残滓=種子を蓄える貯蔵庫のようなものとされる。

人間が何かを、心の中で考え、言葉を使って話し、身体を使って行動する、
その影響力が阿頼耶識=深層心理に蓄えられる(現行熏種子

そして一端蓄えられた影響力は、阿頼耶識中で刹那滅しつつも相続する(種子生種子=種子の非実体性=空)。
そして蓄えられた影響力の残滓は機縁を得て新たな行動として表面化する(種子生現行)。
行動し、行動力の影響力が深層心理に残り、その影響力がしかるべき機縁を得てまた行動となる。
人間存在をこのサイクルとして捉える。
これが「阿頼耶識縁起説」である。

現行熏種子・種子生種子種子生現行のサイクル=阿頼耶識縁起

これが阿頼耶識説の要諦である。要するに、行動とはその場限りのものではなく、
確実に深層心理に影響を残すから、一瞬一瞬の「こころ・言葉・行動」のあり方に
気をつけよ、という実践哲学
と言える。
一瞬一瞬の行動が善であれば、それだけ阿頼耶識を清め、
一瞬一瞬の行動が悪であれば、それだけ阿頼耶識を汚す。

だから常に自分の表層意識に気を付けて、自らの行動を戒めていかなければならない、
そういう趣旨のようである。


これは全く神秘なところは無い、ごくごく良識的で理に適った教えという気がする。
体験的にも、日ごろ思っていたり、繰り返している行動が咄嗟の場合にも無意識に
出てきたりする。一瞬一瞬になされた行動の積み重ねが自分自身の人格を形成していき、
良くも悪くもなるのは確かだと思う。気を付けたいものである。

これは陰謀追及の視点からも応用できる。「洗脳」の問題である。
洗脳とは基本的に潜在意識をターゲットになされる。
それは単に言葉による刷り込みだけではなく、映像や音楽を使った刷り込みなど
媒体は多岐にわたる。食物や薬物による味覚を通じた刷り込みも洗脳の一種と言えるだろう。

こう考えると、洗脳は潜在意識をターゲットにするとは言うものの、
潜在意識を支配する為には、「五感」という「関所」を通らねばならないことに
気付く。さらに五感のみならず、五感と共に働いたり、五感と無関係に働いたりする、
表象作用や思考作用など仏教の認識論で言う「第六意識」も潜在意識に至る「関所」である。
(五感と共に働く意識を「五倶の意識」、五感と無関係に働く意識を「独頭の意識」と呼ぶ)

つまり、潜在意識への支配を防止するには、五感と思考(前五識と第六意識)を通じて
入ってくる情報に常に気を付けておくことが重要
になってくると思われる。
見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり、考えたりしたことの影響力が
もれなく潜在意識に影響を受け付けるのだとしたら、潜在意識を汚され、支配されない
ためには、常に六識のあり方に気を付けることがシンプルだが着実な道だと思われる。
(古来これを「六根清浄」と言った。「六根清浄」は現代においては洗脳防止の指針に
なりうる標語であると思う)

最古の仏典スッタニパータから引用する。


1034 「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎ守るものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いてください。」

1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」


「気をつけること」と言われると「なんだ、そんなことか」と思われるかもしれないが、
このシンプルな戒めこそ、「煩悩克服」のみならず、「洗脳防止」のための普遍的な
指針であり、金言に思えるのである。参考にしてまいりたい。
確かに、一瞬一瞬気を付けていれば、刷り込み洗脳の侵入する余地はない。
とはいえ、無意識の内に誘導してくるのが洗脳のプロなので、
なかなか難しいことだが、指針として心がける事が重要であると思う。
現代人は常に心理戦の脅威にさらされているという事を忘れるべきではない。

ちなみにだが、この唯識で言う阿頼耶識と、フロイトの深層心理学でいう「無意識」、
ユングの分析心理学でいう「集合的無意識」の違いについて述べておく。

まずフロイト心理学の「無意識」との違い。
フロイト心理学でいう「無意識」とは、理性とは対立する、抑圧された欲望が渦巻く
何か衝動的なカオスとして捉えられている。
多少語弊があると思うが、どちらかと言えば理性の力で制圧・制御されるべき「悪」として規定される。

一方、唯識の「阿頼耶識」は、そのような善と悪という価値からは中立な「無記」の性質とされる。
善行を行なえば善の種子が、悪行を行なえば悪の種子が植えつけられ、その植えつけられた
種子の性質に応じて清められたり、汚れたりする、とされる。
しかし、阿頼耶識そのものは善でも悪(不善)でもない無記性なのである。
阿頼耶識がもし善ならば、人間は善しか行わないから、悪を行なうことは無いはずである。
(従って、仏になろうと修行努力する必要が無くなる。)
阿頼耶識がもし悪ならば、人間は悪しか行わず、善を行なうことは不可能である。
(従って、いくら修行しても仏になることはできないから無駄な努力という事になる。)
このいずれも人間のあり方と矛盾する。人間は善も行えば、悪も行うからだ。
心の根底である阿頼耶識を「無記性」と規定するからこそ、善を行ない、悪を避ける
倫理的実践の根拠が得られると考えるのである。これは大変理に適っていると思う。

フロイトの理論には、フロイト自身の心の病理や、
フロイトが主に診療した患者が(恐らくキリスト教的モラルに
よって)性的抑圧を強いられていた19世紀末のオーストリア社会
の上流階級の女性だったことが影響を与えている、という趣旨の解説を
読んだ記憶がある。この説明が正しいとすると、理論構築の原点に
特殊な文脈が存在するのかもしれない。
その点を差し引くとフロイトの理論は必ずしも普遍妥当的とは
言えないように思う(もっとも「理論」というのは皆そういうものであるが)。

