イルミナティ思想の核心「理性崇拝」

以前、政府や自治体がマンナンバー制を応用して国民一人一人の健康状態を把握して健康管理をする制度を検討という話があった。違和感が凄い。これがブレジンスキーが言う「テクノトロニックの時代」か?国民の利益を謳いながらさり気なくオーウェル(国際秘密力の宣伝係だと考えている)が描いた世界に近づけつつある


ブレジンスキー「各個人に対する社会的・政治的管理を主張する立場が大いに強まるだろう。間もなく全市民に対する継続管理を主張することができるようになり、通例のデータに加えてすべての市民の健康と私的行動に関するもっとも詳細な個人データを含む最新ファイルを維持することが可能になるだろう」

ジョン・コールマン著『300人委員会』から引用。マイナンバー制にしても、このブレジンスキーの「予告」の通りの方向に進んでいるように見える。ブレジンスキーは国際秘密力の知恵袋的な位置にいるので、個人情報の集約は国際秘密力が推進するNWO征略の一環だと思われる。


高度なテクノロジーによる管理支配というのはまさに「イルミナティ」の思想。理性を軽視又は放棄するキリスト教への反動から理性を過信する理性崇拝教が生まれた。両極端だが、何かを実体視して妄信している点は共通している。キリスト教で崇拝する「造物主」を内面化したものとしての「理性」を崇拝。理性とは推論する能力。推論には出発点が必要。最も確実と思われる出発点は知覚等により経験的に確かめられたもの。できるだけ不確定な要素が無い方が結論はより適切になる。だが自然が対象ならまだしも統治体制をデザインするにはあまりに不確定要素が多すぎる。これが「できる」とするのがイルミナティ。

だが、理性は理性自身を疑うくらいでやっと正常に機能する。「万能視」や「崇拝」などもっての他。最近目に付く、情報テクノロジー等で世界支配をしようという発想は理性崇拝的前提からしか出てこない。一神教の迷信で世界を支配しようとするのと大差が無い、どころか理性崇拝とは形を変えた一神教の一種。推論能力としての理性は比較的確実な知覚による経験が可能な自然現象に適用する分には割りと的確な結論が出る。だが理性でゼロから統治秩序が設計可能か?理性を機能させる前提はこの場合どこに置く?各国の歴史・文化の相違等の不確定要素が多いので理性を全世界に適用してNWOを構築など不可能。


そして、自然現象への適用すら西洋流の認識論を前提にしていては怪しい面がある。対象自体・意識内容・意識作用という近代哲学の三項図式からすると「自然界そのもの」(があると仮定して)は不可知であるとせざるを得ないからだ。人間にとって現前する自然はどこまでも視覚や触覚、あるいは思考作用で概念的に把握された限りでの「自然」である。着実な現実認識にとって、「物自体」のような形而上学的対象の措定は不要ではないか?とエルンスト・マッハは指摘しているが、これは大いに考えてみるべき事である。大森荘蔵氏は「立ち現われ一元論」という認識論を唱え、対象と表象(人間に認識された限りでの現れ)の二元論を否定している。素朴な物心二元論や三項図式に立脚する限り、理性の自然現象への適用ですら形而上学的な罠にはまる危険性があるという事である。それに、人間の「認識」の場面だけではなく、量子力学(これについては吾人は無知ですが)などで解明されたミクロの物質世界における「非決定性=一義必然性の否定」からすると、自然界そのものが不確定要素を含んでいる事が明らかになっているようだ。


自然界ですらそうなのだから、複雑な人間の意志や感情が交錯して形成されている社会組織のデザインを理性の能力でゼロから構築するのは不可能事だと思われる。社会組織は歴史的慣習の叡智を重視しつつ、悪い部分は慎重に改良していく、という漸進的なあり方が無難と考える(自然現象こそ不確定で不可知なものではないか、というご指摘を受けた事があるが、確かに、認識主体としての人間に現前してくる「自然」とは常に視覚や触覚等の感覚作用、思考作用で把握された概念としての「自然」であり、意識作用を離れて「自然」を感知することはできない。その意味で確かに「唯識」である。)。


