かつて西洋哲学信奉者と対話にならない対話のような事になった事がある。対論相手の方は「時間の一性」という事を盛んに仰っていた。「一性」とは「ト・ヘン」の事らしい。つまり、究極の実体。新プラトン主義の「一者」=ト・ヘンの概念はキリスト教の神学に影響したことはよく知られている。つまり、「時間は一性」とは「時間は神」という新手の形而上学なのである。 これはズルワーン信仰に見られる様に時間を絶対神とする中東宗教の系譜に連なる傾向的思考と言える。「時間は一性」はかかる傾向的言説であるので「その思考は無意識(自覚されざる)の前提があるのでは?」と問うた。だが「私に実体としての無意識などない」と言う明後日のお答えを頂き戸惑った。
※「時は一性=時は一者=時は神」なる見解はこれの近現代版と言える→引用「ズルワーン (Zurvān) は、後期ゾロアスター教の一派ズルワーン教に於ける創造神。その名は時間を意味する。」【ズルワーン】ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA… ※一神教の「天地の創造主」という概念は、すべてに先立つとイメージされて実体視された「時間」の人格化から発展した可能性があるのでは、と考えている。「空間」より「時間」の方が一神教の超越者に形象化されやすいようだ。時間崇拝→一神教の可能性。古代の仏教哲学者が「時に別体なし」と言って、時を実体視する事を否定していたのは、時を実体視すると、いずれ人格化され排他独善的な一神教のような怪物を生み出すことを予見していたからだとしたら、これはとてつもない叡智と先見性と言える。一神教の発生を根から封じているという事になるからだ。また、相対性理論では時間と空間は相互浸透的であり自存的な「絶対時間」「絶対空間」というものが否定されているそうだ。まさに「時に別体なし」。「時は一性=時は一者」なる形而上学はこの意味でも成り立たないことが明らかとなる。「時は一性」ではなく「時は空性」が正解。空性=自性(実体)の欠如。相対性理論をわざわざ持ち出さなくても、「時間」がそのまま対象として人間の認識に現れる事はない訳であるから、現象世界においては現象と時間は「即」である。つまり有即時。有事(うじ)である。認識された現象世界以上の自存する「時間」を「一性」と立てれば、それは文字通り「形而上学」なのだ。「時間」を「一性」にしろ「一者」にしろ「(一神教的な究極実体としての)神」にしろ、形而上学的に立て、自存視する所から、排他独善的なカルト思想が生まれる面があると分析する。人間が持つ推論能力である「理性」を実体視して崇拝する理性崇拝と同断なのだ。つまりイルミナティ的カルト思想。 「あれ、これはどこかで見た反応だな?」と思った。そう、キリスト教徒、カルトやスピ信者がその信仰を客観的に分析されたり、相対化された時の火病反応とほぼ全く同じなのだ。西洋近代哲学はそもそも牢固としたキリスト教社会の中から生まれた産物。同根なので反応が同じである意味当然であった。西洋近代哲学はキリスト教文化が前提。西洋近代哲学信者はその当たり前のことを指摘され、相対化されることを嫌うらしい。彼らにとってキリスト教的世界観は絶対の前提らしいのだ。しかも、そこに無自覚な所が始末に負えない。反応の仕方を見ると、西洋哲学信者はスピ信者とほぼ同類だと思う。 カントの霊魂論は当然当時のキリスト教文化の霊魂観が前提とされていて、特殊西欧的な相対的なものに過ぎないので、それを指摘する為に「霊魂観は文化的に相対的」と言ったら「文化論」?と意味不明の反発をされた。キリスト教的霊魂観は文化的に相対的ではなく普遍的と言いたいかのようだった。しかし、これは本人には無自覚の様に見えた。つまり、本人も自覚できない程キリスト教的前提が染みついているのだ。そのことがありありと見て取れた。その時の対話での収穫と結論は近代哲学=キリスト教の変奏と改めて実感できたこと。西洋近代哲学信者は本質的に通俗的なスピリチュアル信者と同類だという事。 西洋近代哲学信者は「私はキリスト教徒ではない」と言っていたが、「キリスト教的前提があるのでは」という問いは「あなたはキリスト教徒か?」という問いではない。「あなたが信奉する哲学思想はキリスト教の土壌から出てきており、その特殊性・相対性に無自覚ではないのか?」と問うたわけである。そして西洋近代哲学信者の世界観的前提を客観的に分析しようとしたり、相対化しようとすると、スピ信者とほぼ同じ反応をすることに気づいた。どちらもキリスト教の土壌から生まれただけによく似ている。理論武装の度合が高く、一般にも「インテリ」と思われているので彼らを「高級スピ信者」と命名したい程である。 スピ信者と西洋近代哲学信奉者の共通点は、彼らの世界観的前提を客観的に分析しようとしたり、相対化させようとすると、火病を発症すること。西洋近代哲学は一見冷静な合理主義に見えるが、基本的にキリスト教の土壌から生まれたその変奏でしかない。その意味でスピと近代哲学は実は同根同類なのだ。西洋近代哲学信者はキリスト教的世界観という前提があるので、実は脆弱である。彼らの依拠する前提は西欧キリスト教文化という相対的なものに過ぎないのに、彼らはそれを隠蔽した上で「普遍性」を偽装している。そこに触れると、まるでカルトやスピ信者の火病のような反応をすることがあるようだ。 「時間は一性」などというものは今まで中東以西にいくらでもあった単なるありふれた形而上学の一種である。つまり「時間は一性」→「時間はト・ヘン=一者」→「時間は究極実在」→「時間は神」。後期ゾロアスター教のズルワーン信仰みたいなものを近代的にソフィストケイトしたものにすぎない。要するにキリスト教の変奏に過ぎないわけである。実にありふれた形而上学。それで認識論を解決した、などと喧伝されるので遠回しに「力技」と申しておいた。「新しい形而上学を作ったところで解決になってないですよ」という意味だ。 そしてそれはキリスト教文化という相対的な文脈が前提になっているので「あなたには無意識な(自覚しない)前提があるのでは?」と指摘したら「私に実体としての無意識などない」とトンチンカンな論理的に全く噛み合わない答えをされてはぐらかしておられた(素の反応の可能性は高いと思う) 。 キリスト教徒やカルト信者と並び西洋近代哲学信奉者も、「自己相対化」という事がとことん苦手らしい。彼らの依拠する絶対的前提が揺らぐことへの過度な恐怖心を持っている。例えば「空」を「虚無」と曲解し感情的に反発するのは、「実体」概念という自らの基盤を掘り起こされる事への恐怖心だろう。西洋近代哲学信者は「空」や「無常」を虚無と曲解する。しかし不変の「実体」を想定する事が実は虚無なのだ。変化しないからどのような意志的努力も無意味となってしまうからである。より良い自分になろうとしたり、良い環境を作ろうと努力することも変化しないなら全て徒労。これこそが「虚無」だ。 この時の闘論を通じて、西洋近代哲学というのは、いくら理知的に見えるようにいかめしく装飾していても、所詮キリスト教をベースとする脆弱なコケオドシに過ぎない事が改めてよく分かった次第である。(了)
by kokusai_seikei
| 2015-09-14 23:31
| 思想哲学
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by 菊池 カテゴリ
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