唯識の理論からすれば「性的抑圧」なるものは、「現行熏種子」の
一つに過ぎず、たとえば、性的抑圧以外の権力欲や名誉欲、
金銭欲あるいは暴力衝動、闘争心などが強く、その欲望を抑圧している人だったら、
フロイトが診療した患者とは別の説明が可能かもしれない。
抑圧と言っても必ず表層意識によって繰り返しなされたことが
深層心理に影響を与える(現行熏種子)わけだから、
常なる表層意識のあり方如何によって深層心理のあり方も決定される、
という唯識の考えの方が、なんでもかんでも性的抑圧で一元的に説く
ように見えるフロイト理論よりも合理的に見える。人間の中に渦巻く
「欲望」というのは多様なのである。唯識はそれを冷静に観察している。
(ちなみに唯識では、六つの根本煩悩との二十の随煩悩を数えている)

次にユング心理学の「集合的無意識」との違い。
ユングは個々の人間の心理の根底に人類全体に共通する「集合的無意識」があるとする。
これは人類という種レベルの一つの根底的無意識の想定である。
一種の形而上学と言えるだろう。

唯識の「阿頼耶識」はこれとは異なる。「人人唯識」と言って、あくまでも阿頼耶識は
個人個人の深層心理であって、個人を超えた共通の無意識のようなものとは性質が
異なる。個人個人のなした心の働き・言葉の働き・身体の働きの影響力を留めるのが
阿頼耶識とされているから、当然、阿頼耶識は個人単位のものなのだ。

そもそも「集合的無意識」は「個人的無意識」とは違う、人類共通の「元型」が備わっている
という想定だが、これは五感には対象を感受する能力が人類に普遍的に備わっているし、
意識には表象能力や判断能力が備わっているわけであるから、これらも「人類に共通」と言える。
(どの民族にとっても聴覚は「聞く」機能を持ち、民族によって言語は様々あれど
言語能力が備わっていること自体は共通している)
従って、集合的無意識というのを敢えて立てなくても、人間の意識現象には「人類に共通」の
形式が備わっていると言える。だが、現象としてはあくまでも個々別々の意識現象である。
何が「共通」なのかと言えば、あり方、法則、機能といういわば「理」が共通なのである。
事=現象理=法則であり、理においては共通でも事においてはあくまでも個別なのである。
これは華厳の四法界説を取り上げた時に言及した。
集合的無意識という「人類に共通の無意識」を立てる発想は、事と理の峻別をせず、
理の同と事の異が同時に成立する事を見誤ったがゆえにたてられた説だと考える。
かりに「集合的無意識」のようなものがあったとしても、「人類に共通」というのはあくまでも
他の五感や表層意識と同じように「理」においてであって、「事」においてはあくまでも個別のものだろう。
(例えば、母なるものをふっくらした土偶でイメージしたり、父なるものを老賢者でイメージする傾向。
そのような「理」としては共通性があったとしても、実際にイメージしたり、潜在的イメージを
保持したりするのはあくまでも個々の意識・無意識=事である。
もっとも実際にはこのようなイメージは文化的な文脈に依存すると思われる。
ある人間が生まれた文化共同体によって繰り返し刷込まれた共同主観的イメージ。
これもまた「現行熏種子」の機制と言えるかもしれない)
そうでないと、形而上学的実体としての「一者」を立てる新プラトン主義のような形而上学説になる。
理の共通性に過ぎないものを事の共通性とはき違えるとオカルトになる。


以上、唯識とフロイト、ユングの違いについて若干述べた。
吾人が見るところ、性的抑圧で一元的に説くところがあるフロイトや、
形而上学的な集合的無意識を説くユング(グノーシス思想や錬金術などオカルトも研究)より、
阿頼耶識=深層心理を善でも悪でもない無記性のものとし、
阿頼耶識はあくまで個人単位とする唯識の方が合理的に見える。



唯識では阿頼耶識に加え「末那識」という深層心理も設定する。
末那とはサンスクリット語「manas」の音訳。
考える、思量するという意味。「考える」「思量する」働きは
第六意識と同じなので、区別する為に音訳して「末那識」と表記されたようだ。
だが第六意識と第七末那識では「思量する」対象が違う。
末那識は意識のようにあらゆる事物を対象(広縁の意識)とはせず、
ひたすら阿頼耶識の流れのみをアートマン=自我のような実体として
誤認し執着する意識下の作用である。
表層の意識でも言葉を使った実体視が行なわれるが、こちらは睡眠時など
途切れがある。
しかし、末那識の方は途切れが無く、常に阿頼耶識を実体視して執着しつづける
とされる。これを「恒審思量」(ごうしんしりょう。常に審らかに思量する。
末那識は別名思量識と言われる。意識も思量する作用を持つが、
末那識の場合はそれが無意識に行われ、その対象も阿頼耶識に
限られる点が異なる)などと言われる。