認識主体に立ち現われてくる五感の作用(電子顕微鏡等の器具を使った拡大された知覚を含む)を概念的にまとめて、その規則性を記述する=科学といえるかもしれない。「理性」は感受された五感作用を概念的にまとめた上で、概念同士を操作して推論を遂行する能力と言えるかもしれない。五感として現成する自然現象は一応規則的だから自然科学は比較的正確。このように自然科学の場合は理性を機能させる前提を広義の感覚や知覚に置く。だが「理性で世界政府を構築」となると、何を基礎に「理性」を機能させるのか。NWOは理性を過信した者以外からは出てこない。


【理性崇拝】とは、大東社・(大東社に潜り込んだと言われる)イルミナティのフロント・フランス革命左派=ジャコバン派が理性崇拝の祭典を挙行したように、キリスト教における「造物主」を「理性」や「最高存在」という表現に変えただけの一神教の一種であった。西洋の無神論者は耶蘇教徒と根が同じなのである。繰り返すが理性崇拝とはキリスト教の「造物主」を「理性」に変えただけの実体的な絶対者崇拝。西洋における反キリスト教思想は発想の根底がキリスト教と共通。

※ 引用:キリスト教に代わる理性崇拝のための祭典を開く必要に迫られていた。ロベスピエールは、「もし神が存在しないなら、それを発明する必要がある」と語ったという。キリスト教の神に代わるもの、それが「最高存在」である。【最高存在の祭典】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E9%AB%98%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%AE%E7%A5%AD%E5%85%B8

※引用:(理性崇拝とは)神に代わり人間の「理性」を崇拝しようという非キリスト教化運動。【理性の崇拝】http://www.y-history.net/appendix/wh1103_1-075.html

フランス革命時におけるキリスト教の代替宗教についてだが、エベールは理性を崇拝し、ロベスピエールはそれを批判し「最高存在」(「自由」の理念のことらしい)を崇拝する。これはあまり大差ないだろう。前者は認識主体の側を実体化して崇拝し、後者は認識対象の側を実体化して崇拝しているだけの違い。唯識で言う見分と相分を其々実体化した「無明」の立場。「我法二空」(「我」は主体、「法」は客体、主体以外の事物)というが、理性崇拝は主体である「我」を実体視して固執する「我執」の立場、「最高存在」の崇拝は客体である「法」を実体視て固執する「法執」の立場、と言えるかもしれない。いずれも実体論の範疇である。


要するに、キリスト教と大東社・イルミナティは根を同じくする双子みたいなものだという事である。英国フリーメイソン系の神秘主義も兄弟である。神秘主義の基礎は新プラトン主義であり、ここでは根源的実在としての「一者」を信奉する。キリスト教では「造物主」、神秘主義では「一者」、理性崇拝では「理性」、根は同じ。
理性崇拝にしろ、理性崇拝を人格神的に表現したと思われるルシファー崇拝にしろ、「神との合一」の西洋神秘思想にしろ、キリスト教世界のフレーム内での相互対立でしかないわけである。非耶蘇圏からするとまさに「しらんがな」ということである。


他の何ものの存在も必要とせず、それ自体で存在する実在としての「常一主宰」(恒常的で単一な主体。しかしこれ自体矛盾。不変恒常的で単一なら主体は変化しないから働きを持てない)な実体(仏教で言う自性。この否定が空)を信奉する点で、一神教も神秘主義も理性崇拝も共通。「空」(勝義)を踏まえない哲学的立場(なんらかの実体を想定する実在論の立場の事と思われる)は全て「道理世俗」と呼ぶらしい。「実体」は「不変」をその性質としているので、実体を想定すると変化する現象世界が説明できず、必然的に現象と実在の二元論二世界論に帰結する。


(了)




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by kokusai_seikei | 2015-09-15 01:08 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)
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