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「偶像崇拝」について

一神教では、偶像崇拝がいかんと言われるが、「造物主」崇拝というのも偶像崇拝ではないだろうか。物質的な偶像と言えども認識主体に認識されている限りでは知覚的な表象である。造物主概念は想像的な表象である。それぞれ知覚的か想像的かで違いがあるだけで、対象的事物であることに変わりはない。仏像を破壊するときのキリシタンの心像風景を想像するに、彼らの意識対象には強烈に「でうす」という想像的な表象が浮かんでいたと思われる。仏像という知覚表象より「でうす」という想像表象が優越する合理的理由などは無い。仏教では「縁起・無自性・空」を説くから究極的には対象化は否定される。意識は意識作用(主体=見分)と意識対象(客体=相分)からなる。「造物主」という想像的な表象以外は全て無価値とするのがキリスト教である。唯識仏教ではあらゆる対象は意識作用の対象面だと考えるから「造物主」も形として浮かんだ仏も単なる意識対象=相分という事になる。

(了)

by kokusai_seikei | 2015-09-15 22:38 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)


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