以上八識について説明したが、唯識で言う「悟り」とは、この八識が全て智慧に転換すること
を意味するようだ。「四智説」である。
つまり、前五識は「成所作智」(じょうしょさち)に、
第六意識は「妙観察智」(みょうかんざっち)に、
末那識は「平等性智」(びょうどうしょうち)に、
阿頼耶識は「大円鏡智」(だいえんきょうち)に、
それぞれ転換する事が唯識における「悟り」とされる。
これを「転識得智」(てんじきとくち)と言う。
成所作智とは、自他のためになすべきことをなす智慧。
妙観察智とは、物事の本質を見抜く智慧。
平等性智とは、阿頼耶識を誤って実体視せず、我執が消え、全てを平等と見る智慧。
大円鏡智とは、我執(主体への執着)・法執(客体への執着)、
煩悩障(心の情的汚れ)・所知障(心の知的汚れ)ともに
完全に煩悩が断絶され、心が根底から極まり、全てを鏡のようにありのままに映し出す智慧。


最後に③の三性説(さんしょうせつ)。

これは要するに世界をどのように認識するか、という「モノの見方」を三つに分類した
理論である。
「三性」とは、遍計所執性・依他起性・円成実性
(へんげしょしゅうしょう・えたきしょう・えんじょうじっしょう)
これらは三つの別々の世界があるという意味ではない。
あくまで認識主体から見て、世界がどう見えているのか?という
認識の問題であり、これらは相互に別々の世界を言っているのではない。

まず遍計所執性だが、これは、言葉によって分別され、分節化された
バラバラのモノの集積で世界が成り立っているという見方である。
つまり、「空」を知らず、実体(自性)を持った個々別々の事物から
世界が構成されているという見方である。以前、華厳哲学に関して述べた
「事法界」に相当する。http://kokuhiken.exblog.jp/24907349/
要するに、言葉に馴染む内に自然と身に付けたごくごく日常的な世界の見方
である。
個々の事物が実体視されているので、そこに貪欲や怒りなどの執着が生じる
ことになる。唯識では事物を実体視することを「心内の影像を心外の実境とする」
などと言われる。つまり、認識された表象に過ぎないものを心から離れた
外界の客観的実体とするからそこに執着が生まれる、という考え方である
(認識論としては先述の大森荘蔵の対象と表象を分けない「立ち現われ一元論」
という考えに近いと思う)
これを唯識では凡夫の迷える境涯とする。

次は依他起性。依他起とは文字通り「他に依って起こる」という意味。
つまり、「縁起」ということである。
先述の遍計所執性も後述の円成実性も、この「依他起性」を基盤としている。
縁起する世界が全ての基盤なのである。唯識では依他起性を「識」とする。
阿頼耶識という深層意識と六識という表層意識が、相互に因となり果となって
「現行熏種子・種子生現行」というサイクルを展開する「阿頼耶識縁起」
というあり方をする「識」である。

最後に円成実性。これは依他起性の上に於いて遍計所執性がないことを意味する。
縁起する世界をありのままに見て、その上に実体などの形而上学的な
妄想をしないことである。つまり、縁起=空というありのままの現象の姿を見るという
ことである(支那や日本では古来「諸法の実相」などと表現する)。
縁起する現象世界を誤って実体視した認識が「遍計所執性」であり、
縁起する現象世界を縁起・無自性・空であるとありのままにとらえるのを
「円成実性」という
のである。


この三性説に対して、「三無性」説も説かれる。
三無性とは「相無性」「生無性」「勝義無性」のことである。
これは遍計所執性・依他起性・円成実性を「無自性」の視点により裏側から述べたものである。
遍計所執性とは事物を誤って実体と錯認した見方なので、実体としては相=姿が「無」とされる(相無性)。
「他に依って起こる」(依他起性)から、それ自体で生ずることはないから
「生無性」(龍樹の中論の冒頭の「八不」に「不生不滅」とある。不生とは単に生じないという
ことではなく「それ自体としては生じない」という意味で「空」と同義。
空を悟ることを「無生法忍」などと言われる。
江戸時代前期の名僧・盤珪の「不生禅」はここからくる)とされる。
円成実性とは究極の真理としての無自性=空だから「勝義無性」。
三性説が誤って「有」と誤解されるのを防ぐ為に、無自性の視点から
さらに念入りに説明したものと言える。
唯識も畢竟するところ「空」の立場が根底にあるのである。


以上、唯識哲学の自分なりのまとめである。

唯識は実践哲学としても認識論としてもかなり参考になると思った。
章炳麟が「実証分析的且つ理論的である点が考証学に通ずる」と言った
のは分からなくはない(わが国で言うと考証学は実証的な国学や古学
に言い替える事が出来る)。
唯識の論理性実証性を参考にすれば、色々と応用ができそうな気がする。

陰謀追及上では、上記取り上げた「洗脳防止策」の為に応用できそうである。
吾人の思想哲学に接する際の基本スタンスだが、唯識においても、あくまで
参考の為の「理論モデル」「世界観モデル」として捉えている。
また、唯識自身、「唯識無境」(ただ識の作用のみであり、実体的外界はない)
から「境識倶泯」(主体も客体も実体ではない「人法二空」)へと、
最終的には自らの理論すら超えていくことを想定しているようだ。
(境識倶泯という言葉を見ると、初期大乗の二大学派・中観派と唯識派は
最終的に同じところを目指しているのだなと思った。)

仏教の理論とはどこまでも川を渡る為の「筏」とされる。
川を渡り終えれば執着せず、捨てられるべきものだと。
吾人は吾人なりの立場から、この東洋の遺産を参考にさせて頂き、
活用していこうと思っている(たとえば、洗脳対策の理論的座学としても捉えている)。

(了)

参考文献 「やさしい唯識―心の秘密を解く」横山紘一著

「唯識 こころの哲学―唯識三十頌を読む」多川俊映著





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by kokusai_seikei | 2015-11-26 07:18 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(1)

