ツイートまとめ テーマ:東西の倫理道徳思想の違いについての考察


〇西洋思想と東洋思想の違いは色々あるが(「常住不変の実体を認めるか否か」は指摘した)、規範とか倫理、道義道徳に関する考え方の違いが大きい。西洋では唯一とされる人格神への信仰が根強い。規範や倫理あるいは「自然法」は神が定めたものとされる。その為、道義道徳より人格神への信仰が優越する。

〇一方、東洋では人格神への信仰より、規範や倫理、道義道徳の方を根源的と見る。印度では「ダルマ」という行為規範に外れなければ幅広い形而上学(無神論すら)が認められるそうだ。原始仏教の主題は形而上学的思索ではなく「ダルマ」(普遍的な行為規範)の実践である。

〇支那では「」という規範の考察と実践が伝統的学問の主題である。「道」を人為的に定めたものとするか、天然自然のものとするかで、儒家と道家の違いが出てくるが、何らかの行為規範を巡る問題意識が中心となっている。儒家でも道を天=自然に由来するものとする考えが主流である(特に宋明理学)。

〇日本では古事記の神話にある天照大神須佐之男命誓約(うけい)の逸話が象徴的である。心が清いか否かを相互に誓約という古代の儀式によって決しようという話であるが、ここには神々さえ従わなければならない規範が暗黙に想定されている。古来より日本人は道義や道理を「お天道さま」と呼んできた。

〇原始仏典の中で仏陀は神々の教師として振る舞っている。つまり、ここでも神々さえ従わなければならない規範=法=ダルマが前提とされている訳である。キリスト教では規範は神が授けるが、仏教では規範に従った者が仏となる訳である。逆である。この規範に対する捉え方の違いが東西の根本的違いと思う。

〇「神が掟を作り人に命じる」という考えだと色々と問題がある。一つは、神が命じたという事にすれば道義道徳を容易に踏み越えてしまう事である。十字軍異端審問魔女狩りなどキリスト教の歴史がその証拠である。もう一つは神の存在が信じられなくなると規範も同時に無くなるニヒリズムの問題である。

ニヒリズムの問題は本来は西洋一神教世界でしか起こりえないものである。価値や規範の基準を唯一神への信仰に依存しているキリスト教世界では、近代以降に唯一神への信仰が薄れるとそこに基礎づけられた規範も相対化し崩壊してきた。これがニーチェが言う「神の死」である。

〇一方、東洋では人格神への信仰より道や法など規範そのものを根源的と考えるので、本来はニヒリズムは起こり得ないはずである。もしニヒリズム的状況が東洋にもあるとしたら、それは単純に西洋化の結果であろう。東洋ではニヒリズムは内発的なものではなく、常に西洋と相対するという外発的問題である。

〇東洋でニヒリズムが本来ありえないと考える理由は東洋では神の存在不存在は道義道徳の存在とは直接関わってこないからである。逆に道義道徳自体が神も人も規定すると考える。これは日本でも支那でも印度でも同じと思う。この考え方だと神の命令として道理に反する行いが正当化される可能性が低くなる。

〇我が国の例で言うと、山崎闇斎学派の浅見絅斎は幕末の尊皇攘夷思想に多大な影響を与えた、厳格な倫理道徳規範を説いた儒学者である。しかし、絅斎は師の山崎闇斎が神道に傾斜するとこれを批判し破門になった。一方で、闇斎も神は「理」としている。信仰が道義を基礎づける西洋との違いが明らかである。

〇山崎闇斎と浅見絅斎は神道に関する姿勢に違いがあるものの「道義に従い、心と行為を正す」という結論はあまり変わらないと考える。神崇敬を受け入れた闇斎も、拒否した絅斎もともに併存が許されていたのが我が国江戸時代である。「神を信じない」事が同時に無道とされるキリスト教社会との違いである。

〇神道では善神と悪神がいる。というより、どんな神も人間に恵みをもたらす面と災いをもたらす面があると考える。これは自然の両面であるとともに、善悪に揺れ動く人間に近い存在として考えられていた事を示すと思う。そもそも善悪はなんらかの基準に照らして言われる。基準が前提とされている訳である。

〇結論:日本でも支那でも印度でも東洋では基本的に道理が根本と考えられている。人格的存在は人間でも例え神であろうと道理に従わなければならないとされ、又は道理自体が非人格的神(天など)と捉えられたりする。この考え方は道理が信仰に優越するので宗教的悪行をも抑止できる優れた特徴を持つ。

〇神道・儒学・仏教・老荘という日本と東洋の主な思想で共通して言える実践規範は「己の心を清め、正すこと」だと思う。神道では清浄を重んじる。儒家は「人欲を去り天理を存する」(宋明理学=朱子学・陽明学の標語)と言う。仏教は煩悩を制する事を教える。老荘は無為自然に遊ぶ為に少欲知足を説く。

〇神道や孟子の性善説、荀子の性悪説、仏教や陽明学の善悪無記説、立場の違いはあれどとにかく「心から汚いものを払い除いて清め、正す」という実践規範である。東洋思想のエッセンスはこれだと考える。「己の心を清め正す」は外部の真実在と心を合致させようという神秘主義=「合一」系の思想とは違う。

〇神秘主義では心を外部の実在(神や一者、ブラフマン等)と合一させる事を目指すが、東洋思想では現にある心のあり方を問題とする。心の捉え方として、祖先から頂いたもの(神道)、刹那滅の心相続(仏教)、天が生んだもの(儒学)、其々違いはあるが、現にある心の修練が主題の自己鍛錬の道である。

〇宮本武蔵の「まよひのくものはれたる所こそ、実の空と知べき也」は実践的な意味での「空」の完全な定義だと個人的には思っている。迷いや煩悩を離れた自由な境涯で為すべき事を為す。現実主義を貫いた武蔵が自己鍛錬の果てに見出した境地は「空」だった。空は因縁に依って成る現実世界の論理そのもの。

〇西洋の因果律では「必然性」という考えが支配的。因と果の関係は単線的かつ必然的であり、原因が定まると結果も定まると考える。そして自由意思と因果律は相反するものとされる。因縁の考え方は因のみで果があるのではなく必ず縁=条件を必要とすると考える。ここには「偶然性」を容れる余地がある。

〇「因に縁も加わって果がある」という考え方は明るさと希望がある。縁を変える努力をすれば果も自ずと違ったものになるからである。西洋の因果律が暗いのは、絶対的な第一原因というものを立てる事によると思われる。定まった絶対唯一の原因を最初に置くと後は必然的な因果の系列しかないからである。

〇自由意思と因果律は相反する、という考えはおかしい。自由意思も因や縁となりうる。説一切有部など初期仏教の「惑→業→苦」論では主に意志的な行いとその結果の関係で因果律を捉えている。また現代の法律でも行為と結果の因果関係の確定を重視する。https://ja.wikipedia.org /wiki/因果関係_(法学)

https://twitter.com/kikuchi_8/status/734775172280942594


(了)

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by kokusai_seikei | 2016-08-24 07:08 | ツイートまとめ | Trackback | Comments(0)
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