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西欧人による「仏教は虚無を説く」という曲解について

西欧側による「仏教は虚無を説く」という曲解があるようなので、その辺について自分なりの見解を述べる。それプラス、形而上学的思考が生まれる機制について。


仏教は仏陀が「自己と法に頼れ」と弟子に言い残したように「法」を重視する教えである。法とはいくつか意味がある。人が則るべき規範であり、宇宙の法則であり、法則によって存在する事物である。総じて一定の規範や決まり、法則を意味しており無秩序や混沌と言うニュアンスの「虚無」とは真逆である。


西洋近代哲学信者は仏教を虚無主義と曲解するが前述の通り間違い。イメージだけで物事を論じストローマン(相手の主張をねじまげて解釈する詭弁の一種)を駆使するあたり、キリスト教原理主義者が異教徒を「悪魔崇拝者」と妄想するのと酷似。やはり近哲信者は耶蘇やスピと共に「だんご三兄弟」だ(笑)


では何故に西欧近代哲学信者は仏教を虚無と曲解するのか?それは特殊な思考傾向に由来するはっきりした理由がある。彼らは個々の事物や現象を自存的な実体と見ることしかできない。従って実体であるはずの事物や現象が無常である事に耐えられないのだ。だからプラトンの様に形而上学的実体に逃げ込む。


現象は常に変化するが、そこには変化しない規則性・法則性がある。つまり現象には変化と不変の性質が含まれている訳である。華厳と易経の表現を借りると「事は易にして不易」という事である。ここを見抜けない者は現象の変化に頼りなさを覚えイデア説や一神教など数々の形而上学的迷信を作り上げた。


この「実体」という観念にこだわり続ける限り彼らが真に仏教哲学を理解する事は難しいだろう。


(了)

by kokusai_seikei | 2015-09-14 23:36 | 思想哲学 | Trackback | Comments(0)


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