NWO思想に対抗する論理を探求する

国際秘密力のNWO征略に根源的に対抗する為には、表層の謀略を暴くのみならず、
彼らの発想の根源から突き崩す必要があるのではないかと考える。
その為には、国際秘密力のワンワールド思想を
理論的に解析し、
それに対抗しうる発想の可能性を考えてみる必要があると思う。
そのあたりについて、自分なりに考えてみたい。


ワンワールド思想というのは要するに「多様なものを一つに収斂していく思想」と言えると思う。
これは「多様なものがそれぞれ独立の実体としてある」というのが前提となる。
そうでなければ論理的にいって「多様なものが一つに」とは言えないからだ。
ここでは「多」と「一」は其々隔絶しており、
「一」に到達する為には必然的に「多」を破壊しなければならない、という発想をとる。
多はどこまでも多であって「一」とは違う、という発想である。
つまり「多」も「一」もそれぞれ実体視されている。
ここでいう「実体」とは他と無関係に存在する自存的存在のことである。
ここから「ワンワールド」に到達する為には既成の多様な文化や国家を破壊するという衝動が導かれる。
相互に断絶された「多」と「一」を媒介するのは「破壊」である。
だからNWO思想は必然的に破壊をもたらす。


この思想に対抗しうる論理はいかなるものがありうるか?
ここでは、華厳仏教で言う「四法界」という説をヒントに考える。
四法界とは「事法界・理法界・理事無礙法界・事事無礙法界」
の四つに分けられるものの見方のカテゴリーである。
思想分類モデルとしても有効であると思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/澄観


まず事法界だが、これはごく普通の日常的なものの見方である。
つまり、事物を言語によって分節化して概念的に把握する見方。
誰しもが生育の過程で言語を習得する事で身に付ける。
山は山であり、川は川であり、草は草であり、木は木であり、石は石であると見る。
しかも、それぞれが実体として独立していて、それ自体で独存していると見る。
これは「分別」という、言語による分節化に起因する二元相対的なものの見方である。
言葉は世界を分節化する。「A」という名称は同時に「非A」を生み出す。
「私は私」「他人は他人」「モノはモノ」とあらゆる事物が独存すると観じる
それらの独存した「モノ」の集積として世界を捉える、ごく日常的なものの見方。


次は理法界。これは個々の現象=事を貫いている、現象が存在しうる為の理法・法則のことである。
ここでは「空」「空性」を意味する。
空とは、「ものには実体=自性が欠けており(無自性)、それ
自体で存在しうるものは何もない。存在はかならず縁起の法則により関係的に成立している」
という意味
である。つまり縁起=空である。
インド哲学の世界的権威である中村元先生によれば「縁起だから無自性。無自性だから空」という
論理的順番との事であった(「自性」とは実体のこと。常住不変で
分割不能=単一で、完全な主体性を持つ自存体。
「常一主宰」と形容される。この自性の否定が空である)。
理法界とは要するに個々の現象を成立させている法則としての
「縁起」や「空」を現象とは別建てで見た捉え方である。

この理法界を思想分類モデルとして見ると、プラトン哲学などが該当する。
つまり、「イデア」という「理」を立てて、現象界とは隔絶した実在界と見る二世界論である。
現象界から隔絶した超越神を立てるキリスト教などの一神教もこの類型に該当する。
西洋の伝統的な思想は大体このモデルを原型としている。
また、幽世=あの世を「本つ世」(=本体界・実在界)とする
プラトン的な二世界論を説いた平田国学(キリシタン神学の影響を受ける)、
法華経という「理」によって全世界を制圧・統一する事を
主張する日蓮主義(法華経版ワンワールド思想。石原完爾などが信奉)
も該当すると思う。
一つの「理」(実体視された原理や形而上学的実在・本体)
によって全世界を一つに染め上げんとするあらゆるNWO思想
はこの「理法界」に分類できると思う。


次は理事無礙法界。これは理=法則と事=現象が一つであり、
法則を離れて現象は無く、現象を離れて法則は無い、という意味である。
これはよく考えると当たり前のことである。
法則とは常になんらかの現象の法則であり、
現象というからにはなんらかの法則によって存在している。
理と事は一体である。分離する事はできない。
「理」と敢えて言葉で表現すると、なにか「事」から離れた
特別な形而上学的な実体のようなものを想定しがちな人間の思惟
の傾向性を戒め、理を事に着地させ、現象の背後にイデア的な
実在があるという見方を排するものの見方である。

理事無礙法界を思想分類モデルとして見ると、朱子学などが該当するだろう。
朱子学は理=法則と気=現象で世界を説明する「理気二元論」であるが、
理と気が相即不離としつつも、理と気は二元的に分けて考えられているので
「理事無礙」とは言い難いかもしれないが、理気は相離れずともされているので、
一応ここに例として挙げておく。
他の例としては真言密教の大日如来の考え方がある。宇宙を象徴する大日如来は
六大=地・水・火・風・空・識という六つの構成要素によって構成されると考え、
大日如来=宇宙と六大はイコールだとする六大縁起観を立てている。
これは縁起の思想の範疇だが、まかり間違えば「大日如来」を
実体視してしまう危険性もある。大日如来を実体視すれば
実体としての「梵天」を立てるバラモン教と変わらない事になる。
ここは朱子学が「理」を実体視することにより、「理」が「気」から隔絶され
西洋的な形而上学と化する危険性を秘めているのと似ている。注意すべき点である。
理事無礙法界でとどまると常にこの危険は伴うと考える。だから次に「事事無礙法界」に
進む事になる。


