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江戸時代の知識人の合理思考

〇新井白石はシドッチ訊問に関し「大君大父」としての造物主を認めると君父への忠孝が蔑ろになると批判している。これは江戸時代の封建道徳の視点からの批判に見えるが実は一神教への本質的批判に通じる。つまり、超越者を優先する為に君父に限らず人や自然など現実の存在を蔑ろにする弊害の指摘である。

〇新井白石はシドッチを訊問して、この西洋人の形而下的学芸に関する知見には感嘆すると同時に、一端キリスト教の話になると急に愚昧になる賢愚の落差に驚いている。これは技術文明は大変発達しているが、それを御する人間精神は迷信で規定されている西洋世界そのものの評価に通じる。江戸期学者の慧眼。

〇キリスト教の教義を「嬰児の語」(子供のタワゴト)と切り捨てる新井白石→「其天戒を破りしもの、罪大にして自贖うべからず、デウスこれをあはれむがために、自ら誓ひて、三千年の後に、エイズスと生れ、それに代りて、其罪を岡へ贖えりという説のごとき、いかむぞ、嬰児の語に似たる。」(西洋紀聞)

〇西洋の権威に盲従する明治以後の知識人には不可能な、非常に率直な新井白石のキリスト教評。西洋の実用的な学芸については高く評価しているので、西洋への特別の偏見無く、見たまま、感じたままを率直に述べていると思われる。江戸時代の知識人にはキリスト教は云々する程もない幼児の戯言であった。

〇明治以後のキリスト教化された知識人より、江戸時代の儒者や仏者の方が合理的世界観を持っていたと思う。明治以後、技術文明は発達したが、精神文化の方はむしろ江戸時代より退化したのではないか。西洋化=合理化とは限らない。新井白石が嬰児の戯言と評したキリスト教が影響拡大したのは退化では。

〇江戸時代の儒者は「気」と「理」という概念で以て世界を説明する。気=現象、理=法則である。実にシンプル。これは当時の知識層の基礎教養だった宋学の概念だが、元々は華厳哲学の「事」「理」という概念に由来しているそうだ。理に優越性を認めるのが朱子学(形而上学的傾向)で、理を気の条理とするのが陽明学や古学(一種の現象主義)。

(了)

by kokusai_seikei | 2015-10-26 00:34 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)


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