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唯識と廣松哲学

「唯識」について。唯識とは唯物に対する唯心のことではない。物と心が分離していない事的世界観だという見解をとる。つまり、あらゆる心理現象、物理現象、社会現象が成立する意識という場との相関で全てを考えていこうという構えである。実体としての精神が万有を作るという西洋の唯心論とは異なる。


「事的世界観」というと思いだすのが廣松渉だが。この人はマルクスの物象化論の延長に事的世界観に辿り着いたということのようだが、個人的には廣松哲学は大乗仏教哲学の現代的精緻化という感じがする。この人はあきらかに仏教哲学を勉強している。「無自性・空」「依他起」という中観・唯識の用語が著書に出ていたのには驚いた。廣松氏は政治思想的には新左翼の代表的イデオローグであり最後までマルクス主義者ではあったが、その「哲学」については西洋の実体主義を超克する優れて東洋的ともいえる可能性を秘めていると思う。マルクス主義と切り離し廣松哲学を大乗仏教哲学の現代精緻化として参考にすることは十分可能であろう。


唯物論も完全に破壊される。「物質」という概念は意識に立ち現われる触覚や視覚という所与を「近代西洋」という共同主観の体系に属する「物質」という所識として認識されたものということになるであろう。「物質」なるもののの先住という唯物論は成り立たない。「物質」自体観念的性質を持っている。「物質」が成り立つためにはそこに主観が関与していた!この論点は万象を「唯識所変」とする唯識哲学と合わせて考えてみたい。意識に現れる現象世界がすべて「として」(所識)認識されるなら万象はすべて心的性質を持っているともいえる。唯識とは単なる観念論ではなく事的世界観である。


「精神」の先住を説く西洋的観念論も唯物論と同断。我が神道で言う「モノ」と「物質」は概念的に全く違う。廣松的に言えば共同主観の体系が異なるからということになるかもしれない。思想闘争とはある意味共同主観の体系同士の闘いと規定できる。「モノ」概念と「物質」概念の闘いは神道と唯物論の闘いである。


廣松渉哲学まとめ。対象の二肢性。人間にとって意識に立ち現われてくる現相世界は所与と所識の二肢成態。主体も「として」の構造で二肢。所識たるものも主体の側の共同主観の体系によって決まる。認識の四肢的構造連関。四肢たるそれぞれも関数の項にすぎず自存的なものではない。徹底した実体の否定。


日本の左翼というのは反権力を看板にするものの、基本的に西洋崇拝者である。西洋崇拝者であるので、当然実体主義的である。「西洋」という「始原」を崇拝し、日本をそれに「帰一」させようとする。関係主義的な廣松哲学がサヨク業界でどのように受け取られているのか知らないが、相容れない気がする。


(了)


by kokusai_seikei | 2015-09-14 23:04 | 思想哲学解析 | Trackback | Comments(0)


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