最後に事事無礙法界。これは前述の理事無礙法界を通過した上で初めて
成り立つものの見方である。理事無礙法界で現象=事と法則=理は
一体だと示したが、言語表現上は「理事無礙」となっている。
ここが実は究極的には余計な事とされる。
あくまで理論上「理事無礙」と表現するものの、
現象と法則が一体ならば、現象があればすでにそこに法則が含まれているはずで、
敢えて「理」を強調せずとも、「事」を示せば、そこに自ずと「理」が含まれている。
そして、「理」という法則で貫かれている個々の「事」は、
「理」という共通基盤を備えているがゆえに、其々が絶対的に個別のまま、同時に調和している、
という事態が可能となる。
このところのあり様を理論的に表現したものが「事事無礙法界」だと解釈する。
つまり、「理」という法則が完全に「事」に溶け込み、
もはや意識上に上らず、ただひたすら個別の事と事が調和している、
という世界の見方である。華厳哲学ではこれは仏の境涯だとする。
あらゆるイデア的・実体主義的・形而上学的な見方の残滓が消え去った、
さらには「空」という言葉すら消え去った「真空妙有」という
有がそのまま空であるような境地なのであろう。
(このあたりの論理構造は仏教学者の竹村牧男氏の華厳解説に詳しい)。
具体的に言うと、宮本武蔵の五輪書の空の巻に言うような、
「拍子」という自然なリズムに乗り、「兵法の道」という「有る」事
のうちに「空」を体現して、自然の動きが出てくる、そのような境地なのかもしれない。
あるいは荘子の「包丁」の故事(長年の修練により、もはや意識せずとも自然に
最高の技の切れを見せる料理人の話。「包丁」の語源)などで語られる
無心の境地もここに該当するかもしれない。

だが、ここは吾人のような凡夫としては想像するしかない。

事事無礙法界を思想分類モデルとして言うと、
陽明学の「理は気の条理」
とする「気一元論」や我が国の山鹿素行や伊藤仁斎の一元気論は現象主義であり、
この事事無礙法界の立場と近いものがあるかもしれない。
あるいは、

道は物を物として在らしめる根源的な理法であり、
物とは存在の次元を異にする。そして、この意味では、道は
物を超えているのであるが、単なる超越的な何かではなくて、
物とともに在り、物に内在しているのである。物が物として
在ることそれ自身が道なのである。物を離れて道はなく、道
を離れて物はない。「道は在らざるところなし」なのである。


「要するに、道すなわち真実在の世界は、一切万物が無始から
始まり無終に終って自生自化していく変化の流れそのものである。

(「荘子 古代中国の実存主義」福永光司著・中公新書より引用。
先の引用が「理事無礙法界」に、後の引用が
「事事無礙法界」に其々該当するように思う)
とする荘子思想。

事事無礙法界とは言い替えると「事的世界観」である。
「事的世界観」とは「実体」(関係に依らずそれ自体で存在する自存体)
という観念を排除した関係主義的な世界観である。つまり「縁起的世界観」である。
現代の哲学で言うと廣松渉の哲学が「事的世界観」を掲げている。
廣松哲学は実体主義を徹底的に排した、極めて仏教哲学的な関係主義の哲学となっている。
本居宣長派の国学(鈴屋学派)は「理」という発想を
大陸的な「漢心」(からごころ)
として徹底的に排しており、文献実証主義的に確定された「事」(神話的事績を含む)以外を
認めないという文献実証主義的な、ある意味での「事的世界観」と言える。
http://kokuhiken.exblog.jp/24679638/


また、華厳の六相円融義という説で用いられる「家」の例えで別の角度から
「事事無礙法界」を説明する。
「家」は屋根、たるき、鴨居、柱、瓦、等々の構成要素から成り立っている。
ここで、例えば「たるき」と「柱」の関係を取り上げてみる。「たるき」と「柱」は
同一であろうか?別異であろうか?
まず、たるきも柱も同じように一つの家全体を構成しているという点では「同」である。
どちらも同じように、家全体を成り立たせている構成要素であるという点で変わりはない
からである。
しかし、「たるき」はあくまでも「たるき」であり、「柱」はどこまでも「柱」である。
それぞれの役割が混同されず、あくまで別々であるからこそ、全体を構成する要素たりうる。
たるきは柱の役を果たせないし、柱はたるきの役を果たせないのである。
文字通り「たるき」と「柱」が「一つ」になっては、其々の役割が果たせないのである。
こう見ると「たるき」と「柱」は「異」となる。
このようにある視点で見ると、「たるき」と「柱」は「同」であるし、また別の視点で見ると
「異」でもある。ここに「同」と「異」が同時に成立している
訳である。
ここから敷衍して一般化して考えると、ある個別の現象が他の個別の現象とあくまでも別異で
ありながら、同時にある面では同一と見る事もできる
のである。
龍樹の「中論」の冒頭に掲げてある「八不中道」の一つに「不一不異」というのがある。
(八不とは「
不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去」のこと。
これは結局、縁起・空・中道と同義である)
この見方が成立すれば「ワンワールド」と称し、個別性を消去して全てを一つにしようとすること
がいかに理に適わない、愚かな発想であるかということがはっきりと分かる。



以上四法界の説をつらつら述べてきたが、この「事事無礙法界」
というものの見方が「ワンワールド思想に対抗するヒントになりうるのではないか?」
と前々から考えている。
つまり、多様なものを破壊して一つにしようとするのではなく、
多様なものが多様なまま、個別が絶対的に個別のままに調和する、
そのような発想を可能にする発想を秘めているように思うのだ。
「世界を平和にするには世界を一つにすればよい」ではなく
「世界を平和にするには多様なものを多様なままに認めればよい」という発想。


以前書いたが、ここに仏教でいう「無力増上縁」という発想も加わる。
http://kokuhiken.exblog.jp/24803682/
つまり、何かが存在する事を妨げない縁、という事である。
宇宙の果ての塵芥であろうとも、我々人間が生きるのを妨げていないという意味で
「縁」がある、という事。積極的にあれこれ関わるだけが「縁」ではない。
これは無限の関係性を意味する華厳の「重々無尽の縁起」という論理にも通じる。


以上、華厳の四法界説を参考にNWO思想に対抗する論理を考察してきた。
多様なものを一つに収斂していくというNWO思想はキリスト教などの一神教や、
新プラトン主義に発する西洋神秘主義の、「一つの始原」「一つの究極実在」
に全てを収斂していくという発想に根があると思うが、
NWOに対抗するには東洋の伝統思想の遺産がヒントになるように思うのである。
ここでは華厳仏教の四法界説、特に「事事無礙法界」という思想を取り上げてみた。
今後ともNWOに対抗する論理の探求を継続したいと思う。


(了)

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by kokusai_seikei | 2015-11-08 00:50 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

江戸時代の知識人の合理思考

〇新井白石はシドッチ訊問に関し「大君大父」としての造物主を認めると君父への忠孝が蔑ろになると批判している。これは江戸時代の封建道徳の視点からの批判に見えるが実は一神教への本質的批判に通じる。つまり、超越者を優先する為に君父に限らず人や自然など現実の存在を蔑ろにする弊害の指摘である。

〇新井白石はシドッチを訊問して、この西洋人の形而下的学芸に関する知見には感嘆すると同時に、一端キリスト教の話になると急に愚昧になる賢愚の落差に驚いている。これは技術文明は大変発達しているが、それを御する人間精神は迷信で規定されている西洋世界そのものの評価に通じる。江戸期学者の慧眼。

〇キリスト教の教義を「嬰児の語」(子供のタワゴト)と切り捨てる新井白石→「其天戒を破りしもの、罪大にして自贖うべからず、デウスこれをあはれむがために、自ら誓ひて、三千年の後に、エイズスと生れ、それに代りて、其罪を岡へ贖えりという説のごとき、いかむぞ、嬰児の語に似たる。」(西洋紀聞)

〇西洋の権威に盲従する明治以後の知識人には不可能な、非常に率直な新井白石のキリスト教評。西洋の実用的な学芸については高く評価しているので、西洋への特別の偏見無く、見たまま、感じたままを率直に述べていると思われる。江戸時代の知識人にはキリスト教は云々する程もない幼児の戯言であった。

〇明治以後のキリスト教化された知識人より、江戸時代の儒者や仏者の方が合理的世界観を持っていたと思う。明治以後、技術文明は発達したが、精神文化の方はむしろ江戸時代より退化したのではないか。西洋化=合理化とは限らない。新井白石が嬰児の戯言と評したキリスト教が影響拡大したのは退化では。

〇江戸時代の儒者は「気」と「理」という概念で以て世界を説明する。気=現象、理=法則である。実にシンプル。これは当時の知識層の基礎教養だった宋学の概念だが、元々は華厳哲学の「事」「理」という概念に由来しているそうだ。理に優越性を認めるのが朱子学(形而上学的傾向)で、理を気の条理とするのが陽明学や古学(一種の現象主義)。

(了)

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by kokusai_seikei | 2015-10-26 00:34 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

仏教の教えの要旨と簡潔な魔術批判

〇仏教(特に原始仏教)の教えを平たく言うと「欲をかき過ぎたり人を恨んだりすると苦しみが生じろくなことにならならない。そういう負の感情、執着が苦の原因だから逆にそれを自制すると苦が減り、穏やかに生きられますよ(四諦)」という事だと考える。無常や縁起の観察もこの実践的な目的に帰結する。

〇「汝の欲する事をなせ」が魔術の根本理念と思うが、快の対象には貪欲、不快な対象は憎悪。魔術の効能の有無に関わらず、欲をかき過ぎたり恨み過ぎたりすると、唯識で言う「現行熏種子」でそれなりの人格となりろくなことにならない。原始仏教が魔術の類を否定したのは負の感情を増長させるからと思う。

〇所謂「悪魔教」「黒魔術」等への批判は西洋一神教では「アンチキリストだから」「悪魔崇拝だから」というドグマチックなものになるが、東洋思想では「貪欲や憎悪など負の感情を煽り心を汚すから」とシンプルに説ける。例えば魔術の効能の有無に関わらず、丑の刻参りをするような人が幸福なはずはない。

〇「丑の刻」は方角で言うと鬼門=うしとらの方角を表すらしい。「うしとらの金神」を拝む大本教周辺勢力は「鬼」(出口王仁三郎)を名乗る。「鬼」は「悪魔」と違い一日にしてならず。闇の歴史の中で恨みつらみを重ね、何かを呪詛する事で鬼と化す。鬼勢力と提携の国際秘密力も結局「貪瞋癡」である。

(了)


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by kokusai_seikei | 2015-10-23 07:25 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

度々仏教哲学を援用する理由

吾人が仏教哲学をよく援用するのは、それが西洋哲学より優れた論理的思考の用具・枠組みと考えるから。陰謀追及には論理的思考が必要だが、それを鍛えるには哲学が有効と思うものの西洋哲学はキリスト教や形而上学と表裏一体でドグマや信仰がこびりついておりそのままでは思考用具には不向きと考える。

〇一方、仏教哲学は原始仏教と初期大乗である中観・唯識が世界的に見ても大変優れた哲学となっている。唯識が生きた学派(法相宗)として残っているのは恐らく世界で日本だけである。日本人が論理的思考を鍛える場合、キリスト教圏の哲学より仏教圏の哲学を援用した方が本来馴染むのではないか?と思う。

〇仏教圏の哲学がキリスト教圏の哲学より論理的思考の枠組みとして優れていると思う点は二つ①人間の判断できる範囲を超えた形而上学については判断を敢えて保留し言及しない「無記」の姿勢②「無記」と関係するが、逆に断定を下す事柄は基本的に経験的論理的に確かめられた事象に限定する実証的姿勢。

〇前述の①②の理由から仏教哲学を西洋哲学より優れた枠組みと判断し度々援用している。西洋人が論理的に思考する場合に西洋哲学の枠組みを使うのと基本的に同じで、東洋哲学の枠組みを援用する訳である。仏教哲学と言ってもピンキリだが原始仏教と初期大乗(中観・唯識)が優れている。特に中観は凄い。

仏教は「無常」を説くが「世界全体は常住か無常か」という命題には「無記」の態度を取った。では仏教は何について無常を説いたのか?五感と思考で捉える経験世界(眼耳鼻舌身意・色声香味触法=十二処)について無常と説いたのである。断定は飽く迄経験的に確かめうる範囲に限定する徹底した経験主義。

〇日本人は論理的思考が苦手と言われがちだが、自らの風土に合わない西洋哲学を無理に援用しようとするからではないだろうか?西洋の哲学的枠組みはキリスト教文化圏で育まれたものであり、仏教文化圏に生きる日本人には基本的に馴染みにくい。だったら仏教文化圏の哲学を援用したらいいと思うのである。

〇形式論理学の同一律・排中律・矛盾律は西洋の形而上学と存在論が前提になっている。「AはA、Aは非Aでない」と言える前提は「Aは自己同一的な実体である」という事。この存在論的な前提が無い限り西洋の形式論理学は成立しない。

〇これは常に変化する現象世界では必ずしも成り立つ法則ではない。つまり、現象は時間的存在だから昨日のAと今日のAは微妙に相違する。だが、形式論理学では「時間」は捨象されているから、昨日のAと今日のAは区別されない。それは只の約束事だから問題は無いが、変化する現象と乖離する事は事実だ。

〇西洋の形式論理学が前提とする西洋独特の存在論を対象化・相対化する視点を得てこそ、形式論理学も有効に活用できるというもの。東洋伝統の哲学はその視点を提供してくれると考える。日本人が論理的思考を鍛えるには元々伝統的に馴染んできた仏教文化から資源を活用すべきというのが吾人の結論である。


(了)



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by kokusai_seikei | 2015-10-23 07:25 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

時間観に見る東西思想の違い

〇ズルワーンに見られる「時=絶対者」という中東思想。これに対置できるのが「時に別体無し」という仏教哲学の考え方であろう。法=現象的存在の推移に名をつけて「時」とし、「時」自体が独存するわけではない、という捉え方である。我が国にも「存在即時間」という道元禅師の「有時」の哲学がある。

〇存在する事物は全て時間的に推移するので、「時」を別体として立てると「時」はいかにも万物を支配する「絶対者」の様なイメージになる。だが、具体的な現象的存在を離れて「時間」というものが独存するわけではないだろう。時を表す絶対者とは単なる抽象概念。事物に抽象概念を先行させた転倒である。

〇そういえば神道には空間を象徴する神(天御中主神)はいるが、時間を象徴する神がいない様な。「時に別体無し」の仏教とある意味同じである。「年神」はいるが、これは具象的な穀物の実りと結びついている農耕神である。抽象的な純然たる時間を象徴する神はいないと思う。ここが中東の信仰との違い。

(了)

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by kokusai_seikei | 2015-10-14 23:45 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

出口王仁三郎の「神」観

〇まるでカトリック。キリシタン神学の影響を感じる→出口王仁三郎「祈りは天帝にのみすべきものである。他の神様には礼拝するのである。私はそのつもりで沢山の神様に礼拝する、そはあたかも人々に挨拶すると同様の意味においてである。誠の神様はただ一柱しかおはしまさぬ、他は皆エンゼルである。」
http://www.onitama.net/modules/ot/index.php?content_id=10

〇出口王仁三郎の考えでは「神」とはただ一柱であり、それ以外は全て「エンゼル」(天使)だと。「天地の創造神」というキリスト教的な神を導入しつつも多神教の枠組みを一応維持していた平田派神学をさらに超えて一神教化させている。完全にキリシタン神学であり、少なくとも神道や仏教以外の何かだ。

(了)

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by kokusai_seikei | 2015-10-14 23:04 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

「無力増上縁」という考え方はNWOに対抗する発想のヒントになる

〇「人に迷惑をかけない」は無責任で縁起に悖る教えとおっしゃる方がいたが違うと思う。一口に縁起と言っても「因縁・所縁縁・等無間縁・増上縁」の四縁がある。このうち増上縁は有力増上縁と無力増上縁に分けられる。有力増上縁とは他が存在するのに積極的に関与する間接的原因・条件=縁である。無力増上縁とは他が存在するのを妨げない原因・条件=縁である。つまり「人に迷惑をかけない」とはそうすることで「他者が存在するのを妨げない」という立派な「無力増上縁」である。人に迷惑をかけない=無力増上縁の現成である。

※「因縁」とは物事の直接の原因としての縁。「所縁縁」とは認識対象としての縁。何かを認識する場合、その認識対象が所縁縁にあたる。「等無間縁」とは常に刹那消滅しつつ相続する心相続において、現瞬間の心の原因となる一瞬前の心。先行する心と現在の心の間に間隙がないから「無間」という。「増上縁」とは間接的な原因・条件の全て。物事の生起・存在を妨げない事も含む(無力増上縁)。

〇仏教の「他を妨げない縁」という無力増上縁という考えはすごい発想である。縁というと何か積極的なものを連想するが、それだけではなく、何かが存在する事を妨げない存在も縁と捉える。そういう意味では、銀河の果てにある塵芥も自分の存在を妨げていないという意味で「縁」があるということになる。何でも積極的に関与して結びつけるのだけが「縁」ではない。これは「博愛」や「正義」で偽装して多様な文化圏に介入して引っ掻き回し、それらを破壊した上で全世界を画一化していこうというワンワールド的発想に対抗できるアイデアだ。

〇超国家的権力が介入するのではなく、それぞれの国・民族・地域がそれぞれ主体的に国家や文化を営んでいく。それは相互の「絶縁」ではなく「無力増上縁」なのである。そういう発想が可能となる。先哲が残した遺産にはNWOに対抗する叡智が秘められている。


(了)

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by kokusai_seikei | 2015-10-13 22:53 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

カルトにはまらない為の思考上の指針

〇カルトにはまらない為の思考上の指針①体系化された思想・哲学(宗教的なもの含む)は一つの世界観モデルと捉え絶対視しない②書籍、特定人の主張・見解の類は参考にとどめ自分で思考する為の補助・素材とする。③できるだけ自分で確かめる実証性と常に「自分は間違っているかも」と自己懐疑心を持つ。

〇日本では多様な宗教が許容されてきたのは、宗教を一種の「世界観モデル」と捉える構えがどこかにあったからだと考えている。諸外国、特に一神教圏からすると日本人は神道も仏教もあるいは儒教もと無節操に見えるらしいが、人間が世界解釈する際の一つのモデル=宗教という構えなら複数あるのが自然だ。

〇世界の解釈モデル=宗教・思想・哲学。これが相対主義的と感じるのは一神教的な宗教モデルに影響されすぎているからではないだろうか。日本の歴史を見ると神仏共存神仏習合は一般的で、仏僧が「神国日本」と言ったり、禅と念仏の併修、仏僧が独自の「神道」を作ったり、神官が儒学を学んだり、は普通。

〇もちろん一向宗や日蓮宗など、熱心な「信仰心」(一神教的な意味での)に基づく排他的硬直性をもつ一神教的な宗教モデルはあるにはあるし、大きな力を持ったことはあるが、それで日本が全て覆い尽くされる事は無かった。神社にもお寺にもお参りする、という構えが日本人には一般的となっている。

〇江戸初期の禅僧でキリシタンを理論的に論破した「破吉利支丹」を書いた鈴木正三は禅と念仏を併修。禅と念仏が一神教的意味での「宗教」と捉えられていたらこれは無理。キリスト教とイスラム教の併修が不可能なように。座禅も念仏も煩悩退治の方便と捉えていたからこそ可能だった。世界観モデルも方便。

〇東洋思想や東洋医学等をカルトが憑依して乗っ取っている場合が多いが、その場合には、「形而上学的実体・超越者」「背後世界(イデア界等)の優越」「終末思想」「救世主思想」等々、本来日本や東洋には無いか、あってもメインストリームではない要素が見られるかどうかが見極めるための指標になるように思う。

〇東洋的な思想を掲げていても、今あげた要素をどこかにひそませているかどうかがチェックポイントになるように思うす。例えば、オウムはヨガを唱えながら、絶対神としてのシヴァ神への帰依を説き、、麻原=救世主妄想を持ち、グノーシス主義的霊肉二元論を前提とし、終末思想の最たるものであるハルマゲドン思想を保持等々。このような事例が多いので是非気を付けるべきである。

(了)

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by kokusai_seikei | 2015-10-12 23:37 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)

オウムの思想的ネタ元

〇以前オウム事件についての番組をやっていたが、その中で麻原彰晃は「物質世界から抜け出せ」「肉体は魂の牢獄」という趣旨の事を言っていたが、これは明らかに仏教ではなくグノーシス主義の思想である。仏教では物質は「無記」(価値中立)とする。宗教的な基礎知識があれば、カルトに簡単に騙されることはない。

〇宗教学者の大田俊寛氏によると麻原の思想は「霊性進化論」という思想の一形態であるようだ。ブラバッキー夫人の神智学協会の思想を起源とする。進化の果てに神人になった者と獣の次元に落ちた者の二種類が出現し、前者による後者の淘汰こそ世界のあるべき姿とする。アセンションの思想的元ネタの一つ。

〇神智学思想の中で違和感を感じる要素の一つがその「霊性進化論」に見る動物蔑視観である。これはキリスト教世界全般に見られる人間中心主義のバージョンの一つであると思う。神智学では神的存在に進化する人間と獣的存在に堕する人間の二種類がいるとする。オウムもこの思想を受け継いでいた。

(了)


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by kokusai_seikei | 2015-09-20 11:25 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)